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第11話 リダイヤル①
目を覚まして四日目の朝にケヴィンは退院した。特別病棟の入院患者に配られる、病院内施設を無料で利用できる特別なカードを十分に使い切ったとは言えなかった。だがそれ以上に、毎朝起きてすぐパステルな色の入院着に出迎えられるのが耐えられなかった。
事故当時身につけていた服は病院側によってクリーニングがなされ、新品同然で返却された。白いTシャツにネイビーのパーカー、黒のジャケットに黒のパンツ、履き潰す寸前のショートブーツ。
紙袋に数少ない私物を入れて、病院正面玄関を出る。円形に渦を巻いたタクシーやバス用のターミナルに人はいなかった。空車のタクシーが二台縦列駐車しており、先頭の運転手がケヴィンをチラッと見たが、すぐに目を逸らした。
ケヴィンはそのままターミナルの道路を突っ切って、なだらかな丘のようになった広い敷地の中を歩き出した。病院周辺には芝生がひかれ、入院患者に限らず市民に開放された公園のようになっている。勿論それも一般病棟側のことであって、それを防波堤のようにして奥に立っている特別病棟の敷地には寛大さというものが一切無いのだが。
足に包帯を巻いた入院患者と思しき若い男と女性が芝の上に用意されたベンチで談笑している。今朝は秋晴れで風もほとんどなく、気温もまだ高い。昼ごろまで長く過ごすには、朝早く訪れるほかない。
中心地の方から市内巡回のバスが緩やかなカーブを繰り返しつつ、こちらへやってくる。広く取られた歩道を歩くケヴィンとすれ違う。かすかな風圧が頬を押した。整髪料をつけていない前髪が一斉に揺れる。
病院の敷地内を数分歩いて横断し、市道と合流する交差点まで出た。午前九時前、土曜日の交差点で赤信号を食らっているのは一台の軽自動だけだ。真っ赤な四角形のやけにレトロな車だった。
セントラルは八つの区からなる国内においてその名の通り中心地にあたるが、日中の賑わいのほとんどは他区からの働き手や、国内旅行者だ。実際道路をほっつき歩いている人の数はそう多くない。誰もが電車や地下鉄、車でやってきて、目当てのショップやビルで時間を過ごし、そして帰っていく。
セントラル駅前などは空中通路やデッキが二重に渡されている箇所もあり、たった一つの駅に対して入口と出口の数は信じられないほど多い。
ケヴィンの記憶が正しければ、ケヴィンは今の契約を迎えてから、セントラル郊外にコテージを借りている。事故直前か、事故から今日まで、コテージに放火犯でも訪れていない限りは、帰るべき場所はそこだ。
セントラルから西へ、オータム区寄りの区境にほど近い下道のそば。舗装も草刈りもされていない、葦が生えまくった野原に墜落したようにポツンとあるコテージ。我が家の姿を、ケヴィンは脳裏にくっきりと思い描くことができた。
待っていた信号が青に変わる。ケヴィンが横断歩道へ踏み出すと同時に、横を平行に軽自動車が追い抜いていく。
交差点を越えてすぐにコンビニエンスストアがあった。
自動ドアのところで、ちょうど店から出てくる客とすれ違った。ケヴィンは飲料棚から炭酸水とコーヒーと、そしてサンドをいくつか手に取ってレジへ向かった。
店員はレジ横に陳列された煙草の補充をしていた。ケヴィンに気づいて、剥いでいたカートンパッケージから手を離し、ほんの十数秒で会計をしてみせた。
ケヴィンが店から出ると、入り口から左手側にある駐輪用の柵に男がもたれて立っていた。
「仕事か?」
と、ケヴィンが尋ねる。すると柵にもたれたままのミランは「いや」と言った。
「あなたの見舞いに行くつもりだった」
「三日前にも来ただろ」
「車に轢かれた患者が、目を覚ましてたった三日で退院すると聞いてね」
「だとしても、見舞い品に煙草をワンカートン買うか?」
ミランは手に下げていた白いレジ袋から一つ、暗い赤茶色の下地に白のラインでパッケージされた煙草を取り出した。人目を避けるためではなく人目を集めない格好だ、と横目で人気バンドのボーカルを一瞥する。
有名なスポーツ用品企業のロゴが入ったウィンドブレーカーにジョガーパンツ、スニーカ、それら午前からランニングに精を出す健康志向の若者そのものだ。深く被った黒いキャップの奥で目が光る。
その銘柄は間違いなくケヴィンが愛煙する煙草のものだった。
「そろそろ吸いたくなっていると思って」
言い終わる前にミランが煙草を放った。それをケヴィンは片手で受け取る。尻ポケットからライターを取り出して火をつけるまでの手つきはひどく効率化されていた。
乾いた透明な空気に向かって白濁した煙を吐き出す。雲もなく晴れた空に立ち上る百害の煙に、ケヴィンは目を細くした。脳が濡れるような恍惚とした気分になる。
「うまい」
「……それだけは理解できないな」
「自分の体を壊して税を納める。これ以上立派な国家への奉仕があるか?」
「煙草税をいくら納めても、老後の年金が増えるわけじゃない」
煙草を吸っている途中に笑ったため、ケヴィンの口からは細かく千切れた煙が漏れた。
「それに、あなたの口が苦くなるのは嬉しくない」
「まだ言ってるのか」
「事実だからね」
「俺に舌入れたことあるのか?」
「ある」
「そうか」ケヴィンは煙を深く吸って吐いた。「聞くんじゃなかった」
「コテージに帰るんだろ。送っていく、隣のパーキングから車を借りよう」
断られることも断らせることも想定していない口調でミランは言い切り、さっさと動き出した。わざとらしく手にした袋が音を立てて、半透明のレジ袋に煙草のパッケージが透ける。まるで馬を誘う人参のように鮮やかに。
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