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第3話 不本意です。★

 週明け、月曜日。祐輔はそっと玄関のドアを開けると、隣の家の車はなくなっていた。土日はずっと車が停まっていたけれど、見た感じ社会人っぽかったし、帰ったか、もしくは仕事に行ったのだろう、とホッとして家を出る。  祐輔は車通勤だ。公共交通機関を使うルートも考えたが、人と密着するのは苦手なので、維持費はかかるがそれなりのいい車を持っている。もちろん、免許証の色は、ゴールドだ。  真面目に、いい人を演じていればそこそこいい人生を送れる。それをモットーにして、性癖をひた隠しにしてきた。それなのに。 「……あの変態っ」  土曜日のことを思い出して、車の中でついつい悪態をつく。そして、いかんいかんと咳払いをした。  今度、また会ってTANAKAと呼ばれても、知らぬ存ぜぬで通せばいい。少し冷静に考えれば分かることなのに、俺としたことが昨日一昨日は動揺しすぎた、と祐輔は深呼吸をする。  とにかく、一度あの変態男のことは忘れて、仕事に集中しよう。大丈夫、いつも通りにやれば、怪しまれることはない。  ──そう思っていたのに。 「……という訳で、お前は異例の時期外れの昇進で今日から課長。んで、今日から入社した蓮香(はすか)をお前の後任に」  祐輔は、白目になりそうな意識で(かけい)総務部長の話を聞いていた。まさか、避けられない状況で再会するとは思わず、心の中でめいっぱい筧を罵倒する。どうやら、前のプロジェクトで目立ったのが仇になったらしい。蓮香も、支社からの栄転で、この異動が社内的にも気合いが入れられたものだと知った。 「あ、桃澤さん。よろしくお願いします」  しかも蓮香は祐輔を見るなり、同じ会社だったんですね、とニコニコと笑い、筧を訝しげな顔にさせた。慌てて「家が隣で、挨拶をしたので」と言うと、そういうこと、と筧は笑っていた。 「じゃああとは任せた。桃澤、困った時はいつでも相談に来いよ」  そう言って営業部を去っていく筧。今まさに困っていて人生最大のピンチなんです、とは言えず、祐輔は笑顔で礼を言う。確かに入社当初から目をかけてもらっているけれど、そんなプライベートな話をする仲じゃない。元々、筧は営業部だったので、気にしてくれているのは事実だろうけれど。 「じゃ、早速。蓮香さんの机はここで」  荷物を置いた蓮香を連れて、祐輔は彼を資料室に連れていく。 「支社では、どんな仕事を?」 「あ、エリアマネージャーしてました」  支社での業務内容を聞きつつ、祐輔は何から教えようか、と考える。そして、土曜日のことについて何も言わないなら、そのまま黙っていてくれ、と願った。  二人で資料室に入ると、祐輔は今動いている商品の資料を出していく。基本的に社外秘だから、見ることができる場所は限られるけれど、これをまず頭に入れてもらわないと話にならない。  片手に資料を抱えて、次々とファイルを出していると、後ろで様子を見ていた蓮香がボソリと呟いた。 「……やっぱりTANAKAさん……」  祐輔の手が止まる。やっぱり忘れてなかったか、と祐輔は意識的に笑顔で振り向き、ハッキリと言った。 「蓮香さん、俺は桃澤ですよ。人違いじゃありませんか?」 「俺がTANAKAさんを間違えるはずありません」  そう言って、一歩、蓮香は近付く。本能的に一歩後ずさりすると、棚にぶつかった。彼を見上げると、視線はある一点に注がれていて、そこを隠すためにファイルを前で抱える。 (こいつ、随分自信があるみたいだが、一体どうして……) 「この声、この身体のライン……間違いないです。何より……」  蓮香は両手をファイルを祐輔から取り上げ、棚に置いた。何を、と言いかけた瞬間、蓮香の両手は祐輔の胸にピタリと当てられる。突然のことに、ひっ、と情けない声を上げてしまい、蓮香を思い切り睨んだ。 「土曜日に見たあなたの乳首は、TANAKAさんと同じものでした」  何を言っているんだ、こいつは。人を乳首で判断してるっていうのか? 変態だ! と祐輔は叫びたかったけれど、こんな会話を聞かれたら人生が終わるし、今の状態も非常にまずい。