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第37話 言えなかった気持ち
その後、蓮香と祐輔は別々の部屋で、芳川とその元夫がどんな人となりだったのかを聞かれた。
特に芳川とは事件の直前まで一緒にいたので、細かいことを何度も確認するように聞かれ、体力的にも精神的にも疲れてしまう。
ご協力ありがとうございました、と事務的な挨拶をされ、愛想笑いもしんどいと思いながら見送ると、筧にまた、会議室に集められた。
「最近は人権を守ることが優先されるようだから、事件の内容は教えてくれなかったけどね」
そう言って筧はスマホを取り出す。画面を見せてくれたので蓮香とそれを覗くと、事件の内容が書かれていた。
『二十代女性を四十箇所めった刺し、離婚の腹いせか』
センセーショナルな見出しで書かれていたのは、間違いなく会社の近くで起きた事件だった。現行犯逮捕で犯人は大人しく捕まって、殺すつもりでやったと供述していると書かれている。
そして芳川らしき女性の容体は、搬送先の病院で死亡が確認された、とあった。
この記事だけを見ると、元夫がとんでもない人物に見えるけれど、実際はどうだったのか。そう思うひとは多くはないだろう。芳川の人となりを知る身としては、彼女には申し訳ないがやっぱりな、という感想だ。
蓮香は長い間付きまとわれていたけれど、壮絶な芳川の最期に、それなりにショックを受けたようだ。その様子を見た筧は、祐輔と共に一週間ほど休んではどうかと言われる。
「休んだら……またろくでもないことを考えてしまいます」
そう言った蓮香は今にも倒れそうだった。休むことを嫌がる蓮香の気持ちは分からないでもないけれど、はた目から見ても彼はしんどそうだ。
「蓮香……」
祐輔はそっと、彼の背中を撫でる。
「部長、ではお言葉に甘えます」
そう言うと、筧はそっと会議室を出て行った。きっと気を利かせてくれたのだろう、と思い、蓮香の背中をもう一度撫でると、彼は祐輔に抱きついてくる。ずっと我慢していたであろう彼は、痛いほど腕に力を込めてきた。
「祐輔さん……」
呟く彼の声は聞き取りにくいほど小さい。彼なりに複雑なのだろうな、と思うと、いっぱい甘やかしてやりたい気分になる。
「……泣いていいぞ」
背中を優しく叩きながら祐輔はそう言うと、蓮香は小さく首を振った。
今まで蓮香を苦しめたことへの制裁が下ったと考えれば、溜飲は下がるかもしれない。けれど、身近なひとの死に彼は苦しんでいる。優しいひとなのだ。だからこそ付け込まれた訳だけれど。
「蓮香、帰って美味しいもの食べよう」
「……祐輔さんの手料理がいいです」
「おま……俺に作らせるのか。毎日手料理食べさせてるだろ」
バシ、と背中を叩くと、蓮香は小さく声を上げた。そのあとにくつくつと肩を震わせたので、笑っているのかと思って顔を覗いたら──違った。
「アイツのこと、心底嫌いだった……だから、死んでせいせいしてるって思った自分が、人間じゃないみたいで嫌だと思って……っ」
「蓮香……」
ボロボロと泣く蓮香は、祐輔の両肩を掴んで唇を噛んでいる。その唇が、強く噛みすぎて切れそうだと思い、そっと指でそこを撫でた。
「蓮香、そう思ったなら否定しなくていい。少なくとも俺の前では、そういう感情は全部教えてくれ」
受け止めてやる、そう言うと蓮香はまた、祐輔に抱きついてきた。
柳のこともあって、当時は辛い、しんどいと言えなかったのだろう、彼の性格からして、芳川のことを柳に伝えることはしなかっただろうし、と祐輔は思う。
殺されてせいせいしたと思うほどの激しい感情を、蓮香は芳川に対し、ずっと抱えていたのだ。それを言えないでいたのなら、体調も崩すだろう。
「そう考えてもおかしくないほどのことをされたんだ、お前は……貴徳は、ちゃんと真っ当な人間だよ」
人の死に際に、誰が邪魔するだろうか? 看取ってやりたいと思っていた、大切なひとの最期にそばにいられず、彼はどれだけ後悔しただろう。それだけのことを、芳川はやったのだ。祐輔からすれば、芳川の方がよっぽど人間ではない。
「祐輔さん……っ」
会社の会議室だと言うのに、祐輔たちはそのまま抱き合ってしばらく過ごした。祐輔はずっと蓮香の後頭部を撫で、彼が落ち着くのを待つ。
やがて蓮香の呼吸が落ち着いて少し経った頃、彼は祐輔から離れ、顔を見せてくれた。涙と鼻水で濡れているし、目も鼻も真っ赤だったけれど、表情は幾分かスッキリしていたので安心する。
「……帰るか?」
「……はい」
控えめながらも笑った蓮香に、祐輔は彼を引き寄せ背伸びをした。彼の少し厚めの唇に祐輔のそれを合わせると、すぐに離れる。
呆けたようにこちらを見る蓮香がかわいくて、祐輔は行くぞ、と出入口に向かった。
「祐輔さんっ」
するとすぐに腕を掴まれ振り向かされる。そして今しがた触れた唇で、自分のを吸われたのだ。
忘れていた。彼は祐輔からアクションを起こすと、煽られたと言って火がついてしまうことを。
「ち、ちょっと……っ」
さすがにここではまずい、と祐輔は抵抗する。しかし、スーツのジャケットの下に手を入れられ、慣れた手つきで敏感な胸を探り当てられた。グッと背中を反らすと、蓮香の反対の腕が祐輔の背中を支えている。
「あ、あ、煽ってないぞ……っ?」
「不意打ちでキスとか……かわいすぎます」
「いや、さすがにここではしないぞ? 落ち着け、なっ?」
すると、ドンドン! と会議室のドアが激しく叩かれた。二人は身体をビクつかせて固まり、息を詰めて様子を窺う。
まさか今の会話を、誰かに聞かれたんじゃ、と祐輔は嫌な汗が出始めた。やめてくれ、せっかく会社にいられると思っていたのに、今の会話のせいで追い出されるのは嫌だぞ、とドアを固唾を飲んで見つめる。
すると、ドアが少し開いた。咄嗟に二人は離れたけれど、会話を聞かれていたらどちらにしろアウトだ。
細い隙間から顔を見せたのは、佐々木だった。長い前髪で表情はよく分からないけれど、口元が笑っているのはよく見える。
「桃澤課長って……やっぱりネコだったんですね。蓮香さん、程々に。仕事に影響出たら私が困りますから」
ふふふ、となぜか笑って静かにドアを閉めた佐々木。
「ぁあああああああ……!」
直後、会社でそんなことをするなと言われた方がまだマシだった! と祐輔が頭を抱えて床に突っ伏したことは、言うまでもない。
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