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第14話 不幸な事故②
「カタギリ、どうして退院を急いだ」
その声は既に答えを確信していた。
「誰かと会う約束でもあるのか?」
ミランがカップをテーブルへ戻した。カップの底を打つ音で分かる。カップの中は空だ。
ケヴィンのカップにはまだ半分以上コーヒーが残っている。
「カタギリ」
ミランが言った。声音は一切変わっていない。声の高さも一切変わっていない。
だがケヴィンには手に取るように目の前の男の怒りを感じることができた。
「イゼット・ウィンターとはもう会うな」
「……会わないだけでいいのか?」
「関わるな、と言いたい。だが職務上関わる必要もあるだろう、それにあの男があなたの大学時代からの友人だということも聞いた。だから」
眉一つ動かさず、ミランは目の色を変えた。それは白さを増したように見えた。
だが事実は異なる。事実としては、ミランの顔色が苛立ちに青ざめたから、その濁った顔色に対して目の白さが浮いただけだ。
「だから、俺はしたくもない妥協と遠慮をして、これ以上なく要求を譲って、あなたに言っているんだ。あの男ともう会うな、と。電話やメールまでは制限しない、それらは痕跡が残るからだ。次にあなたに何かあった時、あの男の関与を引き摺り出せる」
「ウィンターは随分嫌われてるな」
答えはない。だがミランが明らかにケヴィンの事故の件でイゼットを疑っているのは明らかだった。
ケヴィンとしても、事故の件とイゼットは繋がっている。ケヴィンの入院費を払った以上、イゼットは病院へ搬送されたタイミングで同乗していたか、その直後に病院にいる必要がある。そうでなければまずISCや家族に連絡がいく。それを差し止めて手続きをした。
——しかしケヴィンの記憶にある限り、イゼットは高級会社を持つような男ではない。彼の妻なら持っているかもしれないが。
「今夜、ウィンターと会う。退院祝いでな」
「会うな」
「俺のプライベートに口を出す権利は誰にも無い。お前が本当に俺の恋人だろうと、恋人なら尚更、そんな命令を吐かす奴と付き合うはずがない」
「仕事に支障が出る」
「出さん」
「同じことを言って……」ミランが両手を握り合わせた。「そう言って車に撥ねられたのは誰だ?」
「今度もそうなったら、その時はISCも調査に乗り出す。お前も同じ会社の先輩に気を遣わず、好きに裁判でもなんでもしろ」
「なら俺も同席させてもらう」
ケヴィンはソファに深く沈んだ。スプリングが馬鹿になった背もたれは反発性もなく、ただずるずると背中を滑らせる。ひどく間抜けな格好になったが、ボディランゲージとしてはこれ以上ない適切な表現だった。ケヴィンは呆れていた。心底呆れ果てて、まだ言葉もたどたどしかった幼少期以来のまったく素直な心のままに両手を上げた。
「つまりお前は俺にこう言って欲しいのか? お前たち666は今や若年層を中心に爆発的な人気がある、そんな大人気のミラン・アーキテクト様が軽々と飲み屋にでも言ったらそこがサイン会場になる。お前たちの活躍は喜ばしいことだ、誇りに思うよ。だから勘弁してくれ、お前は俺に時間外労働で受付でもさせる気か?」
「会うなと言ってるんだ」
「オーケー、一つ確かなことが分かった。俺とお前は恋人じゃない」
「あなたが車に轢かれると分かっていたら書面でも作っていた。あなたが道路に頭を強く打ち付けたぐらいで記憶を失うと分かっていれば、弁護士だってつけて口約束じゃなく証人をつけた」
「なあ、何か悩みがあるのか? 昔女にこっぴどく振られでもしたか? 189センチ80キロの大男にときめかなきゃならないほど、お前は何に困ってる」
「そのあんたに困ってるんだろうが!」
突然のことだった。
二人の間にある脚の短いテーブルがミランの足で蹴られた瞬間、ケヴィンは脊髄反射で同じように片足を上げてテーブルの側面を押さえ込んだ。
結果、二人の足に両方向から蹴られ、押さえ込まれる形になったテーブルは床から数ミリ浮いた状態でミシミシと軋んだ。ミランのスニーカーとケヴィンのブーツの底、左右からそれぞれ真逆の方向へ向く圧力を喰らって、天板の中心が今にもひしゃげそうになっている。
現に拮抗している今も徐々に悲鳴を上げるテーブルから細かい木屑がこぼれていく。
「驚いたな」
と、先に口を開いたのはケヴィンだった。「お前、やっぱりISCの新入社員か?
