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第5話 ISC②
静まり返った通路を見渡し、キルヒャーはちっとも感動していない口調で「階ごと貸し切っているの? 流石だね」と言った。しかしキルヒャーは警備部門にいた頃も、人事部門のトップになった今でも、春夏秋冬感動とは無縁の発声だった。
「嫌味はよせ。俺も知らないうちに担ぎ込まれていたんだ」
病室へ戻ると、昨日目を覚ました際には一般的な個室とばかり思っていた部屋の壁が移動式で、壁を取り払った全貌は二倍以上の広さがあった。
そして患者用のベッドや小さな流し場、棚とは逆の方に広々と置かれたソファやテーブルは完全に来賓用のそれであり、患者が寛ぐためのフットスツールまで転がっている。
キルヒャーがソファに座ると、シーシャは背もたれの後ろへ立った。ケヴィンはキルヒャーの向かいに座った。
「君が何かクイーンズレコードの良くない秘密でも知ってしまったのかと心配したんだけれど、これは単にお客様からのご厚意ということで良さそうだね」
「俺を轢いた車について調べてるのか?」
「調べる理由はないな」キルヒャーは穏やかに言った。「それは警察の仕事だよ」
「午前中にその警察から聞いたが、結果から言えば犯人は捕まっていないし直接の目撃者もいない。フロスト区の道路に転がっていた俺をトラックの運転手が見つけて通報したきりで、有力な証拠が無いそうだ。唯一タイヤ痕と俺の靴底についていた塗料からペルシアンだということだけ分かっている」
警察が訪ねた際に見せられた高級外車の画像はインターネットでも簡単に見ることができる。シーシャが音もなく取り出した携帯で検索をかけ、画面をキルヒャーに見せる。
キルヒャーは画面に映る純黒の車体を眺め「へえ」と気の無いため息をついた。
「すごいね、ダンダリオス社の高級外車を轢き逃げに使う人がいるんだ」
「俺もそう思って何かやらかしたのかと疑ってる」
「でも肝心のところが記憶に無いと」
「俺が記憶喪失なのは医学が証明してる。反応検査のペーパー読むか?」
「君のことは疑ってないよ。私は採算が取れればそれでいい。君がもし使い物にならなくなったら、その分の補填の為に警察にもっと協力するけど、君は元気だ。666の二人は君の入院中の護衛は必要としていなかったから債務不履行は訴えられていないし、そして君の医療費はもう支払われている。ISCはこの件でひとつもマイナスを出してない」
「労働組合がやっと俺に労災認定を出してくれたか。感激したよ」
ケヴィンの冗談をキルヒャーは無視した。
無視して、ケヴィンの冗談の内側にある質問に答える——一体誰が入院費を支払ったのか?
「個人名までは聞けなかったな。逆に言えば、口止め料含めて個人が支払ったようだよ。クイーンズレコードでもなく、666の二人でもないらしい」
ケヴィンは眉を顰めた。セントラルの一等地に立つ病院の、しかも正面玄関とは別個の入り口を持つ入院棟の最上階にかかる個室の入院費は決して安くないだろう。てっきりクイーンズレコードの口利きで放り込まれ、後々ISCに請求が来るものだと、ケヴィンとキルヒャーの予想はその点で一致し、そして裏切られた。
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