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第21話 最後の賭け②

 「ミラン、カタギリさんのママになったんだって?」  ドミトリがサンドイッチの包装紙を留めるセロハンを指で引っ掻きながら言った。「あんまり門限を厳しくしちゃいけないよ、カタギリさんも年頃だからね」 「二十八歳で酔っ払って目を怪我する、轢き逃げに遭う。これが年頃?」 「星座占いが悪かったんじゃないかな」 「カタギリは山羊座だ、去年末のテレビで占い師は山羊座の今年の運気は二位だと言った」 「それ、誰が言ったの?」 「ミセス・カトラ」 「うーん」ドミトリはまだセロハンテープと格闘している。「あの人も占いすぎて疲れているんじゃないかな、年間六百人以上占ってるんだろ? 俺だったら頭が回っちゃうな」  ケヴィンは立ったまま黙々と自分のサンドを食べていたが、ついに見かねて食べかけのそれをテーブルへ置いた。そして微笑みながらセロハンテープと戯れているドミトリの手からフィッシュサンドを取り上げると、セロハンテープがついている部分ごと破く。そして包装紙の端を適当に畳んで手が汚れないようにセッティングするなり、それを突き返した。  溜め息をつきながらテーブルへ戻ると、ケヴィンはテーブルの脚に隠れるようにしてそこにもう一つ組み立て椅子があることに気づいた。  その椅子もキャンプ用具のような組み立て式だ。モスグリーンの布をパイプに張っただけのものだが、座り心地を捨てただけに利便性は高い。 「借りるぞ」そう言ってその椅子を広げて座る。  そうして椅子に座り、視線を上げれば当然正面のミランと向かいあうことになる。  ミランの表情が険しくなっていた。まだ口をつけていないサンドを手に、剣呑な目つきでケヴィンを見ている。固く焼かれた甘味のないパンはローストビーフの肉汁とレモンソースを吸っても形と味が崩れない。わざわざケヴィンが店員に聞いてカスタマイズしたものだった。 「なんだ」 「別に」 「モーニングコールもしただろ、時間外労働はしない主義なんだがな」 「あなたの朝は正午まであるのか、斬新な解釈だな」 「解散したのがあの時間だったからな」 「楽しんだようで何よりだ」 「いや。酒飲んで吐いてきた」  ローストビーフに齧り付いたばかりのミランが眉を浮かべた。そのまま咀嚼もせずケヴィンの顔を見る。 「病院食で甘やかされて胃がまだ気取ってる。フロスト区のボート小屋には行くな。次に大雨が降ってから行け、俺の胃液シェイクが混じってる」  それでもなおミランがサンドを齧ったまま停止しているので、ケヴィンはテーブルに肘をついて顔を乗り出した。そして教えるように目の前でサンドを齧る。咀嚼して飲み込む。  見開いたミランの目は驚くほど大きかった。いつもは切長に伏している上瞼が押し上げられ、目尻が上がり気味になるからだ。 「俺、少し上で仮眠取って来ますね」  ドミトリが不意にそんなことを言ってソファを立った。あの何処を見ているのか分からない優しげな目で、小さく丸められた包装を握ったまま手を振る。そして碌に返事も相槌を受ける前にスタジオを出て行った。 「おい、パパが逃げたぞ」 「ドミトリはいつもああだ」 「仲良きことは美しき哉」 「カタギリ」 「今度はなんだ」 「半分食べるか?」  今度はケヴィンが眉を浮かべた。サンドの味が口に合わなかったわけでないことは、ミランの一口目の存外大きな歯形からして明らかだ。事実今も、ミランはサンドを半分まで食べ進めている。  ケヴィンの手にあるハムチーズサンドは既にあと一口というところだった。交換するには気が引けるほど小さくなっている。 「昼に少し食べ過ぎたから、交換してくれ」  ミランがそう言い、きっかり半分まで食べたビーフサンドを差し出してくる。ケヴィンは残り一口になった自分のサンドを交換した。  案の定ミランは受け取ったサンドを、もうハムの切れ端をパンで挟んだだけのそれを一口で全て口の中へ収めた。頬がいきいきと蠢いている。 「お前の機嫌が良くなるスイッチが分からないな、そんなに面白かったか、吐瀉物の話が?」 「割と」  ミランは椅子の足元に置いていたバックから緑色のペットボトルを取り出し、蓋を開けた。途端に空気音がなり、中の透明な液体が泡立つ。ペリエのようだ。ケヴィンも紙袋の底に詰めていたコーヒーを取り出して飲んだ。   「少し弾いてもいいか」唐突にミランが席を立った。「そんなに煩くしない」  質問形の言葉だったが、ミランは答えを聞くより前にスタジオの壁に立ててあったエレキギターを手に取った。そのそばに車輪付きのワゴンに乗せてあるアンプも連れ帰ってくる。  元よりケヴィンに異論は無かった。顧客の振る舞いは基本的に自由だ。顧客の安全を脅かすものには対処する必要があるが、それ以外に気を払う必要はない。それは顧客がISCの派遣員に対してもそうだ。  けれどもミランは椅子に座り直し、ギターをアンプに繋いても弦に触ろうとしない。 「どうぞお好きに」  と、ケヴィンがコーヒーカップ片手に告げてようやく、ミランは膝に乗せたギターの弦を指で弾いた。スモーキーな低音が空気を削るように響く。一つ一つの音にざらついた反響が後を引く。  大筋の譜面はミランの頭の中にあるようだった。ケヴィンは流れていく音が、テーブルに無造作に重なったほとんど白紙の楽譜のうち、一番下に敷かれているそれをなぞっているのだとわかった。出だしの特徴的な連続する音階とスタッカートが一致する。  手に持ったままのサンドを齧ることはしなかった。どれだけ気をつけても包装紙が雑音を立てる恐れがあったからだ。同じように、譜面を手に取ることもしなかった。紙の摩擦音は雑音でしかない。  できるのはコーヒーカップを傾け、静かにコーヒーを飲むことだけだ。  ミランはギターソロの部分を何度か繰り返した。時々口が動いたが、全ての言葉はミランの頭の中でしか響かないらしい。  繰り返すベースの音の連なりは変わらないままに、徐々にそれが複雑になってくる。弦の震えや、音の伸び、短く切られたわずかな空白に捩じ込まれるわざと外れた不協和音。  シンプルに完成している絵に細かく描き込んでいくような音の繰り返しはそれから十分ほど続いた。 「うん」  ある時、ミランが言った。「もう一つ低い音が欲しいな」 「ベース?」 「それは絶対に必要になる。でももっと別の効果音が欲しい、重機のエンジン音あたりがいいかもしれない」 「パパを呼んでくるか?」 「いや。多分ドミトリもその辺りは考えてるだろう、その方向で歌詞をつける」

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