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第四章 夏の終わり 保健室

 夏休み最終日。宿題が終わっていなかったら勉強会をしようと口約束をしていたが、俺は、宿題はもう終わったと嘘をついた。それじゃあどこか遊びに行こうよ、と樹は言ったが、俺は、クラスの友達と会うから、とまた嘘をついた。実際は、朝から晩まで図書館に缶詰だ。樹に訊こうと思って残しておいた英文読解の課題を、辞書片手に自力で解いた。    新学期初日。俺は、通常よりも三十分早く家を出た。もちろん樹には内緒で。しかし、昼休みには樹が今まで通り迎えに来て、今まで通り二人で弁当を食べた。ちなみに、夏に入ってからは屋上ではなく中庭の木陰のベンチで食べている。放課後には、やっぱり今まで通り樹が迎えに来て、一緒に帰った。途中、商店街の書店で新しいノートを買った。    翌日も、翌々日も、夏休み前と変わらない日常が続いた。樹が何を考えているのか、俺には全く分からない。あの晩、絶え間なく続く目の眩むような美しい爆発の最中、僅かな隙間を縫って確かに俺の耳に届いたあの言葉は、一体何だったのだろう。愛を告げるのにも等しいあの言葉の真意を、俺はいまだ確かめられずにいる。    一週間前と比べて夜風が涼しい。公園で子供達が、今年最後の花火を遊んでいた。風にのって漂ってきた煙が目に沁みる。硝煙のにおいが喉を刺す。俺は、線香花火が落ちる瞬間を思い描いた。あの子達も、誰が最後まで火を灯していられるか競っているのだろうか。火玉の揺れに任せるべきか、揺れないように抗うべきか、いつもそれが問題だった。    部屋の押し入れには、未開封の花火セットが眠っている。せっかく祖母が買ってきてくれたのに、樹を誘えないまま夏が終わる。窓際の棚の上に、長い糸の通された紙コップが転がっている。窓を開けて、樹を呼んで、これを向こうの窓まで通したら、何かが変わるだろうか。何か、分からないことが分かるようになったりするのだろうか。    考えれば考えるほど、あの時聞こえた言葉は花火が見せた幻のような気がしてくる。そう思うと、ますますそんな気がしてくる。きっとそうに違いない。幻なんかに惑わされるなんて、俺もつくづく頭が悪い。あいつのさりげない一言なんて、さっさと忘れてしまうに限る。最初からそうすべきだったのだ。悩むなんて、時間の無駄だ。   「危ない!」    体育の授業でソフトボールをしていた。バッターの打った球が、青い空に高く高く昇り、急降下して、俺の顔面を直撃した。クラスの連中がわっと集まってきて、体育の先生が傷の具合を診た。口の中が血の海で酷い。    保健室に連れていかれて鼻血はすぐに収まったが、どうやら熱があるらしくてベッドに寝かされた。「あんまり悪いようなら早退しなさい」と保健の先生が言った。俺は瞼を閉じ、布団を肩まで引き上げた。    いつの間にか眠っていた。誰かが額に手を当てている。冷たくはないけど、気持ちいい。もっと触ってほしい。   「……起きた?」    気持ちいい手が離れていこうとするので、俺は頭を押し付けた。   「……いいの?」    声も気持ちいい。春の木漏れ日のような暖かさ。寄せては返す波のような穏やかさ。もっとそばに来てほしい。   「ボールがぶつかって怪我したんだってね。大丈夫だった? 痛くないかい?」    痛くない。もうとっくに痛くない。お前に撫でられていると、熱も引いていく。   「……この前さ、オレ……」    声が止まると手も止まる。気に入らない。もっと撫でろ。   「……これ、好きなの?」    毛流れに逆らって指を通し、くしゃくしゃと乱すように撫で、そうかと思うと、毛流れに沿って丁寧に丁寧に梳く。指先が頭皮を撫でる、その感覚が堪らなく心地いい。   「悠ちゃんの髪は気持ちいいね。硬そうなのに、柔らかくて。昔から変わらない。伸ばしたら癖になりそう。そしたらきっと、ふわふわでかわいいよ」    薄く目を開けると、着崩した制服が目に入った。少し視線を上げれば、よく知る端整な男の顔がある。中学生なら確実に校則に引っ掛かっていたであろう頭髪を、俺は一房手に取った。見た目の通りさらさらしていて、いい匂いがする。   「ちょっ……そんなことされたら、オレ……」    端整な顔が近付く。カーテンを引かれていてただでさえ光が入らないのに、そんなに近付かれたら暗くて何も見えない。    ほんの一瞬、唇に何かが触れたような気がした。柔らかくて、ほんのりレモンの味がした。俺の視界を覆っていた影は、弾かれたように遠ざかる。   「ごめん……!」    離れ難くて、俺はその手を引っ張った。   「えっ、あっ、なに?」 「もっと」 「へぁ? で、でも、それって……」 「もっと、こっち」    布団に引きずり込んで、抱きしめた。心音は速く不規則で、聞いていても落ち着かない。お腹はいい。柔らかくはないけど、温かくていい匂いがする。ふかふかの布団とほかほかの人肌に包まれて、意識が蕩ける。安心する。深い眠りに落ちてゆく。    目覚めると放課後だった。微睡みの中で都合のいい夢を見た気がする。微熱は醒めて、体調は元通りだ。教室にカバンを取りに行く。クラスメイトに聞いたが、樹は先に帰ったらしかった。そして、その後二日間学校を休んだ。

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