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第一章 春の朝 登校

 朝食は白米と味噌汁。おかずは卵と魚。海苔と納豆と漬物。これが定番の献立だ。食後の牛乳を飲んでいると、玄関のチャイムが鳴った。祖母は最近耳が遠くて気付いていない。俺も、朝っぱらから客人の対応なんてやりたくない。というか、まだパジャマだし。ここは無視しておこうか。が、立て続けにピンポンピンポン鳴るものだから、いい加減うるさくて玄関を開けた。   「おはよう、悠ちゃん。いい朝だn――」    いい笑顔の樹が立っていた。俺は反射的にドアを閉めた。しかし完全に閉まり切る前に、長い脚がドアの隙間に挟み込まれた。   「ちょいちょい! まだ挨拶の途中だってのに、ヒドいぜ」    長い脚でドアを抉じ開ける。ちょっとばかりヤクザな仕草だが、「どちらさん?」と言って祖母が居間から出てくると、樹は背筋を正して居直った。   「おはようございます! オレ、前に隣に住んでた――」 「まあ! もしかして、お隣のタッちゃん? あらあらまあまあ、ちょっと見ないうちに立派になっちゃって! せっかくだからお上がりなさい、ね。ココアでも飲んできなさい。それともヤクルトがいいかしらね」 「いやぁ、お気遣いなく」    なんて言いながら、樹はまんまと居間に上がり込んで食卓についた。祖母は台所でココアを作っている。俺は残りの牛乳を飲み干した。朝のニュース番組は占いのコーナーに移る。牡羊座は一位、水瓶座は十二位だ。ラッキーカラーはゴールドと言われたって、どうすればいいか分からない。五円玉でもぶら下げときゃいいのか。   「そのパジャマ、かわいいね」    樹が頬杖をついて言った。顔面偏差値の高い者にしか許されない微笑みを浮かべて。   「どこで買ったの?」    俺は立ち上がった。   「あれ、どこ行くのさ」 「着替え」    ちょうどココアができたらしく、祖母と樹の談笑が聞こえる。俺は二階の自室へ行き、パジャマを脱いだ。客観的に見てみても、特にかわいくもかっこよくもない、普通のパジャマだ。ポケットに猫のイラストがプリントされているが、それをかわいいと樹は言ったのだろうか。こんなことなら、食事の前に着替えを済ませておくんだった。   「悠ちゃーん?」 「っ!」    口から心臓が飛び出るかと思った。樹が、勝手に扉を開けて部屋に入ってこようとしている。   「ごめん、着替え中だったね」 「……別に……」    確かに着替え中だ。まだワイシャツを着ただけで、これからスラックスに足を通そうという段階だ。樹は、何やら気まずそうに目を逸らして廊下側を向いた。   「悠ちゃんのおばあちゃん、昔と全然変わらないんだな。びっくりしたぜ。ミロをココアって言って出すのも変わらないし。おいしいから好きだけどね、ミロ。悠ちゃんはあんまり飲まないのかい? ココアより牛乳の方が好きなの? ミルクココアもおいしいと思うけどな」 「……なぁ」 「何だい? 着替え終わった?」 「いや、まだ……」    せっかちな奴だ。まだこれからネクタイを締めなければいけないというのに。   「……お前、なんで戻ってきた」 「なんでって、母親が再婚したからさ」 「でも、何も……」 「いやいや、ここはいい街だよ? 遊べるところもちゃんとあるし、東京近いしさ。それに悠ちゃんが住んでる」    俺が住んでいるということは何の理由にもなっていない。適当なことを言ってはぐらかすつもりだろうか。   「お前……」 「何だい」 「その……悠ちゃんって呼ぶの、やめろよ」 「えぇー、悠ちゃんは悠ちゃんだろう? じゃあなんて呼べばいいんだい。悠くん? 悠李ちゃん? いっそ橘とか?」 「普通に名前でいい。……悠李ちゃんは絶対やめろ」 「ふぅん。じゃあ、悠李」    生まれてこの方十五年、否が応でも付き合ってきた己の名前が、驚くほど新鮮な響きを持って俺の鼓膜を震わす。   「……やっぱり名字にしろ」 「いやいや、でもさ、おばあちゃんももちろん橘さんだろう? こんがらがっちゃうし、なんか失礼な感じもするしな。悠李は悠李でいいんじゃないかい」    呼び捨てにされるのも愛称で呼ばれるのも、どちらも何となく嫌だ。樹に呼ばれるから嫌だ。こんなことになるなら、変なこと言わなきゃよかった。    階下で祖母が呼んでいる。そろそろ出ないと遅刻すると言っている。樹もその声に気付いて、「さすがに着替え終わったよね」と言ってこちらを振り向いた。   「カーディガンもかわいいね」    どこがだ。限りなく無個性に近い、紺色のカーディガンだ。こいつの目は節穴なのか。   「……昨日寒かったから」 「そうだよね! オレも今日はカーディガン着てきたんだぜ」    ほら、とブレザーの前を広げる。わざわざ見せなくても、隙間からちゃんと見えていた。   「……ベージュ」 「やだなぁ、キャメルって言ってくれよ。そっちの方がオシャレだろ?」    俺からすればどっちでも同じだ。スクールバッグを肩に掛けて樹の脇を通り過ぎると、柑橘系の爽やかな匂いがふわりと香った。こいつ、体臭までモデル並みなのか。   「悠ちゃん悠ちゃん、今日もまた……あ、じゃなくて、悠李」 「好きにしろよ、もう……」 「ほんとに? やったぜ」    家を出るところから樹と一緒に登校するなんて、まるで小学生に戻ったみたいだ。でも、あの頃の方がもっとずっとよかった。

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