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第7話 二人目①

 ドミトリ・カデシュは話の早い男だった。お互い対面の席について、ほとんど同じ高さに視線を揃えても決して合うことのない目はもしかするとケヴィンの頭蓋骨をすり抜けて数秒後の未来を見ているのかも知れなかった。  簡単な確認事項を、それはケヴィンの記憶喪失のことがほとんどだが、行った後、昼時だというのに個室のカーテンが引かれたままだったことに気づいて席を立った時、ケヴィンは先ほどまでドミトリが見ていたのが、たった今席を立ったケヴィンだったのではないかと思った。  カーテンを開き、窓も開ける。氷色の高い空に、病院前のリハビリステーションを兼ねた運動場や屋内プールが見える。  既に十月も半ばだというのに、プールには黄色や赤の派手な水泳帽が二十五メートルのレーンをゆっくりと行き交っていた。しかしそのほとんどがケヴィンの母親や父親の年齢だと思うと、散歩がてら足を運びたいとは思わなかった。  窓ガラスに映ったケヴィン自身と目が合う。痛みきってほとんど白に近い金髪に青い目。自分で何度も見たことのあるケヴィン・カタギリの顔だ。記憶と違うのは、車に撥ねられた時についたのだろう左の上瞼から走る小さな切り傷と、やけに深い目元の隈ぐらいか。 「何か面白いものでもありましたか?」  知らず知らず呆けていたケヴィンの背にドミトリの声がかかる。「あ、いい風が入るなあ」 「いや、ちょっとな」  ケヴィンは窓を離れ、もう一度ソファに座った。「街並みを見ていた」 「ああ……記憶にありましたか?」 「幸いなことに。セントラルの街は知っているし、周辺の区についても覚えている」 「では、本当にここ一年のことだけ忘れてしまったんですね」 「やはりそうらしい」 「ミランが荒れるわけだ」  ミラン。ケヴィンが口の中で音にせずその名前を転がす。苦い味がした。  ドミトリは記憶喪失の件をすでに聞かされていたことを差し引いても、昨夜の、より正確には既に今日になっていたが、ミランの反応よりずっとあっけらかんとしている。  ケヴィンにミラン・アーキテクトとドミトリ・カデシュについて教えてくれた雑誌によれば、この二人の付き合いはもう五年以上にもなる。早生まれのためにドミトリはミランより一つ年上だが、ほとんど同い年の二十四歳だ。  ミラン・アーキテクトについて知るならドミトリ・カデシュ以上の情報源は無いだろう。  ——そんなことを考えながらも、ケヴィンの口は別の形で動いていた。 「ミラン・アーキテクトか、どうしてだ」 「ミランとはもう会いましたよね?」 「今日の午前一時前まで病室にいたよ。彼についても記憶がなくてな。ずっと見舞いに来てくれていたようなのに申し訳ないことをした」 「カタギリさんとは昨年春に開催された音楽祭からの付き合いになりますが、カタギリさんを専属にしようって言い出したのはミランですよ。当時の音楽祭にはISCさんや他の警備会社からもチームで警備に来て頂いてましたが、その時ミランがカタギリさんを特に気に入ったみたいで」 「それは光栄だ」 「とはいえこれはこっちの話なので、例え記憶があってもカタギリさんはご存知ないことですね」 「俺は君たちとは上手くやっていたか?」 「カタギリさんが本心で私たちをどう思っていたかはさておき、私たちはカタギリさんに良い印象を持っていますし、良い関係だったと思っています」 「やけに慎重な物言いだな」 「それは、ほら」ドミトリは腕を組んで眉を下げた。「色々とご迷惑をおかけすることもありましたから」  ドミトリの視線を初めてケヴィンは感じた。無意識にその位置に手を当てる。左目が隠れた。 「もしかしてこの左目の切り傷は、君たちの護衛中にトラブルがあったのかな?」  しかしケヴィンの問いかけをドミトリは否定した。 「いいえ。ただ、いつだったかな、確か五月か六月ぐらいだったと思います。仕事の移動で迎えに来たカタギリさんの目に、もうその傷があったんです。私がその傷はどうしたのかと聞いたら、カタギリさんは酔って転んだと言っていました」 「成程、この傷についちゃ深く考えないで良いようだ」 「あはは」  ケヴィンはもう一方の手に握ったままの林檎を弄びながら、しかし目元に当てた指は離さないでいた。そこだけ周りより新しく貼り直された皮膚は気持ち悪いほどつるつるしていて、縁がかすかに盛り上がっている。  これは切り傷だ。  酔って転んだとすれば転んだ際に顔を傷つけたことになる。床かカウンターか、体勢を崩して突っ込んだ——顔から?——腕や手には一つも傷がないのに?——そして目元を傷つけた。  頬や顎や鼻ではなく、目元だけ。顔の凹凸の中でも奥まって凹んでいく瞼から額にかけて。狙い澄ましたような急所にのみ。  まるで誰かが刃物を持ってケヴィンの目元を切りつけようとしたが、寸でのところでそれを躱した結果と言われたほうが納得できる。  しかし目を狙われるような状況なら、ただの酔った席での喧嘩では済まない。

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