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第二章 初夏の日 体育祭

 目覚めて真っ先にカーテンを開けた。うんざりするほど清々しい五月晴れに、俺は若干の憂鬱を覚える。のそのそと体操服に着替え、ナップザックに水筒と弁当とタオルを入れて家を出ると、樹がちょうど門の前に差し掛かったところだった。   「おはよう、悠ちゃん。体操服似合ってるね。今日ちょっと早いけど、体育祭が待ち切れなくて早起きしちゃったのかい?」 「それはお前だろ。……あとこれ」 「おお! ありがとう!」    俺は樹の分の弁当を手渡す。祖母が玄関先まで見送りに出ており、樹は会釈してお礼を言った。   「しかし、どうして今日に限って購買を開けてくれないんだろうな。オレみたいに購買に頼り切ってる生徒もいっぱいいるってのに、ヒドい話だぜ。体を動かしたら、いつもより余計に腹が減るっていうのにさぁ。今日こそ購買は必要だよな」    学校へと続く坂道の時点で既に、校門をくぐるとより一層、教室内はまた一段と、祭り直前の浮足立った雰囲気に満ちていた。登校早々に「悠ちゃんもこっち来てよ」などと言われ、腕に「1の2ファイト!」などと落書きをされる。クラスの派手な女子なんかは、顔にハートマークを描いたりしている。    体育の授業でしか使ったことのないグラウンドも、普段とは違った表情を見せる。カラフルな万国旗が高々と掲げられ、手作りの飾り付けをされた入場門が立ち、クラスごとのテントが円状に並び、放送席やら職員用のテントが用意され、集まる生徒達もそわそわざわざわ落ち着きのない様子だった。    中学までと違い、事前にみっちり練習をしなくてもそれなりの出来栄えになる入場行進、開会式の準備体操や、校歌斉唱、その他諸々。中学までと比べて段違いに迫力のある、徒競走や団体競技。俺の出番は午前の部の終わりの方で、待機列に並んでいると樹がわざわざ見に来てウインクを飛ばしてきた。「がんばってね」と口パクで言うのが分かり、俺はしっしっとジェスチャーで追い払った。    ピストルの合図と共に、一斉にスタートする。俺は、一番乗りでテーブルに伏せられたカードを裏返した。書かれていたのは、『好きな人』というお題。ぎょっとして、思わずテーブルに戻してしまった。ちら、と係の方を見ると、両手でバツ印を作られた。なるほど、お題の変更は不可というわけか。一体誰だ、こんなくだらないお題を入れたのは。体育祭実行委員会の横暴だ。それとも、普段の俺の行いが悪いせいか?    もう一度カードを捲って見直すと、小さく『友達でも可』と書かれている。そうか、そういう抜け道があるのか。俺はカードを持ち、目当ての人影を探した。目立つ頭をしているからすぐに見つかる。俺は、お題は隠して樹を呼んだ。   「えっ、オレ? 悠ちゃんに指名されるなんて嬉しいなぁ。なんてお題?」 「うるさい、いいから来い」 「えぇ~? 強引だなぁ、もう」    樹はへらへら笑いながら俺の手を握り、駆け出した。これがまた速い速い。風になったみたいだった。   「なっ、おい、引っ張るな」 「だって、なるべく早くゴールしなくっちゃ。これってそういう競技だろう? 悠ちゃん、最初はせっかく一番だったのに、ずっとぐずぐずしてるんだもん。そんなに難しいお題だった?」 「ちがっ、別に……そういうわけじゃっ……」    ゴールは四着だった。早くもなく遅くもない、ちょうど中間だ。お題に沿った人間を連れてこられたかどうかを係員が確認するので、結局樹にもバレてしまった。   「好きな……?」    案の定、樹は目を丸くする。俺は、なぜかムキになって反論した。   「へ、変な意味じゃないからな! 友達でもいいって、ここに書いてあったから……!」 「なるほどなるほど。オレは悠ちゃんにとって好きな友達、さしずめ大親友ってわけか。改めて言われると照れちゃうなぁ、あはは」 「お前な……!」    あまり照れているようには見えない表情で、樹は笑う。俺は、しかしこれ以上否定すると失格扱いになるかもしれず、何も言い返せなかった。    昼食は、樹が持ってきたレジャーシートを広げて食べた。何やら見覚えのある、猫のキャラクターが描かれたピンク色のシートだ。   「……これ、まだ使ってたのか」 「おっ、気付いてくれた? 懐かしいだろ、これ。小一の遠足で持っていったらさぁ、クラス中に笑われちゃって。そりゃそうだよなぁ。猫はいいとして、どピンクって。母親は、これがいいと思って買ってきてくれたみたいなんだけどね。でも、悠ちゃんだけはこれかわいいって言ってくれてさ」 「そうだったか」 「そうだよ。忘れちゃったのかい?」    そんなこともあったような、なかったような。曖昧にしか覚えていない。おそらく、当時の俺はキャラものに相当の憧れを抱いていたので、それでそんなことを言ったのだろう。