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第一章 春の朝 再会
学校へと続く、桜並木の上り坂。桜吹雪に遮られた視界を、突然黒い人影が奪った。
「久しぶりだね」
馴れ馴れしく声をかけてきたのは、俺と同じ制服に身を包んだ男。派手な金髪がキラキラと眩しい、やたらめったらデカい男だった。目を合わせようとすると、首が痛い。中一で成長が止まった俺にとっては、この上ない屈辱である。
「誰だお前」
「えぇっ、ヒドいなぁ。覚えてないの?」
男はわざとらしく悲しい表情を作り、軽薄な笑顔で自身の顔を指した。
「オレだよ、オレ」
「詐欺ならもっとアホそうな奴を選ぶんだな」
俺はスクールバッグを肩に掛け直して、さっと身を躱した。
「あっ、ちょいちょい、待ってくれよ!」
俺が速足で歩くのに、男は大股で悠々と追いかけてくる。背が高いだけでなく、足も長いのか。ますます気に食わない。
「なーぁ、そう怒んないで。ほら、よく見てよ。オレのこの整った顔立ちを。何か思い出さないか?」
「お前みたいな礼儀のなってない奴は知り合いにいない」
「そーかそーか、確かに礼はなってなかったかもしれないが、昔のよしみで許してくれよ」「だから、知らないっつってんだろ」
登校初日から変な奴に絡まれるなんて、最悪だ。道行く新入生、在校生、野良猫の視線までもがチクチク痛い。
「何なんだよお前。これ以上ついてくんな。どっか行けよ」
「思い出してくれたら、考えないこともないよ」
「はぁ? だから知らないって――」
逃げるようで癪だが走り出そうとすると、乱暴に腕を掴まれた。
「な、放せ……!」
「君がオレを知らないはずないんだ。よぉく、思い出してみてくれ。昔の記憶を手繰り寄せて」
鼻と鼻がぶつかりそうな距離に、男の顔面が近付いてくる。気味が悪くて飛び退きたくなるが、捕らえられて逃げられない。
「この顔に、見覚えあるだろう?」
榛 色の、ぱっちりとした瞳。瞼を彩るのは、亜麻色の睫毛。こいつのこのチャラついた金髪は、染めているのではなく地毛だったのか。
「……たっ…………樹 ?」
俺が声を振り絞ると、男は一層強い力で俺の肩を鷲掴みにした。指の跡が残るんじゃないかってくらい強い力だ。骨が軋む。
「そうだよ、大正解! 久しぶりだね、悠 ちゃん!」
男はにっこりと笑った。先ほどの張り付けたような笑顔ではない、自然な笑顔だった。
樹は昔、俺の家の隣に住んでいた。昔といっても、本当に、とてもとても昔のことだ。保育園に一緒に通って、小学校も途中まで一緒に通ったのに、突然何も言わずに引っ越してしまって、それっきり。
「オレさ、またこの町に戻ってきたんだよ。家も前と同じだから、またお隣さんだぜ。よろしくな」
呆然とする俺のことはそっちのけで、樹は一人で喋り立てる。何がそんなに楽しいのか。
「いやぁ、引っ越したその日に挨拶に行くつもりだったんだけど、なかなかタイミングが合わなくてね。でもオレ、早く悠ちゃんに会いたくてそわそわしてたんだ。そしたら、まさか同じ高校だったとはな。運命感じちゃうよね、ね?」
こいつ、昔からこんなにおしゃべりだったろうか。昔と変わらない長めの襟足も明るい髪色も、高校生になって見るとひどく軟派で軽薄な印象を与える。
「悠ちゃん、クラスは何組なんだい? オレは九組だよ。もしかして、一組とか二組とかなのかな。入学式の時は見かけなかったから、離れてるのかもね。教室遠いけど、昼休みとか遊びに行ってもいい? 早速今日から」