テーブルを挟んで座った相手の制圧方法の一つにテーブル自体を利用した動きがある。テーブルの天板を掴み、テーブルの脚を刺股のようにして相手を押さえつける方法。もう一つはテーブルを蹴り飛ばして相手ごと床に引き倒し、マウントを取る。
まず間違いなく苛立ちが爆発しての行為だろうが、ともかくミランの咄嗟の行動は後者のそれだ。ケヴィンの反射が間に合わなければ今頃、脛の辺りに天板が衝突し、その痛みに悶えているうちにソファとテーブルで足を挟まれていたに違いない。
「でもこの家の家具は賃貸だ。こんなボロテーブルのために金を払うのはごめんだろ」
「あの男とは会うな」
「会うよ。もう約束した」
ケヴィンは足に込めていた力を抜いた。そして突如片側から受ける力を失って傾いたテーブルを足の甲へと転がし、そのまま器用につま先で持ち上げる。
何か言おうとしたミランを制し、ケヴィンは言った。
「ウィンターには会う。だが仕事の支障を懸念する顧客へのフォローも必要だ」指を立てる。刺すような視線を集め、逸らするように。「だからこうしよう、会う場所、話していた時間、解散時刻、これを適時報告する。だから俺の好きにさせろ。もしウィンターと会っている最中にお前の姿が見えたら、お前が手配したような輩を見つけたら、明日の仕事を最後に俺は担当を降りる」
ケヴィンが残りのコーヒーを飲み干すまで、ミランは考えていた。
テーブルが元の位置に戻される。するとようやくミランが動いた。床の上に転がっていた空のカップを持ち上げ、テーブルへ置く(天板が軋んでしまったためか、カップは若干傾いていた)。
「分かった、その条件でいい」
まるで別人のような落ち着きようだった。それとも先ほどまでの激昂が別人だったのか。尋ねても良かったがケヴィンは尋ねなかった。確信があった。この男と自分は付き合っていない。
だが——だとすれば何故この男は嘘をついたのか。それも恋人だなどというちゃちな嘘を。
「寛大なご理解に感謝する」ケヴィンは空になった自分のカップともう一つのカップを回収した。「それじゃ俺はシャワーを浴びて着替えるが、折角だ、見ていくか?」
「他人の為に浴びるシャワーシーンには興味ない」
「なら、話は終わりだな」
ミランはキャップを被り直すと、短く別れを告げて呆気なくコテージを出ていった。やがて車のエンジン音とタイヤが雑草を踏み締めてそばの道路へ入っていく。無駄な動きは一切ない。
まだ点灯していないくすんだテールライトをブラインドの隙間から見送り、ケヴィンは二つのカップを流しに置いた。イゼットとの約束時間までたっぷり時間はある。ミランを追い出す理由はなかったが、逆に一緒にいる理由もない。
しかし、それまでにするべきことはある。コテージ内を洗い出して、事故前の手かがりがないか探すべきだろう。自分が遭遇したのは、どうにもただの不幸なひき逃げではないらしい。
カップを洗おうと蛇口に手をかけた時、シンクの脇に転がる砂糖の個包装が目に入る。ミランのコーヒーに入れた砂糖の空袋だ。
捨てようと手に取る。その時、よく見ると細長い包装紙の表面にちぎれたセロハンテープが付いている。そのセロハンテープに何かの文字とマークが見えた。
目を凝らすと、それは筆記体で書かれた店の名前だった。洋菓子店の名前の一部らしい。ロゴにシェフ帽を被った熊がいる。
流し台のすぐ後ろにゴミ箱はあった。足でペダルを踏めば口が開く。ほぼ空のゴミ箱だ。透明なポリ袋が被せてある。
ケヴィンはその砂糖袋をゴミ箱ではなく、尻ポケットへ仕舞った。これを捨てるのはもう少し後でいい。
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