とにかくこの手を退かそうと、蓮香の手首を掴む。 「いい加減にしろ。これは立派なセクハラだし、俺はTANAKAじゃない」  そう言ってグッと手に力を込めた。けれど蓮香の手はビクともせず、それどころか、蓮香は指を動かし俺の──乳首をシャツの上から引っ掻いた。 「──っ! 止め……っ」 「TANAKAさん……TANAKAさん……っ、ずっと、触りたかった……!」  クニクニと、シャツ越しに乳首が押しつぶされ、捏ねられ、擦られた。情けなくも祐輔はその刺激に抗えず、口から驚くほど甘い吐息が出てしまう。抵抗する力さえ奪われ、声を抑えるのに必死で手で口を塞ぐと、目の前の男は間近に祐輔の顔を見ていた。 「……黙ってますから。だから、TANAKAさんの乳首、触らせてください」  熱のこもった視線と声は、祐輔を見ているからなのか。やってくる波に抗えず、口を塞いだまま天井を仰ぐ。何だこれ、自分でするより──気持ちいい。 「……っ!!」  膝が笑って足に力を込めた。自然と内股になり、スラックスの中の中心が完全に勃っているのを自覚する。  こんな……こんなところで、しかも初対面に近い部下に……! 「……だ、め……やめろ……っ」  そして早々にやってきた絶頂への前兆。祐輔はそれになすすべもなく飲み込まれる。 「……──ッ!!」  全身が硬直し、視界と思考が真っ白になった。ガクガクと身体を震わせ、背中が反る。なぜか同時に蓮香も息を詰めたのを気配で感じ、脱力すると胸への刺激を止めたのでホッとした。まさか、他人にイかされる日が……しかも男の手でされるなんて思いもしなかった。 「すごい……本当に乳首だけでイケるんだ……」 「……あ?」  はあはあと、乱れた息のまま蓮香の言葉に彼を睨む。こっちは他人にイカされるなんて屈辱で怒り心頭なのに、本当に何なんだコイツは、と祐輔は彼の手を振り払った。 「ね、TANAKAさんでしょ? 黙ってますから、俺と付き合ってください」  さっきは触らせてくれと言っていたのに、今度は付き合ってくれとふざけたことを言う蓮香を、祐輔は睨むだけで口が開けなかった。怒りと羞恥と、この先の絶望を感じて唇が震えるものの、声が出せない。  男の手で、しっかり感じてしまった自分が許せなくて、何も言えない。それと同時に、こんな性癖を持つ気持ち悪い男に、触りたいというヤツがいて、祐輔は大いに困惑していた。 「お、脅すっていうのかよ……?」  やっと言えた言葉はこれだ。蓮香の言葉のニュアンスから、それはほぼ無いだろうに、と自分に呆れる。けれど、それ以外のニュアンスって何だと考えた時に出てきた答えを、祐輔は認めたくなかった。 「じゃあ、脅します。だから、俺と付き合ってください」  蓮香は祐輔を真っ直ぐ見ている。ピュアブラウンの髪に、刈り上げた箇所が黒髪なのは、染めているからなんだろうな、となぜかこんな時なのに思った。  こちらを見る黒目も明るめだ。目鼻立ちもハッキリしていて、女性が騒ぎそうな顔をしているのに、どうして自分なんだろう? と思う。 「……脅しなので、TANAKAさんの同意は要らないですね」 「おい、その名前で二度と呼ぶな」 「じゃあ決まり。よろしくお願いします、桃澤さん」  ニッコリ笑う蓮香は心底嬉しそうに笑った。どうしてそんなに嬉しそうなんだ、と思いつつ、蓮香の言うことを聞かないと祐輔の将来が危ないので、とりあえず頷く。すると蓮香は置いたファイルを持って、「俺が持ちます」と笑う。 「……本当に! ……黙っててくれるんだろうな?」  祐輔は周りを窺いながら声を潜めた。当然ながら資料室には二人しかいないけれど、妙に落ち着かない。 「もちろん。こんなにかわいい桃澤さんを、他の誰にも見せたくありませんから」 「……」  祐輔はその言葉には返事をせず、資料室を後にする。待ってくださいよ、と楽しそうに追いかけてくる蓮香は、一体何を考えているのか。  こうして、脅すにも何とも迫力のない流れで、祐輔には初めての同性の恋人ができた。  もちろん、祐輔的には非常に不本意なことである。

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