ショッキングピンクだろうが何だろうが、こだわりはなかったのだ。   「だからオレも開き直って、卒業まで使い通したんだぜ。中学入ったら、なんかまた別のやつを親が買ってきたけどね。最近はクローゼットに仕舞いっ放しだったけど、今日は特別に持ってきたってわけ」    祖母の手作り弁当は、今日は特別な運動会仕様で、普段はおかずと白米が一段ずつ入っている弁当箱には二段ともおかずがぎっしり詰まっており、さらに銀紙に包まれた大きなおにぎりが二つもあった。   「おにぎり、ほんと大きいな」    樹が銀紙を剥きながら言う。   「それに、お米がぎっしり。これだけでお腹いっぱいになりそうだ。具はいつもの梅干しだね。種まで取ってあって、ほんと親切。ん~、すっぱくておいしい」    昔もこうして、いや、その時はもっと大きなレジャーシートだったけど、こうしておにぎりを食べた。その頃は祖父もまだ生きていて、祖父母と俺と樹の四人で、青空の下でこうして弁当を囲んだのだ。遠い昔のようであり、それでいて、ついこの間のことのような気もして、口の中まで懐かしくなる。   「悠ちゃん?」    樹の声に意識が引き戻された。引き締まって格好のいい唇に海苔がついていて、俺は思わず吹き出した。樹は困ったように笑う。   「えっ、なになに? なんで笑ってるんだい」 「いや、くく……お前、海苔が……」 「えぇ、海苔? どこにさ。取ってくれよ」 「唇。ふふ」    樹は長い舌で唇を舐め回すが、海苔の方もなかなか粘り強くて取れない。仕方なく、俺が爪で引っ掻いて取ってやった。   「お前、前にも……」 「何だい。そんなに笑って」 「いや、子供の頃、乳歯の抜けた跡にトウモロコシ詰めて遊んだりしてたよな」 「ウソ、そんなことしてたっけ、オレ?」 「何だよ、覚えてないのか」 「それ言ったら、悠ちゃんだって給食でパン食べてる時に歯が抜けたことあったじゃないか」 「そんなことあったか?」 「あったよ。それで、スープに落っこちちゃってさ。悠ちゃん、気付かないまま飲んじゃって」    言われれば、そんなことがあったような気がしないでもない。そういえば、とまた思い出を語ろうとした時、ぽつ、と雨粒が瞼を打った。   「あ、雨」    と樹が呟いて、そこから一気に土砂降りだ。慌てて弁当を仕舞い、シートを畳んでテントへ避難しようとすると、ぐいっと襟首を引っ張られた。首が絞まる。   「いっ、なん……」 「こっちの方が近いよ」    校庭の隅の大きなイチョウの木の下で、雨宿りをした。テントの並ぶエリアからは、少し離れてしまった。本当にこっちの方が近かったのだろうか。   「あはは、濡れちゃったね」    樹は濡れた髪を絞る。俺の方は絞れる長さの髪がないので、ぶるぶると頭を振って水滴を飛ばした。白い体操服がびっしょり濡れ、手足や胴回りに張り付いて気持ち悪いが、どうにもしようがない。   「……悠ちゃん」    青々と茂った梢を揺らす雨音を縫って聞こえた樹の声は、いつもよりも幾分低いような気がした。   「これ、着てよ」    ジャージを脱ぎ、俺の肩に掛ける。   「なんで」 「悠ちゃん、濡れちゃってるから」 「お前だって濡れてるだろ。このジャージだって湿ってるし」    脱いで返そうとすると、強い力で押さえられた。   「いいからいいから。着ていてくれよ」    その口調はいつも通り明るいが、どこか無理をしているようにも聞こえた。それに、普段よりも何となく強引だ。   「おっと、オレの着ていたのじゃ嫌だなんて言わないでくれよ? 今それしかないんだから。サイズが合わないのもしょうがないからな。大は小を兼ねるってわけで、我慢してくれ。悠ちゃんもジャージ持ってくればよかったんだよ」    考えすぎか。樹はいつも通りべらべらとうるさい。息を吸い込むと、仄かにシトラスが香る。それと、ほんの少しの汗のにおい。モデル並みの男も、汗を掻くらしい。   「……前にもこんなことあったな」 「えっ、オレ前にも悠ちゃんにジャージ貸してた?」 「違う。雨だ」    運動会の最中に豪雨になり、午後の部が流れてしまったことがある。それがすごく悲しくて、だからいまだに覚えている。   「その話、オレ知らないぜ」 「じゃあ、お前が転校した後だったのか」 「……まぁ、そうだよね。オレ達、一緒にいた時間と同じだけ、一緒にいなかったんだから」    樹は、俺のジャージの前を合わせて、ジッパーを引き上げ始めた。   「やめろ。きつい」 「袖通したらいいだろう」    ジッパーが一番上、口元を隠すほどの位置にまで上がった。袖は余るし、胴回りがぶかぶかする。それなのに、ナメクジみたいにじめじめする。   「今日終わるまで着ていていいよ」 「……暑い」 「じゃあ、せめて雨がやむまでね」    樹は、口の端を持ち上げて微笑んだ。

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