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第15話 フロスト区①

 待ち合わせ場所はフロスト区の中心を離れた一軒のバーだった。  フロスト区はセントラルから大きく北側にあり、オータム区と北東に隣接している。区の北側は完全な山岳地帯で、かつて鉱山街として栄えた頃から大勢の労働者の為の娯楽施設や飲み屋が麓に多い。  今では自動掘削機の導入や環境問題で過去ほど労働者の出入りは無くなったが、降雪量が多く、山から流れる川や滝が凍る様、鉱山開発の過程で発見された源泉を引く温泉を目当てに観光客が多い。  そのため人口は少ない割に街中を歩く人の数は多い。特に日が暮れるとあちこちの飲み屋の灯りが我先にと客足を吸い込んでいくが、それでも飲み込みきれない。  完全に自然だけを売りにしているオータム区と比べれば、歴史と商魂の逞しさが上手く隣り合った観光地の成功例と言える。  舗装された石畳の通りを歩き、ケヴィンは指定の店を見つけた。そう大きくはないそのバーは隣がレンタルボート屋で、店の奥にはそれなりに大きな池がある。ボートを停めておく敷地と桟橋を挟んでいるおかげで、夜は食堂だけ開けているボート屋の喧騒も遠い。  分厚いガラス扉を押して開ける。扉にはベルが付けられていなかった。それも当然だろう、店内の奥にはステージがあり、グランドピアノと椅子が置かれている。  右手にある長いバーカウンターについていた黒いベスト姿の男が短く歓迎を告げた。客のほとんどは広く壁もない店内に並ぶテーブルを取り巻く椅子に座っている。連れ合いごとに座っているようでもあるし、見知らぬもの同士が同じテーブルに座っているようなのもある。  ケヴィンはカウンターに座った。喫煙可なのはカウンターの、かつ入口に近い位置だった。頭上に通気ダクトが開いている。 「ご注文は?」  灰皿を差し出しながらバーテンダーが尋ねる。「甘いものがあれば嬉しいんだが」ケヴィンがそう言うと、すぐに身を翻し、カウンター奥の壁に並べられたボトルからすぐに一本を選んだ。「度数は強くても構いませんか?」 「問題ない」 「コニャックが60%のブランデー」バーテンダーはボトルからカットグラスへ飴色の液体を注ぐ。先にグラスに入っていた氷の表面を流れて底に溜まっていく。「チョコレートと併せてお飲みください」  グラスに遅れて四角形の小皿にチョコレートが乗せられる。そのチョコレートは市販のものに見えた。その組み合わせがひどく好印象だった。 「いい日にお出でくださいました」 「そのようだ」 「いえ、チョコレートは常に用意しております」 「ん?」  ケヴィンはグラスに口をつけていた。喉で尋ねると、バーテンダーは空のグラスを磨きながら顎であさっての方を指す。  示された方にはステージがある。今、奥の暗幕から大きなチェロを携えた男が現れるところだった。  喉に冷たい感触が流れ、そして流れ切った先から熱くなる。鼻に揮発したほのかに甘い香りが抜けた。 「彼をご存知ですか?」 「ああ」ケヴィンは短く肯定した。酒をもう一口舐めるように飲む。「よく知ってるよ」  それ以上はバーテンダーは何も言わなかった。イゼットがステージ中央にある椅子に腰掛けたからだろう。  ステージの真上に照明があった。古い暖色灯の光がイゼットの長い金髪に輪をかけて輝かせる。着ている服は紺色のシャツにグレーのズボンだ。何ひとつ装飾は身につけていないし正装という体でもない。それでも十分に端麗な男だった。  チェロのエンドピンを床の指定の位置へ突きつけ、楽器を挟むように長い足をくつろげる。左手で弦の走るチェロの首元を支え、右手に細い弓を持っている。紺色のシャツは袖が折られ、そこから見える腕は筋骨隆々とはいえないが、しかし座れば見上げる全長のチェロをその片腕で持って登場するのを客は皆目の当たりにしている。  何度か試すように弓を弦に触れさせる。まるで膝に乗せた少女と戯れあっているような仕草だった。  イゼットの視線が弦から一瞬逸れた。照明のために一段と暗い前髪の影からヘーゼルの瞳がケヴィンをすぐに見つける。  ケヴィンは特に反応しなかった。手に持ったグラスを掲げることもしなければ、咀嚼途中のチョコを口から零すこともない。  イゼットが音もなくかすかに微笑んだ。そして瞼を深く伏せる。    前口上も何もなかった。拍手もおじぎもない。本当にただ無名のチェロ弾きのように、イゼットは演奏を始めた。だが誰もが既に静まり返っていた。  雨だれが地面を打つような短い音の連続からはじまった。  音は段々と連続する個々のそれから、水滴同士が接触して一つになるように伸びて、なだらかにさらに伸びる。  透き通るような高音から低音へ水が流れ、やがて地面に吸い込まれて雨が乾く。  砂を擦るような風が吹き、青々と濡れていた木々の葉が萎れて枯れ、赤茶色にすすけて枝を離れる。それらが地面に落ちる。乾き切って風に砕ける。  いつしかイゼットの歌声が混じり合っていたことに、それが一体いつからだったのか、正確に答えられるものはいない。いつの間にか歌っていたその声はあまりに自然で、呼吸と共に肺へ流れ込む空気のように耳に入っていた。  ここは店内だった。夜だ。暖房は効いている。誰もがダウンやジャケットを着ている。  それでも寒々とした秋空の下で風を浴びているような気分だ。朝焼けの陽がのぼるのを、庭先でじっと待っている。目が乾くような風の中で東を向いている。  何曲弾いたのかわからない。曲と曲の合間の僅かな沈黙に拍手をしなければならないことを誰もが忘れてぼーっとしていた。  ケヴィンもまた、こみ上げるような拍手の音にようやく演奏が終わったことを知った。 「ひとつくれよ」  残り一つになっていたチョコレートを視界の左端から伸びた指が拾い上げる。

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