「……悪いけど……」
俺は、身を縮めて樹の腕の中から抜け出し、今度こそ走って逃げた。「待ってくれよ!」と呼ぶ声が背後から聞こえたが、俺は決して振り返らなかった。
午前中ずっと、やけに目が冴えていたのに、授業の内容はあまり頭に入らなかった。昼休みになり、弁当を持って屋上へでも行こうと席を立つと、教室の後ろのドアが激しく音を立てて開かれた。
「橘悠李 くん、いますか!」
俺はぎょっとして振り向いた。クラス中静まり返り、視線が俺に注がれる。今時小学生でも、こんなに目立つ方法で人を呼んだりしない。
「た、橘くん……? お友達、呼んでるよ?」
突っ立ったまま動けずにいる俺に、隣の席の女子が気を遣ってくれる。加えて、
「元気なお友達だね。橘くんとはタイプが違う感じ?」
なんて言われた日には、もう恥ずかしくて居ても立っても居られなくなり、俺は教室の前の扉から飛び出した。
「あれ? 悠ちゃんってば! 何だい、鬼ごっこ?」
お気楽な脳味噌でそう結論付けたらしい樹は、もちろん俺を追いかけてくる。一年の教室は一階、二階は二年、三階は三年、その上がようやく屋上だ。俺が一段ずつ階段を駆け上がるのに、樹は余裕綽々と段飛ばしで上る。それが癪で、俺も一段飛ばしで駆け上ったが、僅か数歩で思いっ切り足を踏み外した。
重力が逆転し、視界が百八十度反転し、頭から真っ逆さまに落っこちる。ヤバい、と思うのに頭はいやに冷静で、スローモーションでも見ているみたいだった。
「――っと! 急ぐと危ないよ」
腕を力強く掴まれて、引き上げられた。誰に、なんて言うまでもない。樹は、少女漫画のヒーローも顔負けの爽やかな笑みを浮かべて、俺を見下ろしていた。
「悠ちゃん、お昼は屋上で食べたい派なの? オレは、悠ちゃんと食べれるならどこでもいいんだけどね。今日なんか晴れててあったかくて、絶好のピクニック日和じゃないか。ね、ほら、早く行こうよ」
樹は俺の手を引いて、屋上のドアを押した。春の淡い陽射しが嫌になるくらい眩しくて、俺は目を細めた。
「わぁっ、意外と広いんだね」
樹は俺の手を放さず、フェンスに沿って並ぶベンチ――何の面白みもない、青のアルミベンチ――に腰掛けた。俺達の他にも、昼食をとる学生の姿がある。
「悠ちゃんも、早く座りなよ。そんで、早くごはんにしようぜ。昼休み終わっちゃうよ」
樹が手を放さないから、隣に座らざるを得ない。こうなったら、さっさと飯を食ってさっさと教室に戻るのが、一番傷が浅くて済むかもしれない。俺は、膝の上で弁当箱を広げた。
「わぁ、お弁当だぁ。かわいいね。自分で作ってるの?」
どこがかわいいのだろう。これといって特徴のない、シンプルな二段重ねの弁当箱だ。特に目を引くおかずもない。
「オレのお昼はね、購買で買った焼きそばとコロッケ! どうだい、おいしそうだろう。そうだ、悠ちゃんにも一口あげるよ」
「は? いらな……」
「いいからいいから。遠慮しないでくれ」
樹は割り箸でコロッケを切り、俺の弁当箱に載せた。
「代わりに卵焼きもらうね」
俺の声なんか全然聞かず、樹はそれを頬張った。
「あは、やっぱり出汁巻きだ。悠ちゃん家の卵焼きって、昔から出汁巻きだよね。おいしい。あ、ほらほら、ちゃんと交換したんだから、遠慮しないでコロッケも食べてくれよ? 残しても食べてやらないぞ」
コロッケなんかいらなかったのに。俺には出汁巻き玉子があったのに。
