9 / 23
第四章 夏の終わり 花火
街の花火大会に誘われた。祖母が浴衣を縫ってくれ、ちょうど着付けが終わったタイミングで樹が迎えに来た。
「ゆっ、ゆゆ、悠ちゃん!? ゆ、浴衣!? 浴衣じゃないか……!」
「見れば分かるだろ」
「い、いや、だって、聞いてなかったからさ……!」
薄らと麻の葉模様が引かれた紺藍の浴衣に、深紅の帯を締めて、紅い鼻緒の下駄を履く。樹は、品定めでもするかのように上から下までを凝視した。まるで八百屋に並んだジャガイモの気分だ。
「……何か、言うことないのかよ」
居た堪れなくなって呟くと、樹はばっと顔を上げた。感情が滲み出るような眩しい笑顔で、俺の手を握る。
「すっっっごくかわいいよ!」
握られた両手が燃えるように熱い。
「かわいすぎて、ちょっとびっくりしちゃったぜ! なんか、ほんと、すっごく似合ってる! とにかくかわいい!」
変だ。全身が燻されるように熱い。顔が火照って、目の前まで赤くなりそう。堪らず、樹の手を振り払った。
「もういい……」
「そうかい? まだまだ伝えきれてないんだけどな」
「いい、もう……早く行くぞ」
夜と呼ぶにはまだ明るい時間だが、打上会場である河川敷とその周辺は、既にたくさんの人で賑わっていた。密集してひしめき合うカラフルな屋台。どこからか漂う香ばしい香りと甘い匂い。射的にはしゃぐ小学生。お面をねだる幼稚園生。グループで屋台を巡る中学生。りんご飴を分け合う高校生。浴衣姿の若いカップル。いい歳をしてヨーヨー釣りを楽しむサラリーマンもいる。
「おい、どこまで行く気だ」
「まぁまぁ、見ててくれよ。とっておきの場所に連れてってあげるから」
樹は、人混みを抜けて薄暗い山道に入った。石ころや砂利がごろごろしている、未舗装の急な坂道だ。たまにある階段は岩を積み重ねて作ったようなもので、酷く凸凹している。その上、履き慣れない下駄だから歩きにくい。街灯もないから、夜との境目がだんだん分からなくなっていく。
突然、地鳴りのような爆発音が響いた。場所はすぐ近くだが、生い茂る木々が邪魔で空が見えない。「始まっちゃった」と樹が叫ぶ。「先に行け」と俺は言おうとしたが、それよりも先に体が浮いた。
「はぁっ!? ちょっ、おい、ふざけんな降ろせっ」
「だいじょーぶだいじょーぶ! オレ結構力持ちだから!」
「そ、ういう問題じゃ……っ」
樹は、俺を負ぶって坂道を駆けた。俺は樹の背中にしがみつき、揺さぶられるばかり。亜麻色の長い髪が、頬を掠めてくすぐったい。太腿を支える樹の大きな手が熱い。密着している広い背中が熱い。発熱しているのは俺の方かもしれない。どちらの熱か分からない。とにかく熱い。じんわりと汗が噴く。
「な、もう、いいって……」
樹も汗を掻いている。いつものシトラスに混じって、青い汗のにおいがする。
山の中腹の展望台まで登り、樹はようやく俺を降ろした。夜の帳を切り裂いて、笛のような音を立てながら、細い火の玉が天高く上がる。深い闇をキャンバスに、真っ赤な大輪の華が描かれた。
「たーまやー!」
欄干から身を乗り出し、樹が叫ぶ。
「ほらほら、悠ちゃんも!」
「えっ、た、」
たーまやー、と叫んだ俺の声は、花火の音に掻き消された。二発、三発と続けて打ち上がる。色は白っぽいのや黄色っぽいのや、青の中に緑が散っているものや、橙から紫に変わるものや、中心部が水色で外側がピンクっぽいのや、とにかく色とりどりの鮮やかな火花が暗い夜空を彩った。
「たまやー、かぎやー」
樹は楽しそうに夜空に向かって叫ぶ。打上の音にも負けない。腹から声が出ている。
「ここ、ほんとに穴場だったね」
「知らないで連れてきたのか」
樹は曖昧に笑う。
「来てよかっただろう?」
「でも屋台が遠い」
「帰りに何か買おうか」
「わたあめとチョコバナナ」
「いいね。オレは鈴カステラ食べたいな」
花火が咲く度、世界がぱっと明るくなる。儚い光の粒が、夜を滑って溶けていく。静寂を待たず、次々と絶え間なく花火が上がる。夜空を見上げる樹の横顔が七色に煌めく。その瞳に無数の光が灯っている。この時間は、きっと永遠に続く。
「悠李」
一瞬の暗闇と静寂に包まれた。樹は手摺りを握って、暗いままの夜空を見つめている。互いの息遣いまで聞こえそうで、なのに、樹はいつまでも黙って空を見上げている。鈴虫の声ばかりが、なんだかやけにうるさかった。
「好きだよ」
そう聞こえたのは、幻だろうか。樹が口を開くのと同時に、クライマックスのスターマインが始まった。息をも吐かせぬ怒涛の打ち上げ。虹色に艶めく菊や牡丹。柳が連なって滝になり、大輪が連続でいくつも開いて、時間差で小さな華が一斉に開く。視界が真っ赤に、あるいは真っ青に、もしくは緑や、橙や紫に染まる。広い夜空が一面、美しい閃光で覆い尽くされる。
樹は、真っ直ぐに空を見ていた。手摺りを握りしめて、空しか見ない。僅かに開いた口の中にまで、眩い火花が散っていた。
炸裂音が幾重にも重なり、天地に轟く。鼓膜をつんざき、心臓を揺さぶる。胸を突き破って飛び出してきそうなほどに激しく早鐘を打つ鼓動を、俺は静めることができない。脚が震えて、立っているのが怖くなる。
手摺りを掴むと、震えていた。衝撃波のせいだ。何百発もの花火を一斉に打ち上げているせいだ。鼓動が速すぎて、胸が苦しい。呼吸の仕方さえ、忘れてしまいそうになる。自分が今どこに立っているのか、分からなくなる。これまでの人生をどうやって歩いてきたのか、正しい足の運び方さえ、もう思い出せない。
暗い夜空に、煙がたなびいていた。初めは白っぽく光っていたそれは、やがて闇に吸い込まれて消えた。夢から醒めたのかと紛うほどの静寂。根源的な恐怖を抱かせる暗闇。俺と樹は、拳二つ分の距離でしばらく立ち尽くしていた。
「……帰ろうか」
樹は、いつもと変わらない調子で言った。俺は黙って頷いた。
「足、痛くないかい? 鼻緒で擦れたりとか」
俺は無言のまま歩き出した。樹に背を向けて、暗闇の方へ。
「待ってくれよ。一人じゃ危ないぜ」
怖いくらいに、樹はいつも通りだ。屋台へは寄らずに帰った。
ともだちにシェアしよう!