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第10話 獣の数字②

 二人の間にあった距離はケヴィンが全て埋めた。  そうしてはじめて看護師は組んでいた足を解いた。膝下まであるタイトスカートから覗く足にはタイツもストッキングも履かれていない。  ナースキャップから解放されたブルネットは左右対称のウェーブを描いている。黒いVネックのニットの襟の内側へ毛先が入り込んでいた。 「まるでプロの水泳選手みたいね、カタギリさん」 「体の丈夫さだけが取り柄だからね」 「それはよく知ってる」  看護師はケヴィンがベンチに置いていた青いタオルを広げ、それで目の前の男の肩を包んだ。看護師の顔は丁度ケヴィンの鎖骨の高さにあった。 「意識のない貴方の点滴を変えて、毎日脈を取っていたのは私」看護師はタオルの端でケヴィンの顎の辺りを拭いた。拭いたそばから新しい水滴が流れた。「今なら手を握っただけで貴方が分かるかも」 「嬉しいよ」  ケヴィンは言いながら、タオルの端を看護師からそっと奪った。  看護師の眉がかすかに跳ねた。目尻よりやや長く、山なりに描かれた美しいアイラインは髪色より暗いオレンジブラウンだった。アイシャドウはしていない。それが却ってアイラインの完璧さを際立たせていた。 「あのバンドマンと付き合っているの、本当に?」 「どうにもそうらしい」 「覚えていないのね」 「ああ、でもほら俺ってゲイだから。君に勃たなかった、分かるだろ?」 「——なんですって?」 「分かりづらかったかな。取引の方法を変えようと言ってるんだ」  咄嗟に看護師が横へ逃れようとするのを、ケヴィンは壁に腕をついて止めた。端からこの位置はプールの監視カメラの死角だった。頭上は二階のトレーニングルームのフロアが屋根代わりになっているし、角度によっては二人の足元ぐらい見えているかもしれないが、逢引にしか見えない。 「何の話?」看護師は至近距離でケヴィンを見上げた。 「そっちの事情は別に興味は無い」ケヴィンは壁についた手の指を動かした。ピアノを弾くように。「どうせあのアクターとか言う医者だろう? 君とあのハゲなら俺は君の方が好みだ。だから君に肩入れする。ゴシップのネタなら適当にでっち上げてやればいい」 「ジャーナリストごっこもさせてくれないの?」 「プロなら、尚更きちんとした対価を受け取って仕事をするべきじゃないか?」  二人の顔がさらに近づいた。監視カメラ映像を外科の医師が見ることはまず無いだろうが、もし見たとすれば、看護師の色仕掛けにまんまと引っかかった患者がそこにいるだけだ。 「あの医師は歩合制かもしれないが、俺は前払いだ。プロへの敬意がある」  長い睫毛に縁取られた看護師の目は溶かしたチョコレートのように艶めいていた。それと見つめ合うケヴィンの目は凍った湖のように凝った水色をしている。 「ゴシップ誌にネタを売り込んで、その情報代の何割をあの医者から貰う約束をしてるんだ?」    看護師は目を逸らさなかったが、化粧を落とした顔色がだんだんと白くなっていく。 「コンセントに備え付けの盗聴器は電波で探知されるからやめた方がいい。それにあれは旧式だな、カバーが浮いているから早急に取り外すか、最新のものに取り替えるのをお勧めする。なんなら良いメーカーを紹介しようか? 限定クーポンがあるんだ」 「私は言われてやってるだけよ」 「言われたことを従順にこなすような素直な人間が世界から消えたら、世界の非合法な麻薬の流通量は半分以上減るだろうさ」 「ならどうしろって言うの!」 「俺の入院費を払った人間の名前を教えてくれ」 「個人情報よ、それに」看護師は一度唇を舐めた。「とにかく、言えないわ」 「心配要らない。俺も情報を払う、君に、君が不利にならない為の情報を」 ケヴィンは笑顔を浮かべた。最愛の存在を頭に思い浮かべながら。「君の知りたいことのいくつかについては、俺の専門分野だ。例えばあの病棟の盗聴器の数と場所、それらの弄り方。それからそうだな、バックヤードPCのコントロールシステムの修理方法とか」  看護師は浅い呼吸をしていた。だが顔色はそれ以上悪くならなかった。  ケヴィンの前髪から垂れた水滴が彼女の胸元へ落ちた。思い出したような塩素の匂いが、彼女を正気に戻したようだった。 「……二つ教えて」と、看護師は言った。「パソコンの修理方法と、それから、最近コンセントの取り付け口ががたつくから、それの直し方を」 「明日にも教える」 「ティア・サンテゴよ」  言ってから、看護師は眉を浮かべた当惑ぎみのケヴィンに微笑みかけた。「これは私の名前。二つ尋ねるのだから、私からも情報は二つ。そうあるべきでしょ」 「君のスリーサイズが知りたかった」 「数字で知るよりもっと良い方法があるわ」  看護師がゆっくりとケヴィンの肩に顔を埋めた。剥き出しの濡れた背中に細い腕が回る。体温はケヴィンのほうが僅かに高かった。それが面白かったのか、小さく笑う声がした。 「イゼット・ウィンター」  囁くような声だった。  が、それは一言一句擦れずにケヴィンの耳に届いた。 「領収書は別人の名前で切っていたけど、受付に来た彼の顔をテレビで見たことがあった」 「……ウィンター?」 「有名なチェリストよ、彼もクイーンズレコードから何枚もCDを出してる、少し前まではよくテレビにも……」  女の唇が動いているが、音は聞こえなかった。素の色だろうローズとベージュの中間色の唇は湿っていて、表面には艶があった。  こんな状況でなければ、壁についたケヴィンの手は背中に回っていたかもしれない。上司への反骨心と野心に溢れた聡明な人は、ケヴィンの好みに合致している。何よりティア・サンテゴにとっても話の早い男は好みに合致している。二人はこの数分でもっと親しくなることができた。  だが現実問題として、二人はすぐに別れた。女は家路につき、男はプールサイドに取り残された。  男は着替えを終えている。既に運動後の熱も冷めきった濡れた首筋に、開いた携帯のブルーライトが反射している。 「A、B、C……H……」  ケヴィンは携帯に登録している電話帳のデータを巡った。画面を指でスワイプする。 「I」」  目的の名前はすぐに見つかった。  “Izzet・Winter“  ケヴィンの携帯に登録されているデータで、番号とメールアドレスが揃っている人物はそう多くはない。大概電話番号かアドレスだけだ。ましてや誕生日まで登録されているのは、この一人だけだった。だがそれも当然のことだ。  チェロの弦を震わせる白い指先を思い出す。それがこの携帯の画面を滑った学生時代を思い出す。  ケヴィンの携帯に誕生日を登録したのは、イゼット・ウィンターその人だった。女のように長い、女以上に美しいブロンドの細い髪をした男。  透き通ったヘーゼルの瞳を持つ——反骨心と野心に溢れた聡明な男。

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