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第20話 最後の賭け①
天使とは呼んで字の如く、天の使いであり、大まかにそれは神の使いである。
即ち天使の怒りとは、おおよそ神の怒りとも言える。
そんなことを考えたのは、666の二人が借りているスタジオの入り口に約束の十八時より一時間も早く到着したケヴィンを出迎えたミランの目が今にも人を殺しそうなものだったからだ。
とっくに日の落ちた通りへ、ミランの背後から漏れる白色光が後光のようだ。
「此処って禁煙か?」
ケヴィンは煙草を咥えていた。昼前に目覚めてイゼットの家を出発し、オータム区のコテージで三時間ほどこれまでの警備情報など見直してから自分の車でやってきた。自宅に戻ってからは常に口に煙草を咥えていた。
ジャケットは脱いでいる。それ以外は仕事着のシャツとネクタイ、スラックスに革靴だ。
ミランが顔を顰めるとすれば煙草以外に理由がない。
だがミランは質問には答えず、ケヴィンを建物の中へ通すと入り口を封鎖してさっさと階段で地下へ降りていった。挨拶も何もない。
熱湯やマグマの沸騰というより、液体窒素の沸騰に近い態度だった。
縦に細長い小規模なビルは、地下にスタジオがあり、今そこは666の二人が借り上げていた。地上階には空きテナントもあるが、人が全くいないあたりこちらも抑えているのだろう。
地下への階段を降りていくと、突き当たりの黒いドアから入れ違いにドミトリが出てきた。黒い髪の毛先を束ねて、ラフな厚手のシャツにジーンズという格好でケヴィンを見上げる。
目があった——おそらく——途端、ドミトリは明らかに困り顔をした。
「カタギリさん」
「なんだ」
「どうしてあなたって人は、ミランの逆鱗にしか触れないんでしょうね」表情とは裏腹にドミトリは愉快そうだった。
「俺はママの言いつけを守ったぞ」
「ママ?」
「友達と遊ぶときは逐一連絡しなさいって、ママが言ったんだよ」
ケヴィンが顎でドアの先を指す。スタジオへのドアは中央に縦に長くガラス張りになっており、室内が見えた。ミランは広いスタジオに無造作に置かれた組み立てに椅子に座り、こちらへ背を向けている。安そうなキャンプ用のテーブルをデスク代わりに紙を広げているが、ペンを握った手は動いていない。
「ああ、そういう」ドミトリもおおよそ把握したのか「でも、ママって」
「飯は食べたか?」
「これから何か頼もうと思っていました」
ドミトリの視線はケヴィンの右手に提げられた紙袋を見つけていた。その紙袋に焼き付けられたマークがベーカリーのものであることも。「手間が省けました、おいくらですか」
「金は要らん。代わりにママの機嫌をとってくれ」
「俺は金で解決できる問題の方が好きなんですけどね」
ぼやくようなパパの呟きを聞かなかったことにしてケヴィンはドアをノックし、そのままスタジオへ入った。煙草は携帯灰皿で始末して。
ミランは振り返りもせずテーブルに向かったままだった。ペンを握り直したらしいが、やはり碌に動いていない。「一時間後に出るぞ。食事を取れ」そう言ってテーブルの端に紙袋を置く。スタジオ内には他にもくつろげるような長椅子と物が置けるようなラック、スツールがあったが、テーブルといえばこれだけだった。
壁際と、ミランのそばに似たようなデザインのエレキギターが二本立てかけられている。電子ピアノ、エレクトーンもそれぞれ一台ずつ。アンプは長椅子のそばに一台。
奥には小さめの個室がもう一つある。スタジオもそうだが複雑な積み木がされたような防音性の壁で、あちらは録音と編集設備がメインなのか、室内がほぼ機材で埋まっている。
覗き込んで初めて、ケヴィンの予想よりミランの表情がさほど険しくないことに気づいた。そしてテーブルに広がっている紙にはどれもデフォルトで五線譜が印刷されている。ただしそこにあるべき音符はまだ一節もない。
「……じろじろ見ないでくれないか、集中できない」
「腹が減ってるからだ、飯を食ってからにしろ」
「今、丁度書き始めたところなんだ」
「そうか、それはよかった。まだエンジンはかかりきってないな、ガソリンを浪費することなくブレーキが踏める。環境問題はこれで一つ解決だ、素晴らしい。ところでハムチーズとフィッシュのお好みはどちらかな」
「ビーフ」
チッ、とケヴィンが舌打ちをした。ローストビーフとブラックペッパーのサンドは自分自身が食べるつもりだったからだ。だが顧客の要望とあれば跪いて従う他ない。
「俺はフィッシュで」
にこやかに長椅子の方に腰掛けたドミトリが言った。絶妙な距離で安全圏にいる。そしてサンドイッチが放り投げられても回転しないギリギリの距離でもあった(元よりペーパーで包まれているが、中々心もとない)。
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