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第二章 初夏の日 宿題
樹は、普段はどちらかというとおちゃらけているし、とにかく遊びたがりで、真面目に勉強するタイプでもなさそうだが、実はかなり成績優秀だ。俺がそのことを知ったのは、中間試験が終わった後だった。
上位二十名は廊下に名前が貼り出されるのだが、その中に樹の名前もあった。その頃には樹は俺のクラスでも相当有名人になっていたので、「悠ちゃんの友達の名前、廊下にあったな」なんて茶化された。ちなみに、俺のこの恥ずかしい呼び名も地味に広まりつつある。
一方で、俺の成績は平均よりちょっといい程度だ。授業はちゃんと聞いているし、出された課題も一応こなしているのに、おかしなことだ。樹は、何か特別な勉強法でも知っているのだろうか。学習塾に通っている様子はないが。
「勉強? 特に何もしていないぜ」
樹はあっけらかんと言い放つ。
「つまらない嘘をつくな。何もしないであんな点数取れるわけない」
「いやいや、ウソじゃないって。なんで疑うんだい。ほんとに何にもしてないよ。だって、学校の勉強なんて、授業一回聞けば分かるじゃないか」
呆れた。こいつは、所謂天才の部類に入るやつだ。こんなやつに勉強法を乞おうとした俺が愚かだった。何の参考にもならない。
「まぁ、試験前はパラパラっと教科書読んだりするけどね。宿題もさ、先生がうるさいから一応やるけど、あんなのつまらな――ちょい、どこ行くんだい」
「図書館」
いつもは東口から降りるのだが、俺は踵を返して西口へ向かった。駅を出てすぐのところに、市立図書館がある。
「何か読みたい本でもあるのかい?」
「静かだから」
「そりゃあ静かだろうけど、今日はドーナツ食べに行くって約束だったじゃないか。あ、ドーナツ屋は騒がしいから嫌だとか?」
「勉強しに行くんだよ。ドーナツ屋は帰りに寄ればいいだろ」
「勉強!? だってさ、ついこないだ試験終わったばっかじゃないか。しばらく勉強はいいんじゃないかい」
「……俺はお前とは違うんだ」
樹に負けると、なんだか悔しい。昔は、勉強も運動も同じくらいの出来だったはずなのに、いつどこで差が付いたのだろう。いまや樹は、顔もよくて背も高くて勉強もできて運動は――知らないが、ともかく、このままでは樹だけが完璧超人になってしまう。こんなことでまで置いていかれるなんて、冗談じゃない。
「次の試験では、俺も廊下に名前を載せる」
「ふぅん? 悠ちゃんは真面目だなぁ」
図書館内は広くて天井が高いが、薄暗い。敷き詰められたカーペットのせいか、若干かび臭いというか埃臭いというか、独特のにおいが充満している。ありがたいことに自習室が完備されていて、しかもテスト明けのためか学生はおらず、ほとんど貸切状態だった。
「まずは英語? サイドリーダー読むの? 最近配られたやつだね、それ」
英語の副読本だ。ページ数は少なく文章も難しくない洋書で、長文読解の練習になるらしい。そんなに難しくないとはいえ、辞書がなくては俺は読めない。
「オレは何をしたらいいのかな?」
「お前も勉強すればいいだろ」
「えー? うーん。今そんな気分じゃないなぁ」
「別に帰ってもいいんだぞ」
「うーん、でも、せっかく久しぶりに来たしなぁ」
「じゃあ適当に本でも読んでろ」
「ああ、いいね、それ。図書館って、小説とかも置いてるんだっけ? ちょっと探してくるよ」
サイドリーダーは平易な文章で書かれているはずだが、不思議なことに全く読み進められない。一文ごとに辞書を確認して、単語の意味をいちいち書き込んでいくが、そのまま読むと日本語の文章としておかしくなる。だからまた辞書を引き、単語の意味を書き直して、でもやっぱり日本語訳が自然にならないから、困ってまた辞書を引く。
クソ、これだから英語は嫌いなんだ。一つの単語にいくつも意味があって、そのくせに、訳す時にはその意味が丸きり消えていたりする。複雑怪奇だ。
「悠ちゃん、そこはさ……」
すっ、と樹の長い指が横から伸びてきた。俺が四苦八苦しながら和訳しようとしていた英文をなぞる。
「ここの三つの単語、離れてるけど熟語なんだよ。だから……彼は凧と交換で、くらいに訳した方がいいんじゃないかな」
ね? と余裕たっぷりに教えてくる。俺は、学校で使っているイディオム帳をカバンから取り出した。調べてみるに、樹の言っていることは正しい。
「お前……」
「おっと、怖い顔をしないでくれよ。オレも昨日、ちょうどその辺りを読んだところなんだ。だからたまたま知ってるってだけだぜ」
嘘くさい。たった今、俺が勉強しているのを横目に見ながら、俺よりも早く読み進めていたってだけじゃないだろうか。きっとそうに違いない。全く、顔がよくて良い匂いがして背が高くて勉強もできて、しかも他人に教えてあげる余裕まであるなんて。本当にムカつくやつだ。
「……他にも分からなかったところあるから……」
「!」
「教えろ」
それが他人にものを頼む態度か! と俺の中に住まうマナーにうるさいオッサンが怒っているが、樹は何やら嬉しそうににこにこしている。
「やる気があっていいね。そうだ、せっかくだし、今日で一気に読み切っちゃおうぜ」
「いや、さすがにそれは……」
「まぁまぁまぁ、遠慮しないで。いくらでも付き合うからさ」
「ん……とりあえず、ここの文から……」
「どれどれ、見せてごらん」
樹はやたら生き生きとして、俺の勉強に付き合ってくれた。それはもう、蛍の光が閉館を告げる時間まで。ちょうど陽が沈んだばかりで、西の空が真っ赤に焼けていた。こんな時間になるまで自由に外を出歩くなんて、小学生の時分には考えられなかったことだ。
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