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第18話 三人目の恋人②
桟橋が軋む音だけが聞こえた。そばの池には生き物もいないのだろう、さざなみひとつ立たない。苔が蒸して黴がついた桟橋は時々、軋む代わりに足裏に柔らかな感触を返した。
不意にケヴィンは水の匂いを強く感じた。不快な、腐りはじめた水の匂い。
掃除を怠った排水溝から、連日降り続いた道路の側溝からこみ上げてくる匂い。
うっすらと甘く生臭い、ひどく不快な匂い。
皮膚に張り付くあの匂い。
「ケヴィン!」
鋭いイゼットの叫び声が上がるのとケヴィンがその場に膝をつくのは同時だった。数歩の距離を駆け戻ろうとするイゼットが目の前へ来る前に、ケヴィンが池の方へ顔を背ける。
しかし、両手をついた桟橋の表面に蒸した苔の湿り気を手のひらに感じた瞬間、我慢が切れた。
池の水面に波紋が立った。バシャバシャと水面が沸き立ち、ケヴィンが口から液体とも固体ともつかない胃液のペーストを吐き出すたび、まるで餌を撒かれた魚がそこにいるように飛沫がたった。泡が立った。
吐瀉物はすぐに胃液だけになった。それでもしばらく吐き続けた。薄めるところのない胃液が逆流して喉がひりつく。
ケヴィンは抗えずただ池に向かって吐き続けながら、頭の片隅では冷静さを残していた。自分の右隣へしゃがみ込んだイゼットの存在や、その手が自分の背中をさする調子を感じていた。ちょうど四拍子の調子だと、そんなことを考えていた。
あらかた胃の中身をひっ繰り返したところで、ふと遠くで賑やかな人の声が聞こえた。
イゼットが舌打ちをする。どうやらボート屋の一階で打ち上げをしていた数名が酔い覚ましの散歩にこちらの方へ出てきたようだった。
「ケヴィン、立てるかい」
「いい、お前だけ行け」ケヴィンは乱暴に唾を吐き、口元を拭った。「ここで解散だ」
「つれないことを言わないでくれよ」
背負っていたチェロのケースを片方の肩へ寄せ、空いた方の左肩をイゼットはケヴィンへ押しつけた。肩で持ち上げられるように立たされ、そうなるともうケヴィンは腰に巻き付いたイゼットの腕に引き摺られるがまま歩くしかない。
「揺らすな、気持ち悪い……」
「吐きたきゃ好きなだけ吐けばいいさ、ちょうど真横に自然の流し台がある」
優しげな顔つきと繊細な手つきで誰もが忘れがちだが、イゼットも身長はほとんどケヴィンと変わらない。体重について言えば五キロ以上の差があったが、それはこの時問題にはならない。
「さあ、もうすぐ僕の車に着くけど、吐き忘れはない?」
「××××」
「車で吐いたら流石にクリーニング代は請求するぜ」
池の周りをぐるりと歩いて、待ち合わせのバーの真後ろの通りに出る。するとそこには小規模な駐車場があり、いくつか駐車している中にひときわ目立つビビットブルーのジープが停まっている。
イゼットはケヴィンを後部座席に押し入れると、次いでチェロの入ったケースを押し込めた。
「おい、商売道具を雑に扱うな……」
ケヴィンの呻き混じりの声は、後部座席のドアを閉じる音で聞こえなかったらしい。すぐに運転席のドアが開き、イゼットが颯爽と乗り込む。シートベルトをつけてエンジンを入れる。ライトを点灯させれば、バーの裏手にある銀のドアが黒い外壁の中で眩しく光を跳ね返す。
イゼットが助手席のリクライニングへ腕をもたせ、後方を眺めながら道路へ車をバックさせた。ついでのように後部座席へ仰向けになったケヴィンを見て、にっこりと笑う。
ところで、フロスト区の法定速度は時速八〇キロに改められたらしい。信号も曲がり角も少ないせいで殆ど減速することなくジープは夜道を疾走した。
そしてものの数分で、車の窓からはまるでファンタジックなテーマパークから切り取ってきたような白く洗練された住宅が、窓から暖かなダウンライトを溢れさせながら家主と友人を歓迎しているのである(人もいないのに電気をつけているのは防犯の為だとイゼットは言った)。
その頃には幾分か落ち着きを取り戻していたため、ケヴィンは車のエンジンが切れなり身を起こし、腹の上に乗っていた楽器ケースを持って自分で外へ出た。
イゼットは既に自宅の玄関へ鍵を差し込むところだった。施錠が解かれると、振り向きざま、シャッターを上げていた車庫へ車のキーと連結した小型のリモコンを向ける。
シャッターが自動的に降りていき、この家への入り口となる門が閉ざされる。
静かな夜の庭には無造作に停められた青い車体と薔薇がしぶとく咲く花壇、そしてよくわからない彫刻があるばかりだ。
「まるでシンデレラ城だな」
「それ、僕が結婚したばかりの時も言ってたよ、ケヴィン」
「そうだったか」
「出来の悪いシンデレラ城のミニチュアみたいだって、すごく嫌そうな顔して言っていたじゃないか。二年前のことだから、これも記憶喪失かな、それともただ物覚えが悪くなっただけ?」
「俺の背中に鈍器があるってことを思い出してから、もう一度言ってみろ」
イゼットが声を出して笑いながら玄関を押し開ける。
どこもかしこも白い。壁も床も天井も。あの結婚式で見た純白の花婿と花嫁が、あのタキシードとドレスのまま暮らすための家だ。
二階建ての邸宅はフロスト区の環境柄か、玄関すぐに雪落としができるような広い吹き抜けのエントランスがあった。そして進む先に三段ばかりの降る階段があり、大理石の広いフロアがリビングと客間だ。当然のようにグランドピアノが置かれている。
リビングのさらに奥の壁にまとわりつくように螺旋階段があり、吹き抜けからも見上げることのできる繊細なシャンデリアは、誰より二階に部屋を持つ夫婦たちの目を癒すはずだった。
エントランスの壁には大きな絵画が一枚かけてあった。透き通った朝焼けの海、その岩辺に美しい女性が裸で腰掛けている。
体にまとわりついた長い髪や水滴がそれぞれ薄いヴェールのように彼女にドレスを着せているために、裸体だということを感じさせない。
或いは淑やかに投げ出した両足の輪郭がわざと曖昧にされているせいで、人魚のように見えるからか。しかしどうでも良いことだった。
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