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第9話 泣き虫

 その日の夜、祐輔が自宅で待っていても、蓮香は来なかった。  約束した訳じゃないし、と晩御飯を作っていると、隣に車が停まる音がする。けれど、足音は真っ直ぐ家の中へと向かっていったようだ。 (何だよ……いつもならすぐに飛んで来るくせに)  そう思って逡巡する。  祐輔は作ったおかずを保存容器に詰めると、出掛ける準備をして、それらを持って外に出た。黒いワンボックスカーを横目にインターホンを押すが、応答がない。  祐輔は近くにあった窓から中を窺ってみる。けれど明かりがどこも点いていないことに気付き、素早く玄関に戻ってもう一度インターホンを押した。 「蓮香? 俺だ、桃澤だ。帰ってるんだろ?」  軽くドアをノックしてそう言うけれど、やはり反応がない。少し心配になって、今しがた覗いた窓をもう一度、と踏み出したところで、玄関ドアが開いた。 「何だよ、いるなら──」  そう言って、祐輔は蓮香の顔を見、言葉が出なくなる。蓮香は暗い玄関でも、死にそうなほど暗い表情をしていたのだ。 「祐輔さん……」  蓮香の声に力はなく、聞き取りにくいほど小さい。祐輔は素早く玄関のドアを閉めて鍵を掛けた。 「……おかず持ってきた。……どうした?」  できるだけ穏やかな声で話しかけ、保存容器を床に置いて蓮香を抱き締める。なぜか遠慮がちに回された腕が、蓮香のため息とともにギュッと締めてきた。 「祐輔さんから来てくれるなんて……」  それでもまだ、蓮香の声には覇気がない。大型犬よろしく元気に懐いてくる姿は、今は見る影もなかった。 「だって、いつも帰ってきたらすぐに家に来るじゃないか」 「うん……嬉しい……」  祐輔の言葉に、蓮香の声が少し上擦る。祐輔は彼の背中を宥めるようにぽんぽん、と優しく叩いた。  自分でも、蓮香になぜこうも優しくできるのか分からない。いきなり身体に触れられて、ただの隣人、ただの部下の域を超えているのに。  これはもしかして、犯人に同情した上に好意を抱いてしまう、ある意味ストックホルム症候群のようなものなのかも、なんて思う。 「メシ、まだだろ? 食べよう?」  お腹が空いていては、まともな判断もできない。祐輔は促したけれど、蓮香は離れる様子がない。 「どうしたんだ? いつもなら、問答無用で襲ってくるのに」  蓮香と出会って一ヶ月弱。たったそれだけで慣れてしまったこの触れ合い。先日は自分じゃない誰かを求めるように触れていた蓮香。祐輔を身代わりにしているから苦しそうなのかな、とか考える。 「……疲れました」 「よし、じゃあやっぱメシ食おう?」  ほら離れて、と背中を軽く叩くと、今度こそ蓮香は離れてくれた。顔を見ると、彼は眉を下げて笑う。 「……祐輔さんちがいいな」 「俺がせっかく来てやったのに、そういうこと言う?」 「いや、だって……」 「だってもクソもねぇ。上がるぞ」  なぜか家に上がらせない蓮香を強引に避け、祐輔は靴を脱いで中に入っていく。リビングらしき部屋に入り、明かりを点けた。 「……」  そこにはまだ開いていない段ボールが山積みになっていて、ソファーの上には服やタオルがこれもまた山積みになっている。  片付けている、という蓮香の言葉は、真っ赤な嘘だったという訳だ。どうりでいつも祐輔の家に来る訳だな、と納得する。 「お前、全然片付いてないじゃないか……」 「はあ……でも生活はできてるんで……」  祐輔は蓮香をジト目で見ると、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。この約一ヶ月で気温も下がってきている。衣替えもそろそろな時期にこれでは、冬物がどこにあるのかも分からない。 「……すみません、やる気が起きなくて……」 「そりゃあ俺んち来て体力消耗してたらな。……そうだ、今週末に片付けるか。俺も手伝うから」  そう言って、祐輔はローテーブルにおかずを置く。しかし返ってきたのは沈黙だ。返事がない蓮香を見ると彼は──笑いながら泣いていた。 「……すみません。何か……祐輔さんの優しさが沁みました」 「何だそれ。俺はいつだって優しいだろ?」 「……そうでしたね」  そうでしたねって何だよ、と祐輔は笑うと、蓮香は眩しいものを見るかのように目を細める。その柔らかい視線から感じるのはやはり、愛情だ。  蓮香は自分のことを本気で好きでいる。なぜかは分からないけれど、それはきちんと彼と向き合えば知れるのだろうか? それなら、祐輔も自分の気持ちをきちんと話さなければ。 「なぁ蓮香」  少し緊張して名前を呼ぶと、彼は手で涙を拭って返事をした。 「急に変な話するけど聞いてくれるか? ……俺、変な性癖のせいで今までの彼女、みんな引いてて……」  最近は恋愛を遠ざけていたんだ、と苦笑すると、蓮香は思いのほか真剣に小さく頷く。それに勇気をもらって、祐輔は話を続けた。 「正直なところ、俺はまだお前に恋愛感情は持ってない。けど、身体の関係を築けるくらいには好き、なんだと思う」     蓮香の胸の裡にある、泣いてしまうほどの感情が何なのか、知りたいと思っている。それが愛情なのか、そのほかの感情なのか、今は分からないけれど。 「まあ……ぶっちゃけ男と付き合うってのも、よく分かってないけど……」  すると蓮香は、そっと近付いてきて祐輔を抱き締めた。羽のようにふわりと優しく包まれて、それからゆっくり、大事なものを扱うように力を込められる。 「祐輔さん……好きです……」  耳元で聞こえる蓮香の声はまた震えていた。祐輔も彼の背中に腕を回し、先程と同じように、ぽんぽんと背中を叩く。 「さんきゅ。俺、きちんと自分の気持ちに答えを出すから。ちゃんとお前と向き合う。それでもいいなら、付き合ってくれ」 「はい……、はい……っ」  ほぼ吐息のような返事をした蓮香を、祐輔は少し離れて顔を見上げた。頬を包んで間近に見ると、やはりまた彼は涙を流している。 「泣き虫だな、お前は」  自分より図体はでかいくせして、涙脆い。かと思えば尻尾を振って懐いてくる大型犬のように、甘えてくる。ちっとも柔らかくも丸くもない身体なのに、触れられるととても気持ちいい。そしてそれらを考えると、祐輔の胸が少し温かくなるのだ。だから、少なくとも祐輔は、蓮香のことを嫌ってはいない。  とんでもない出逢いだったのに、何となく相性は合うと思うのだ。  ふと、彼の唇の左下に、小さなホクロがあることに気付く。そこを舐めたらどんな顔をするのだろう、という好奇心が湧いて、祐輔は蓮香の後頭部に手を回し、引き寄せた。  ぺろ、と舌を這わせると、少しザラザラしている。髭のせいか、と思ってそのホクロを眺めていると、それが近付いて額にキスをされた。

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