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第三章 夏の盛り スイカとアイス

 樹の教え方がよかったのか、俺の努力が実ったのか、期末試験は悪くない結果だった。ただ、廊下に掲示される順位にはまだ程遠い。次こそは必ず、という決意を胸に、俺は成績表を握りしめる。   「どうしたんだい。辛気臭い顔しちゃって」 「お前には関係ない」 「明日からせっかくの夏休みなんだから、もっと楽しく行こうぜ」    閑静な住宅街にも蝉がうるさい。どこで鳴いているのか。その辺の家の庭の木の上で鳴いているのだろうか。      夏休みだからと浮かれている樹に、初日から早速遊びに誘われた。「今日公開の最新作だよ」と言われて映画館に連れていかれ、スプラッタ系ホラー映画を見せられた。樹が「悠ちゃんも食べていいよ」とポップコーンを買ったが、スクリーンの登場人物がポップコーンのように弾け飛ぶ様を見れば誰だって食欲をなくす。しかし樹は平気そうに、底の方で塩まみれになった最後の一摘みまで食べ切った。    虫捕りをした。何時代の小学生だと言いたくなるが、昔買ってもらった網とカゴがあったので、それを持って近所の公園へ自転車を飛ばした。俺達同様夏休み真っ只中の小学生達と共に、雑木林を駆け回った。「こーこーせーも虫捕りすんの?」と訊かれて、樹が「男ってのはいくつになってもカブトとクワガタを闘わせたいものなんだよ」などと分かった風なことを言っていた。ちなみに俺は、虫を闘わせる趣味はない。    プールで泳いだ。小学生の頃よく世話になっていた市民プールだ。大人用の二十五メートルプール、子供用の噴水プール、それと流れるプールがある。小規模ながらなかなか充実している。学校指定のスクール水着を持っていったら、なぜか樹に怒られた。怒られたというか、「そんなの着てくるなんて信じられない」といった感じだ。「これしか持ってない」とこちらもむっとしながら言うと、「じゃあ今度買いに行こうよ」と言われた。    庭でバーベキューをした。煙の出ない最新式のコンロを樹が持っているというので、それを使った。実際、煙はあまり出なかった。俺はバーベキューの心得がなく、ほとんど全ての作業を樹に任せてしまった。申し訳程度に野菜も用意されていたが、ひたすら肉ばかり焼いて肉ばかり食べた。見たこともないほど分厚いステーキ肉を屋外で焼いて切って食べるのは格別だった。    庭で花火をした。樹は、色とりどりの火花を吹く花火をいくつも指の間に挟んで、一斉に燃やした。うっかり風下に来てしまった俺は、煙に咽せた。それを見て樹は笑ったが、今度は俺が風上に立つと煙が流れ、樹も涙目になって咽せた。慢心して虫除けスプレーをしなかったので蚊に食われまくり、翌日は体のあちこちが赤く腫れてしまった。      部屋で宿題をしていたら、外から樹の声がした。何かと思い見てみると、ちょうど二階の出窓から飛び降りるところだった。一瞬肝が冷えたが、樹はまるで猿のような身のこなしで、向こうの屋根からこちらの屋根へと飛び移る。そして器用に俺の部屋まで上ってきて、開けっ放しの窓から我が物顔で転がり込んだ。   「ふー、到着」    満足げに額の汗を拭う。俺は呆れて物も言えない。   「……お前、何やってんだよ」 「何って、悠ちゃんに会いに来ただけだぜ」 「そうじゃなくて……」    俺は窓を指す。   「ああ。いやなに、わざわざ玄関を回るのが面倒だと思っただけだよ。こんなすぐ近くに見えてるのに、遠回りをするみたいでさ。時間がもったいないだろう? 昔もこうやって屋根伝いに行き来してたじゃないか」 「だからって……」 「もしかして、心配してくれたのかい? 嬉しいなぁ」 「喜んでる場合か。お前、前に一回屋根から落っこちて、怪我しただろ」 「怪我っていっても、かすり傷だろう? 大したことなかったぜ」 「だけど、お前のお母さん、すごく怒ってた」 「ああ、あの時ばかりはこっぴどく叱られたな。でもさ、オレは大丈夫だって言ったのに、悠ちゃんが大泣きするもんだから、余計大事になっちゃったんだぜ」 「お前だって泣いてたろ」 「いーや、悠ちゃんの方が泣いてたね」 「いや、お前の方こそ……」    これ以上は水掛け論だ。俺は溜め息を吐いた。   「まあいい。麦茶持ってくる」 「オレもついてくよ」    こいつ、階段を上り下りするのが面倒だったんじゃないのか。のこのこと台所までついてきて、勝手に冷蔵庫を開ける。   「スイカだ」 「ああ、おやつに食べろって」 「二つあるけど、オレの分?」 「二つあるってことは、そうなんだろ」    大振りにカットされたスイカと麦茶を注いだコップをお盆に載せ、居間の座卓に運んだ。