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第8話 二人目②

「ケヴィンさん?」 「——なんだ」 「難しい顔をされてますね、体調がまだ優れないのではないですか」 「そんなことはない。寝過ぎて頭痛がするぐらいだ、今日も本来ならトップアーティストの君を一人で見舞いに来させるなんて論外だ」 「この病棟はそれなりに融通が利くから平気ですよ、それに私は結構外歩いててもバレませんし」 「君達との契約内容を確認しただが、俺は基本君たちの行動に随伴することになっている。債務不履行で訴えられたら俺の負けだ」 「訴えられたら、の話でしょう」 「正直、君たちがこの件でISCに新しい担当を要求しないのが不思議でならない。丁度オフシーズンを挟んでいる今なら引き継ぎ事項もない。俺の為の言い訳じゃないが、契約を見直すなら今が一番良い」  ドミトリはまた何処を見ているか判然としない優しい目に戻っていた。 「さっき私があなたをなんて呼んだか覚えてます?」 「突然ファーストネームで呼んだな」ケヴィンはソファの背もたれに深く沈んだ。「構わない、それはなんら問題じゃない」 「林檎」 「林檎?」 「林檎を選ぶと思っていました」  ドミトリが人差し指でケヴィンの手にある赤い果物を示した。そしてその指を畳むと、ゆっくりと、精密な部品を組み合わせるように両手の同じ指先どうしを合わせた。 「あなたはアップルパイが好きです」 「小学校のドリルにありそうな例文だな、俺は何語に訳せばいいんだ?」 「セントラルの目抜き通りにある三角形のケーキ屋で、一つ四百五十円のアップルパイがあります。あなたの大好物です、シナモンシュガーがたっぷりかけられている」 「何が言いたい」 「私とあなたは二人きりでそのケーキ屋に行ったことがあります、今年の、梅雨がまだ明けきらない時期に」 「微笑ましいエピソードだ、心が温まるよ。記憶にないが」 「その後に私のマンションに行きました」  ケヴィンの指先が林檎の表面にかすかにめり込んだ。赤い表面の皮に亀裂が入り、果汁が滲む。 「その後、あなたが再び私のマンションのドアを開けるのは翌朝の六時です。さて私たちは、ケーキ屋の帰りドアを開けて、次にドアが開く翌日の朝まで何をしていたでしょうか?」  悪魔の問いかけだ、とケヴィンは思った。顧客でなければ問答無用で襟首を掴んでいたかも知れない。しかし顔は殴らないだろう。 「映画鑑賞とか?」 「それもしましたね」 「俺はソファで寝た」 「初めのうちはね」  両手で作った三角形の奥にドミトリの口元が見えた。緩やかにたわんだ唇が今にも開き、その奥からどんな言葉が飛び出てくるかを考えるのは、まるで夜眠っていた子供がふと目を覚まして、締め損ねたクロゼットの隙間の奥に何がいるかを考えるほど恐ろしいことだった。 「安心してください、何が起きていても双方同意の上ですから」  ドミトリ・カデシュはあくまで悪魔のように優しく宥めるだけだった。  故にケヴィン・カタギリもあくまで人間らしく全てを疑ってかかるだけだ。 「双方同意があればなんでもして良いって訳じゃないぞ」 「とっくに未成年じゃないので、そのあたりはどうも」 「君は語文のドリルより道徳のテキストを暗記したほうが良さそうだ」 「面白いですね」 「君、B級映画とか好きそうだな」 「ええ」ドミトリは少女のように顔を綻ばせた。「あなたのコテージに山積みにされているDVDもB級映画しかありませんからね。サメ人間ウイルスが世界中に蔓延するパニック映画が一番好きです」  皮肉一つにつき嫌味一つが往来する。フェアな会話だ、とケヴィンは思った。そういう意味ではドミトリ・カデシュはケヴィンの好みの一つに当てはまっている。 「端的に聞くが、俺たちの関係は?」 「その質問をされる時点で——」  そこでドミトリがかぶりを振った。そして子供のように首を傾げた。  微妙な顔の動きに、左頬の黒子の配置がずれる。 「私たちは恋人同士だったんですよ」

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