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第三章 夏の盛り 海で
樹が飲み物を買いに行ったので、俺はパラソルの影で一人休む。「これ着といて」と肩に掛けられた、樹のシャツを羽織って。普通の服と違い、速乾で吸汗でUVカットでその他諸々いいことがあるものらしい。陸で着ている分には、違いはよく分からないが。
真夏のビーチは、熱くて眩しい。紺碧の海と青藍の空、純白の雲と燃え盛る太陽のコントラストが美しい。うじゃうじゃと虫のように集まる人間さえいなければ、もっと良い。右からも左からも、半裸の男や半裸の女が行ったり来たり行ったり来たりと忙しない。各々ビーチボールやら浮き輪やらを抱えていたり、海の家で買ったドリンクやかき氷を持っていたり、イカ焼きやらフランクフルトやらを齧っていたりする。
腹が減った。焼きそば、たこ焼き、カレー、ラーメンもいいな。唐揚げやポテトも食べたいし、やっぱりかき氷も食べたい。ふわふわで、果肉がのってるやつがいい。練乳を掛けられるとなお良い。想像だけで腹が鳴る。
それにしても、樹が遅い。ずっと待っているのに、帰ってくる気配すらない。海の家はすぐ近くなのに、迷ったのだろうか。途中でトイレにでも行っているのか。迎えに行ってやろうか。
一番近くの海の家には、樹の姿はなかった。隣にも、反対側の隣にもいない。四軒目にも五軒目にもいなかったが、六軒目でようやく見つけた。脇にラムネ瓶を二本挟んで、かき氷のシロップを選んでいた。両隣に、半裸の女を携えて。
半裸というのは語弊がある。普通にビキニ姿の女二人だ。フリルやリボンで誤魔化していない、スタイルに自信のある者しか着られないビキニだ。特に左側の女は面積の少ない攻めた水着で、今にも乳が零れ落ちそうだし、パンツは紐で結んであるし、Tバックで尻がほぼ丸見えだった。羞恥心をママの子宮に置いてきたのか。
しかし、なるほど。樹のやつ、ナンパしていて遅かったのか。一度に二人も、しかもあんな痴女みたいな女を引っかけるなんて、節操のない奴。いや、樹のことだから、逆にナンパされたのかもしれない。痴女みたいな女なのだから、逆ナンくらいお手の物だろう。
俺は、別の海の家でフランクフルトを買い、パラソルに戻った。クソ面白くない気分だ。フランクフルトは香ばしくてしょっぱくて、マスタードとケチャップが利いていておいしいのに。
三口で食べ終えて、次はたこ焼きでも買いに行こうかと思っていたら、黒い影が現れた。樹ではなかった。チャラそうな金髪で、ピアスがギラギラしていて、アホみたいな花柄の水着を履いている。俺が睨んでも、男はニタニタと品のない笑みを絶やさない。
「おにーさんカッコイイなと思って、声かけさせてもらったんだけど」
もう一人の男は黒髪だったが、金髪の男よりもピアスがたくさん空いていて、水着はやっぱりアホみたいな総柄だった。
「いやね? しばらく見てたんだけど、ずーっと一人でヒマそうだったからさ。こういうの期待してんのかなーって」
「は?」
「んんー? わかんないかな?」
「何がだ。はっきり言え」
黒髪の方が名刺を出して、金髪が俺に手渡した。
「芸能界、キョーミない?」
「ない」
「ウソォ、もったいないよ。おにーさんイケメンだから、チョー活躍できちゃうと思うんだけどなァ。売れっ子間違いなしだよ?」
「……俺が?」
名刺に書かれた事務所に聞き覚えはないが、そもそも芸能系の話題には疎いので俺が知らないだけかもしれない。それにしても、スカウトするなら俺よりも樹の方が余程適しているように思う。なぜ俺だけに声をかけてきたのか。
「おお? ちょっぴり興味湧いてきたカンジ?」
「うーん……」
「詳しいハナシは座ってしようか? あっちに席取ってあるからさ」
「いや、でも……」
揺らぐ気持ちを奮い立たせようとするが、男の誘いをびしっと突っぱねることができずにいると、またもう一つ、三つ目の黒い影が現れた。