座布団を敷き、テレビをつけ、扇風機を回す。   「今日、おばあちゃんは?」 「公民館。なんか、お花の教室」 「そういうの通ってるんだ。カルチャースクールってやつ? 帰りは遅いのかな」 「さぁ。五時には帰るだろ」    平日昼間の番組なんて見慣れないが、くだらないワイドショーと刑事ドラマの再放送と吹き替え版の洋画しかやっていない。いくつかチャンネルを回してみたが悉く興味を引かれず、消した。    見るからに甘そうな真っ赤に熟れたスイカに、樹は豪快にかぶり付く。水分をたっぷり含んだ、シャクシャクという小気味よい音が響く。俺は、銀のスプーンで一口ずつ削り取って食べる。黒い小さな種もちまちま取り除く。   「お前、口の周りベタベタだぞ」 「最後に拭けばいいじゃないか。スイカはこうやって食べるから旨いんだぜ。悠ちゃんこそ、何さ、その……」    珍しく口籠る。   「お上品な食べ方は」 「別に普通だろ。昔からこうだ。顔とか汚したくないんだよ」 「悠ちゃん、几帳面だもんな。アイス食べてもいい?」 「今スイカ食っただろ」 「いいじゃないか。暑くて敵わないよ」 「冷房はつけないぞ」 「分かってるよ。その代わりのアイスだろう」    台所に消えた樹の背中に、俺は呼びかけた。   「ぶどう」 「結局悠ちゃんも食べるんじゃないか」    夏になると、十六本入りのフルーツアイスバーが冷凍庫にストックされている。祖母が買ってきて、なくなれば買い足している。たまには別の味も食べたくなるが、決まってこれだ。小学生の頃は「アイスは一日一本」なんて躾けられたものだが、今はそんなことを口うるさく言われない。言われなくても、精々一日二本に留めている。    全開にした縁側の広い窓から、気持ちいい風が入ってくる。所々穴の空いているレース編みのカーテンが、ふわりと翻る。花壇のマリーゴールドが揺れている。樹は、座布団を枕にして横になった。口にアイスの棒を銜えている。   「おい、零すなよ」 「大丈夫だよ。オレもう食べ終わったから」    空になった棒をひらひらと振る。   「早いな」 「二口だね」 「はぁ? もったいないだろ」    俺は、まだ半分ほどを溶かしつつあるという状況だ。齧ると歯に沁みるし、全部を一気に口内に収めるのは苦しい。仕方ないので、上から順に舐めて溶かして食べるという方法を取っている。下の方の、舐めるより先に溶けつつある部分は、一生懸命吸ったりしゃぶったりして垂れるのを防ぐ。   「明日はお前ン家のアイス食うからな」 「いいけど、悠ちゃん絶対バニラ選ぶじゃないか」 「バニラが一番うまい」 「オレだってバニラ好きなのに」 「お前は家でいつでも食えるだろ」 「まぁ、そうなんだけどね」    樹は、何やらぼんやりとして天井を見上げる。   「今日は何もしないのか?」 「明日は海に行きたいな」 「海? えらい急だな」 「水着は向こうで買えるから心配いらないぜ。それより、今日は別にやりたいことがあるんだ。付き合ってくれるかい」    夏休みの工作よろしく、糸電話を作った。まずは俺の部屋で、一方の紙コップに穴を空けて糸を通す。樹が糸を持って屋根を伝い、部屋まで糸を伸ばす。そこでもう一方の紙コップに糸を通せば、俺の部屋と樹の部屋の直通電話が開通する。   「できたよー!」    樹が窓辺で手を振る。俺は紙コップに耳を当て、喋ってみろと合図をする。樹が紙コップに口をつけるのが見える。そこまで見えているし、声だって普通に届くのに、わざわざ糸電話で話す意味はあるのか。   「悠李」    まるで、耳元で囁かれたみたいだ。背中がぞわぞわとむず痒い。俺がいつまでも耳を離さないから、樹が続けて喋った。   「明日、何時に行こうか?」    明日? 何のことだ。そう思っていると、樹が察したように言う。   「海だよ」    ああ、海か。さして行きたくもないが、どうしてもと頼むなら行ってやってもいい。   「ちょいちょい、なんで黙ってるのさ。付き合ってくれるだろう?」    俺は、不本意ながら、少し大袈裟に頷いて見せた。   「よかった。ていうか、なんで全然喋ってくれないんだい。せっかく電話通したんだから、使わなきゃもったいないぜ」    糸が、紙コップが、樹の声を敏感に拾って振動する。俺の掌にも、耳にも、それが伝わる。少しくすぐったい。   「何時でもいい」    先程の返答をしたが、樹もまた紙コップに口を当てているところで、俺の声は届かなかった。お互いが同時に話そうとすると会話にならない。糸電話の難しいところだ。樹が気付いて紙コップを耳に当てたので、俺はもう一度同じ言葉を繰り返した。

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