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第16話 フロスト区②
そしてそのままイゼットはナッツ入りのチョコレートを口に放り込んだ。背後から求められ
た握手に笑顔で応じて、それからケヴィンの横へ座る。
「怒っているのかい、ケヴィン」
「チョコレート一つで怒りはしない。だがそれが最後のチョコレートだったなら話は別だ」
「マスター、さっきのチョコはまだあるかな」
「徳用ですからいくらでも」とバーテンダーは言い、空になった小皿に山へなるほど盛り付けた。
ケヴィンは皿から漏れたひとつを拾い、キャンディにするような個包装を片手で器用に剥がして口に入れた。すぐにブランデーも飲む。
「同じものを僕にも——しかし元気そうじゃないか。轢き逃げに遭ってまだひと月とないのに、どこにも包帯を巻いていない」
すぐに届けられたグラスをイゼットが受け取る。一口飲んで、甘いな、と呆れたように言った。
「轢き逃げ犯とはいえ法定速度を守るだけの良心はあったってことだ」
「法定速度は守るのに、救助義務を守る良心は無かったようだけどね」
「いずれにせよ思いの外早く出たからな、お前の口座に前払いの何割か戻るだろう」
氷がグラスの内側とぶつかる音がした。誰のグラスで鳴ったのかは定かでない。
「なんだ」イゼットの声には揺らぎがなかった。「君が僕に会いに来たのは旧交をあたためるためだと思っていたのに、そんな事務的な事情だったなんて」
「通報者はフロスト区の市民だ、お前じゃない。それなのにお前が誰より先に入院費を払った、つまりセントラルの病院の受付で手続きをした。病院に辿り着いた」
「そりゃ、あの事故の直前まで僕と君で食事をしていたからね」
イゼットはケヴィンがしていたようにチョコを齧り、そしてブランデーを飲んだ。そして横目で笑う。
「君と別れてから間も無く、救急車の音が聞こえた。随分音が近いから出て行ってみると、君らしき人が担ぎ込まれていたから驚いたよ。それで救急隊員に話をしたら、君の家族に連絡をしてほしいと言われた。でも」
そこまで言うと、イゼットは肩をすくめた。「そんなことをしたら目覚めた君に殺されると思ってね。少なくとも君の状態を確認するまでは僕のところで止めておいた」
「お前、俺の家の番号を知ってたか?」
「君の家の執事の人だね、バッカスさんは生涯現役だろ? まあ、引退していても彼に伝えれば後はよろしくしてくれる。だからこそ、彼に連絡するのは君の状態が命に関わるとなってからだ。そして幸い、君の外傷は命に別状がないものだった」
「世話をかけたな」ケヴィンは灰皿の縁に長らく放置していた煙草について思い出した。酒を飲み始めてからずっと手放したままだ。「ああ、俺が思っていたよりずっと、面倒をかけた」
「……よしてくれ、やけに辛気臭いじゃないか。何か困ったことでもあったのかい?」
「いくつかあった」
「記憶を失ったことかい? それとも、寝起きに誰かに告白でもされた?」
煙草に触れようとしたケヴィンの手が止まる。
その手に別の手が触れた。驚くほど冷えた手だった。だがロックのグラスを握っていたのだと思い出せば、その温度は当然のことだった。
二人のグラスはどちらもほぼ空になっていた。
「お前はそんなに心配性だったか?」
「アクター医師は悪い人ではないよ。ただ、彼は自分の給与と専門性に釣り合いが取れていないと悩んでいるだけで」
「あのハゲの覗き癖は筋金入りだ。お前が小遣いを渡した相手はアマチュアだが、歴は長い」
「へえそうなんだ」
イゼットはなんという事もなく笑った。「まあ、君が退院した今じゃどうでもいいさ」
イゼットはケヴィンの手を離さなかった。若干数名、店内の客の中には二人の手が重なっていることに気づいて好奇心を刺激された者がいるようだった。
差し向けられる視線に不快感を覚えながらもケヴィンは「何の為だ?」と尋ねた。
友人の事故現場に居合わせた。だから搬送先に駆けつけた。これはいい。
友人の複雑な家族関係を慮って、入院の手続きを代行した。これもまだ納得できる。
だが、入院中の友人を秘密裏に監視する——これは友人の、親友の行いとしてもあまりに逸脱している。
監視する以上、イゼットには目を覚ましたケヴィンの行動に気掛かりなことがあった。
だがそこまで監視しておきながら今日までイゼットから接触してこなかった。それはケヴィンが記憶喪失であるからだろう。その事実をイゼットは担当医師から聞いた。だから積極的に接触する必要が生まれなかった。
「お前は俺の何を知ってる?」
イゼットは優しく微笑んだままだった。だが、どこか罪悪感を滲ませた笑みだった。
ケヴィンの眉間に皺が寄った。瞼にかかる前髪が不意に鬱陶しい。中途半端に記憶を失い、そして今なお何も思い出せない自分に苛立ち——かぶりを振った。
その瞬間。
重なった手に伝わる圧力が増した。
一瞬のことだった。気のせいかと思うほど短い時間のことで、実際ケヴィンが鈍い痛みで視線を手元に下ろした時、上になったイゼットの手の甲には何の異常もなかった。ただ筋張った広い手のひらがあるだけだ。
「なんでも知ってるさ」
と、イゼットが言った。溜め息をついて、取り直すように改めて笑う。今度は混じり気のない微笑だった。
イゼットがおもむろに隣の友人へ顔を近づけた。そして極めて小さな声で囁く。
「僕は君の恋人なんだから」
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