「それにしても、悠ちゃんがほんとに二組だったなんてね。オレの予想大当たりじゃないか。すごい推理だと思わないかい? 褒めてくれていいよ。二組ってことは、芸術選択は美術にしたのかな。ちなみにオレは音楽だよ」
一人でよくもべらべらと喋り続けられるものだ。いっそ感心する。昔からこうだったろうか。よく思い出せない。
「二組の五時間目の授業は何だい? 九組は古典なんだけど、お腹いっぱいで眠くなりそうだよ。優しい先生だと嬉しいな。悠ちゃんもそう思うだろ?」
五十分間の昼休みは、樹の一方的なおしゃべりだけであっという間に過ぎ去った。
放課後、昇降口から校門へと続くアプローチは、色々な部活が勧誘のビラを撒いていてごった返していた。やれサッカー部だの野球部だの吹奏楽部だの、こちらが新入生と見るや我先にと駆け寄ってきて、ビラを押し付けてくる。俺はいちいち断るのが面倒で、目の前に突き出されたものを片っ端から受け取っていった。
大量の紙切れをとりあえず整頓させてからバッグに入れようと奮闘していたら、「悠ちゃん」と今朝から飽きるほど耳にしていた声がした。校門のそばに、樹が立っていた。長い脚をクロスさせているその立ち姿も、ただそれだけでなぜかすごく様になっている。俺の姿を認めるなり、大股の悠然とした足取りで近付いてきた。
「遅かったじゃないか。掃除当番だったのかい? オレは、今週は休みなんだ。ああそれ、そこでもらったの? オレもほしかったのに、誰も配ってくれなかったんだ。ヒドい話だろう?」
「……ほしいならやる」
「えっ、ほんとに? 嬉しいなぁ」
何が嬉しいんだ、そんなゴミをもらって。樹は、整頓されないままのぐちゃぐちゃの紙切れを、スクールバッグに押し込んだ。その隙に俺は一人で先に帰ろうとしたが、やっぱり樹に追い付かれた。
「そんなに急がないでくれよ。どうせ帰り道は一緒なんだから、一緒に帰ろうぜ。小学生の時みたいにさ。懐かしいよね。黒いランドセル背負って、黄色い帽子被ってさ。悠ちゃん家でビデオ見ながらおやつ食べるの、楽しかったなぁ」
何も楽しくない。懐かしくもない。樹は、ただでさえ周囲より頭一つ抜けて大柄だというのに、そのはっきりとした顔立ちと派手な髪型も相まって、尋常じゃなく目立つ。前を歩いている女子生徒が、ちらちらこちらを振り返る。後ろを歩く女子生徒が、ひそひそ噂話をしている。今脇を通り抜けた自転車も、確かにこっちを見ていた。
「結局、午後の古典の授業は寝ないで済んだんだけどね、先生がちょっと厳しそうだったんだ。体育会系っていうか、熱血っぽくてさ。現代文はおじいちゃん先生だったから楽そ……いや、楽しそうなんだけどね。悠ちゃんは、今日の授業はどうだった? おもしろそうな先生、いた?」
絶賛売り出し中の若手俳優か何かと見紛う男の隣を、俺みたいなちんちくりんが歩いているものだから、注目度も三倍増しといったところだ。視線が痛い。なのに、樹は周りの視線など一切気にならないようで、一人でべらべらと喋り続けた。
十分ほど電車に揺られ、駅前の商店街を通り過ぎると、閑静な住宅街が広がる。この何の変哲もない街が、俺の育った街だ。一度いなくなった樹が、なぜか今更戻ってきた街だ。元々樹が住んでいた俺の隣の家は、樹が引っ越してから一度別の家族が住んでいたが、ここ数年はずっと空き家だった。樹はカバンから鍵を取り出して、玄関を開けた。
「それじゃ、また明日」
いなくなったと思っていたものが、今確かにここにある。どうして?
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