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第17話 三人目の恋人①

 店を出た。幸い追いかけてくるような者も、興味深そうに視線で縋ってくる客もいなかった。  ケヴィンは手短に行動履歴をチャットアプリで報告した。自分の恋人を一番に名乗った感情豊かな男に。  送信後、すぐに既読表示が浮き上がる。思わず顔を顰めて、携帯を上着のポケットへ押し込む。  外は既に真っ暗だった。もう二十一時を過ぎている。通りにはちらほらと人影が見えたが、誰もが遠い。濃いオレンジ色の外灯とその逆光の黒以外の色は全て塗りつぶされている。 「その顔だと、気の早い他の誰かがもう君に告白した後のようだね」  イゼットがのんびりとそう言った。背中には黒い革のケースに仕舞われたチェロがある。暗い色のロングコートの襟から結われていない金髪があふれている。  隣のボート屋の食堂は大盛況だった。何かの打ち上げをしているらしい。その店の脇から池を迂回するような桟橋の道がある。そこを二人で縦に並んで歩いた。前を歩くイゼットの背負ったチェロケースのベルトに髪が絡んでは解ける。 「666の二人だね? アーキテクト君のほうかな、それともカデシュ君だろうか」  その両方だ、とケヴィンはわざわざ言わなかった。 「あの二人と親しいのか。同じレコード会社でも系統が違うだろ」 「それなりに会う機会はあるさ。春夏の音楽祭はほとんどクイーンズのアーティストで組まれるしね」 「ああ」その時期はまだ記憶にある。ケヴィンは微かに歩幅を広げた。ぎりぎり当時のことは覚えている。「去年春の音楽祭がお前との最後の仕事だったな」 「あの時の君はもう僕じゃなく会場の警備員だったけどね……」  イゼットが顔だけ振り返り、そして足を止めた。想像よりずっと近くにケヴィンがいたからだろう。 「髪」  ケヴィンはイゼットの襟元から溢れて背中へ垂れた長い髪をすくった。歩くたびチェロケースのベルトに絡まっては解けていたそれ。摩擦や引っかかりとは無縁の手触りだが、目の前に揺らされていると気が散る。 「相変わらず掴みづらい髪だな」 「素直に綺麗な髪だって言えよ」  コートの襟内へ束ねた髪が仕舞われる間、イゼットはおとなしくしていた。縛ってもすぐ解けてしまう細い髪は纏めようとすれば編むしかない。 「君は相変わらず、最悪な触り心地の髪だね」  イゼットは首の左側へ綺麗に流された自分の髪を一瞥し、目の前にいるケヴィンの前髪を指で触った。色が抜けてくすんだ金髪は癖もなく、だがあまりに硬い。毛先は凍った芝のように指に刺さる。その懐かしい感触が愉快なのか、イゼットはしばらく前髪を弄っていた。 「偶には手入れをしなよ。折角なら今日は僕の家に泊まるかい、良いトリートメントがあるんだ」 「結構だ。お前、結婚しているんだからいい加減に弁えろ」 「ん?」イゼットは目を瞬かせた。「ああ、そうかここ一年の記憶が無いのか」  怪訝そうに眉を顰めたケヴィンに、イゼットは指を鳴らした。そして満面の笑みで溌剌と告げる。 「僕、もう離婚したんだよ。寂しい独身に逆戻りさ」 「——離婚?」 「離婚協定で色々と決めることが多くてね、成立したのは今年の春だけど」  去年の暮れの時点で決まっていたことだ、とそう話すイゼットの口調は気安いものだった。学生時代思いつきでたった一枚買った宝くじが外れていた時の方が、あの時の方がよほど深刻そうな口ぶりだった。 「結婚式にまで来てもらったのに、申し訳ないね。というのも、僕からすればとっくに謝ったことではあるんだが」  美貌のチェリストであるイゼット・ウィンターとオペラ界の歌姫と呼ばれていたアリエル・タゴンの結婚式は近親者と親しい友人たちのみで執り行われたが、当然のように新郎と新婦の姿はメディアに大きく報じられた。  結婚式のことをケヴィンは覚えている。出席者のほとんどは新婦側の知人であり、さらに言えば全員がクイーンズ・レコードの関係者だった。ケヴィンは友人半分、仕事半分での出席だった。当時はまだイゼットとの契約中であった。  華美さのない純白のタキシードに身を包んだイゼットは同性から見てもあまりに美しかった。同じ純白のドレスに飾られた歌姫がそうであるように。それ以上に。  そういう意味では、あの頃から時限爆弾のスイッチは入っていたのだろう。  しかしそれが爆発するのは、少なくとも五年か、もっと言えば十年は先だと思っていた。それだけすればもっと刺激的でセンセーショナルな事件が世間を騒がせ、爆弾の起爆になど誰も見向きもしないはずだった。  少なくともケヴィン・カタギリの知るイゼット・ウィンターなら、時間のやり過ごし方などいくらでもあったはずだった。いたずらに爆弾をつついて誤爆させるなど有り得ない。  それなのに、わずか二年にも満たない夫婦生活の為に、それを終わらせる為に、イゼットは音楽家人生を棒に振ったということになる。 「大スポンサーのお嬢さんを弄んで捨てた訳だからね」  イゼットは相変わらず些末ごとのように言う。穏やかな冗談のように。 「レコードの所属からは消されたし、予定していたツアーもコンサートも全て下ろされた。それで今は気ままなチェロ弾きをしている」  イゼットが身を翻し、再び歩き出す。三歩遅れて、ケヴィンも歩き出した。

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