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第二章 初夏の日 漫画とゲーム

「今日も悠ちゃん家行っていいかい?」「今日は公園で遊ぼうぜ」「駄菓子屋寄ってこうよ」「川で水切りしたいな」「神社の児童館行ってみようぜ」「土手滑りしようよ」「川向こうの公園行こう」「自転車でちょっと遠出しない?」    樹は毎日のように俺を誘う。今日は「うちでゲームしようぜ」だ。樹の家を訪れるのは子供の頃以来で、何となく、インターホンを押そうとする手が緊張した。が、鳴らす前にドアが開いて、キャメルのカーディガンが出迎えた。   「どうしたんだい、ぼーっと突っ立って。別にチャイムなんかしなくても、勝手に上がってくれていいんだぜ。昔もそうしてたじゃないか。だから鍵も開けておいたんだからさ。次からはそうしてくれよ」    気流に乗って、樹の家の匂いがする。家というか、樹の匂いだ。シトラス系の、ムカつくほどに清涼感のある香り。昔はこんな匂いはしなかったはずなのに。昔はもっと普通の、何というか、親しみやすい匂いだったはずだ。   「……これ、おやつにって」    俺は、祖母がくれた紙袋を手渡した。   「わぁっ、蒸しパンじゃないか。オレこれ大好きなんだ。後でお礼言っといてくれよ。ああ、いつまでも玄関先で悪かったね。オレの部屋は前と同じだから、先行っててくれ。飲み物は何にする?」 「お茶で」 「冷たいのでいいかい? 氷は?」 「いらない」    樹の家と俺の家は隣同士だが、造りは随分違う。広々としたリビングダイニングに、寝そべりサイズのソファ。高画質の大きなテレビに、ふかふかのカーペット。高くて明るい天井と、真っ直ぐに伸びる長い階段。    樹の部屋は憧れの洋室で、床にはカーペットが敷かれ、小さいテーブルの周りにはクッションがいくつか転がっている。もちろん寝床はベッドである。南側の窓はベランダになっているが、もう一つ洒落た出窓がついていて、そこから俺の部屋を見ることができる。    学習机は、子供の頃使っていたキャラものではなく、大人っぽくてスタイリッシュなデスクに様変わりしていた。棚に教科書や参考書が収納されていたが、その並びになぜか少年漫画雑誌が混ざっていて、何とはなしに手に取った。表紙もページも、少しばかり日焼けして色褪せている。   「エロ本でも見つけたかい?」 「! ちがっ……」    俺は慌てて本を閉じた。   「あはは、うそうそ。読んでていいよ」    樹は、お盆をミニテーブルに置く。蒸しパンは皿に並べられていた。   「それねー、日付見たら分かると思うけど、結構昔の雑誌なんだぜ。すごいだろう」 「昔、っていうか……」    ちょうど、樹が引っ越していなくなる直前に発行されたものだ。この部屋で、二人で読んだ。日の当たる窓辺に寝転んで読んだ。今はもう、漫画なんて読まないが。   「引っ越しの時に、押し入れの奥からたまたま見つかってさ。なんだか懐かしくって、持ってきちゃったんだ。それに、捨てるのももったいないだろう?」 「別に、捨てればいいだろ。こんなもん」 「ううん、まぁ、いずれな」    そんなことを言いながら、俺はまたページを捲っていた。面白いのか面白くないのか、よく分からないのに。昔は楽しく読んでいたのだろうか。   「立ってないで、こっちにおいでよ」    樹がクッションを叩くので、腰を下ろす。低反発というのだろうか、軟らかすぎず硬すぎず、尻に優しい。   「今日はゲームはやめて、漫画読む会にしようか」 「いい。すぐ終わるから」 「遠慮しないでいいんだぜ。他にもあるから、持ってきてあげるよ。うちの母親ミーハーだからさ、話題になるとすぐ買ってくるんだ。まぁ、すぐ飽きて売りに出しちゃうんだけどね」    樹は、リビングの本棚から何冊か選んで持ってきた。どれもこれも映像化されている話題作ばかりだ。話の内容は知らないが、タイトルくらいは広告で見たことがある。俺は、表紙が気に入ったものを適当に手に取った。   「ああ、それ。オレも読んだけど、おもしろかったぜ。アニメも去年やってたんだよね。続編は作られるのかな。映画でもいいけどな。一応最新刊まで揃ってるから、気に入ったなら持ってきてあげよう」    漫画に限らず娯楽用の本なんて普段自分では買わないが、実際に読むと結構引き込まれる。巷ではこういう作品が受けているのか。所謂バトル漫画で、ストーリーは申し分なく面白い。線が少々雑だが、それが逆に独特の迫力と躍動感を生み出している気がする。ページを繰る手が止まらない。    くす、と樹が笑った。俺はばっと顔を上げる。樹も本を読んでいるものと思っていたのに、その手にはアイスティーの注がれたグラスがあるだけで、しかもなぜか、こちらを見て微笑んでいた。   「……何かおかしかったか」 「ううん。真剣な表情がかわいいと思っただけだぜ」    カーテンの開いた窓から西日が射して、樹の輪郭を金色にぼかす。   「漫画もいいけど、おやつも食べたらどうだい? せっかく持ってきてくれたんだからさ。いらないんなら、オレが全部食べちゃうぞ」    俺は漫画本を膝に置き、蒸しパンケーキを手に取った。紙カップを剥いて、一口齧る。粗刻みのバナナが混ぜ込んである、自然のままの仄かな甘み。保育園生の頃から変わらない味。ずっとおやつの定番だった。   「……明日は」 「何だい?」 「……明日は、ゲームするか」    俺から誘うのは初めてだったからか、樹は見るからに嬉しそうな顔をした。   「うんうんうん! いいね! オレもそれがいいと思ってたんだ。ソフトは何にしようか? 来てすぐに遊べるようにセットしておくよ」 「マリカー」 「あはは。昔から好きだよね、それ。レース系は悠ちゃん強いもんな」 「操作が簡単だからな」 「でも格闘系はダメダメだよね。いっつもオレにボコボコにされてさ」 「操作が分からん。お前、家で一人で練習してたんだろ」 「やだなぁ、そんなフェアじゃないことしないよ。ゲームは悠ちゃんがいる時しかしなかったぜ」 「スポーツもお前の方がうまかった」 「リズム系は悠ちゃんの方が強かったよ」 「桃鉄もお前の方が」 「いやいや、あれは運要素強いからな。勝ち負けは半々くらいだったんじゃないか? それよりさ、このハード一応最新版だから、昔はなかった新しいゲームも色々遊べるんだ。これから追々やってこうぜ。ソフト買い足してもいいしな」    話していたら、遊びたくなってきた。しかし漫画の続きも気になる。   「いいよいいよ。今日は漫画の日。ゲームは明日。明後日はどうする? 予定があるって、素晴らしいことだと思わないか?」    それはそうだ。だが、あったはずの予定が突然消えてしまった時の絶望と虚しさも、俺は痛いほど知っている。

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