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第22話 最後の賭け③

 ミランの口調にはなんの迷いもなかった。まだ顔も名前も晒して毎朝天気を予言する気象予報士の方が疑われるだろう。 「だから今はそばに座っていてくれ」 「仰せのままに、お客様」  白い目がケヴィンを一瞥する。が、視線はすぐに手元のギターへ戻る。「俺とあなたは恋人だと言ったはずだ」 「公私混同するタイプか? ことごとく好みじゃないな」 「まだ十八時じゃない」ミランは右手でスタジオの壁にかかる時計を指した。十七時半。「他でもないあなたが決めた待ち合わせ時刻の前だ、なら今は明らかに勤務時間外だろう」 「可愛げのねえガキ」 「どうも。あなたも可愛げはないよ、俺たちはお似合いだ」  演奏が止んだのでケヴィンはサンドをまた頬張った。この一口を含めてあと三口で食べ終わるだろう。それが惜しいほどに完璧なカスタマイズだ。  十七時三十五分。十八時には此処を出発する。十分前には上階のドミトリと合流し、表の人通りを確認し、裏の駐車場から車を適当な位置へ引っ張ってくる必要がある。 「俺とお前は恋人じゃない」  いくつか考えた前置きはどれも無駄な時間を生むだけのものだった。そのためケヴィンは本題から話した。「そろそろ正しく言葉を使え、今夜はテレビ収録だろ」 「記憶が無いわりに断言するんだな」 「午後にコテージの中を掃除したが、お前と俺の交際を裏付けるものは何も無かった」ケヴィンはサンドの包装紙を片手で握り潰し、丸めた。「携帯に着信履歴もメールも特別なものはない。削除済みのデータも復元したが、何も無い。仮に俺とお前が交際していたならどう長く見ても一年足らずだ、こんな冷め切った夫婦みたいな関係になるには早過ぎないか?」  ボール状になった包装紙をケヴィンが放る。前触れもないキャッチボールだったが、ミランはそれを受け止めた。左手で。 「もっと別の関係だったら?」 「セックスフレンドか?」ケヴィンは右手を軽く上げた。グローブのように。そこへボールが戻ってくる。「それも無いな。私物の中にローションはおろかスキンもなかった。俺は随分不健康な生活を送っていたらしい、やつれるわけだ」 「俺が持って行ったのかもしれない」 「かもしれない、なんて言ってる時点でお前の負けだ。これ以上俺に無駄話をさせるな、時間外労働中の俺はお前の下僕じゃない」  ミランとケヴィンは会話しながらずっとキャッチボールをしていた。お互いに優れた投手で捕手だった。恋人ではなくバッテリーなら信憑性はあっただろう、とケヴィンはそんなことを考えた。考えて、ボールを今度こそ握り潰す。 「何故そんなちゃちな嘘をつく」 「それが嘘じゃないからだ」 「いい加減にしろ」 「賭けをした」  圧縮された包装紙はまるで折られた薔薇の棘のように奇妙な形をしていた。ケヴィンはそれをテーブルに置いた。    新たなキーワードだ。あるいは、新たな子供の嘘か。 「賭け?」 「あの日は」ミランは視線を壁にやった。何も飾られていない壁へ。「あなたはフロスト区へ行くと言った。俺は行くなと言った。あなたはあの頃やつれていたが、あの日は嘘のように穏やかだったからだ。俺にはそれがひどく不気味だった。でもあなたは何をどう言っても聞かなかった。俺が食い下がって、ようやくあなたは賭けをしようと言った」  ケヴィンは黙っていた。ミランの言葉が即興の作り話かどうかはまだ判断できなかった。 「もし自分に何かあったら、そんなことは万が一にもないから、俺と付き合う。そしてもし何もなく帰ってきたら、その時は今後一切口を出すな。そしてあなたは事故に遭った」 「証拠は?」 「俺に電話をかけている。事故当日の」ミランは自分の携帯を取り出した。黒い、どこにでも売っていそうな衝撃吸収剤のケースをつけている。「午後八時三十八分」  ケヴィンの携帯にはそんな発信履歴は無かった。だがその疑問にはミランが答えた。「公衆電話から掛かってきたからそっちの履歴は無いはずだ、あなたは用心深い」  ミランは携帯をテーブルへ置いた。画面にはビデオフォルダが表示され、そこには一つだけデータがある。画面収録のデータらしく、二十六秒間の携帯の画面と、その間にマイクから発された音声が録音されている。  ミランは何も言わなかったが、明らかに再生を促していた。  ケヴィンはゆっくりと椅子から背中を浮かせた。固い布を張っただけの背もたれから解放された背骨が喜んでいる。  携帯の画面に触れる。それだけで再生が開始された。  三角形の再生マークが二重線の停止マークに切り替わる。  まず聞こえたのは、深い溜息だった。  古い公衆電話なのだろう——今では公衆電話自体、もう街角から随分姿を消した——サラサラと砂が落ちるようなノイズ。 『ミラン?』  それは間違いなくケヴィンの声だった。 『今……終わった』  ひどく疲れた声だった。随分長い距離をただずっと、黙り込んで歩き通した後のような草臥れた声だった。 『これから、帰る……これで、賭けは……俺の勝ちだな』 『お前はもう……だから、気にするな』  ピー、と短い機械音が鳴った。小銭が落ちる音がした。 『……明日、ちゃんと話そう……お前の、妄想癖がどれだけ……ひどかったか……』 『じゃあな、これを聞いたら……さっさと寝ろ』 『おやすみ』  そこで再生が終わった。

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