「オレの親友に何か用?」
ラムネ瓶を脇に抱え、イチゴシロップのかき氷と、さらになぜか焼きそばのパックを持った樹だった。スカウトの男達も決して小さくないのに、樹の方がうんと大きくて迫力がある。手荷物はうんと間抜けなのに。
「なーんだ。おにーさん、お友達と来てたんだ」
「まぁ……」
「まーま、オレら別に怪しいモンじゃないんでね。そんなに怖い顔しないでね。気が向いたら連絡チョーダイ」
スカウトマンは風のように去っていった。樹は溜め息を吐いて、シートに腰を下ろす。
「ごめんね、遅くなっちゃって。これ、悠ちゃんの分のラムネ。かき氷と焼きそばは半分こしよう」
俺は、体重をかけてラムネ玉を瓶内に押し込んだ。カラン、とビー玉が落っこちて、シュワッ、と炭酸が弾ける。爽やかなレモンの香りが立ち上る。
「おっとと」
瓶から泡が噴き出して、樹は慌てて口をつけた。ラッパ飲みで半分ほどを一気に飲み干す。俺も一口飲んだ。甘酸っぱいが、少しぬるい。でも涼しい。
「……お前がいなくても、あんな奴ら俺が一人で追っ払ってた」
「ああ、さっきの? でも悠ちゃん、ちょっと気圧されてたじゃないか。あんなのね、絶対怪しい悪徳業者なんだから、まともに話聞いちゃダメだぜ」
「……別に、急いで戻らなくてもよかったんだ」
「いやいや、急ぐだろう、普通。悠ちゃん待たせてたんだから」
「でも……じゃあ、あの女はどうしたんだ」
俺はどうしてしまったのだろう。どうして、樹を問い詰めるようなことを言っているのか。健全な男子高校生が海に来ているのだから、ナンパの一つや二つしたっておかしくないのに。それに樹は――認めたくはないが、面だけはいい。だからこそ、ナンパくらい当たり前のことなのに……。俺はどうして、それが許せないのだろう。摩訶不思議だ。夏の魔物の仕業か?
「女? 女って……」
樹は首を傾げ、閃いたように頷いた。
「もしかして、見てたのかい?」
俺は、黙って目を逸らすしかない。酷く惨めな気持ちだ。
「ちっ、違う違う! 全然違うからね!? あれは、何ていうか、ちょっとした事故だよ」
樹は、俺と別れてすぐにラムネを買ったが、途中で女二人組とぶつかってかき氷をぶち撒けられたので、そのお詫びとして互いにかき氷を奢り合ったらしい。そして、ラムネとかき氷を持って今度こそパラソルに戻ろうとしたら、今度はソフトクリームを持った女の子とぶつかってしまって、その母親がお詫びに焼きそばを買ってくれたそうだ。
「水着が汚れたのなんて洗えばいいだけなんだから気にしなくていいって言ったのに、最初の女の子二人もその次の若いお母さんも、なんかすごくしつこくてなぁ。振り切るのに苦労して、遅くなっちゃったんだ。ごめんね」
「……別に……」
なんだ。ナンパでも逆ナンでもなかったのか。人知れず胸を撫で下ろす。そんな自分に驚いている。
「お前が迷子にでもなってるのかと思って、捜しに行ったんだ」
「あっはは! 何だい、それ。もう子供じゃないんだから、迷子になんてならないぜ。でも、心配してくれたのは嬉しいな」
「心配はしてない」
俺は、赤い縞模様で先端が小さい匙になっているスプーンストローで、ペンギンの絵が描かれたカップに盛られたかき氷を掬った。
「ほとんど溶けてる」
「買ってからしばらく歩き回ったからなぁ」
「お前も早く食え」
樹は、ストローでシロップを吸った。
「うん、ただのイチゴ水」
「もっとふわふわのやつがいい」
「ああ、どろどろのシロップがかかってるやつだろう? さっき売ってるの見たよ。マンゴーのってた。次はそれ買おうか。ああでも、先に焼きそばも食べないとな。こっちはまだ冷めてないから」
輪ゴムを外すと、香ばしいソースが香る。それを嗅ぎながら、俺はラムネを飲む。優しい海の色に似た透明のラムネ瓶はキラキラと輝いて、閉じ込められたビー玉には眩い太陽が映っていた。
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