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第四章 夏の終わり 風邪
祖母が作った雑炊を、鍋ごと樹の家に持っていった。呼び鈴を三回鳴らしても出てこないのでドアノブを回すと、鍵が掛かっていなかった。不用心だなと思いながら勝手に上がらせてもらい、二つある鍵を両方しっかり締めた。「いないのか?」と二階に向かって叫ぶと、「悠ちゃん?」と掠れた声がする。俺は鍋を持って階段を上がった。
「ごめんね、わざわざ」
「いや……」
樹は、散らかしっ放しになっていた本や雑誌やDVDをてきぱきと片付け、ティッシュでいっぱいになったゴミ袋を縛って一階に持っていった。学校を休むくらいだから余程重症なのかと思っていたが、案外元気そうだ。と思ったが、せっかく台所に行ったのにレンゲと取り皿を持ってくるのを忘れる程度には酷いらしい。仕方ないので俺が取りに行った。最初からそうすればよかった。
鍋の蓋を取ると、湯気と共に出汁が香る。小葱と海苔を散らした、祖母お手製の玉子雑炊だ。風邪でなくても食べたい。お玉で掬って、取り皿によそってやった。
「ありがとう。悠ちゃんがお見舞い来てくれるなんて、嬉しいよ。玉子雑炊大好きなんだ」
「別に。俺が作ったわけじゃない」
「でも、来てくれただけで嬉しいよ」
樹は早速一口目を運んだが、まだ熱かったらしく舌を出した。それで、食べる前にまず息を吹きかけて冷まし始めた。その姿が、何となく、病人にやらせるには酷なことのように思われた。
「……食べさせてやろうか」
俺が言うと、樹は目を見張った。
「なっ……い、いぃいいよ、そんな、」
「でも、これくらい……」
「きっ、気ぃ遣わなくていいから、な? 全然元気だし、オレ」
「でも……お前がこうなったの、俺のせいなんだろ」
樹の手からレンゲが滑り落ちた。汁気を含んだご飯粒やら何やらが辺りに飛び散る。慌てて拾おうとしたら、樹に手首を掴まれた。そのまま、強い力で捩じ上げられる。
「いたっ……!?」
「悠ちゃん。もしかして、全部分かってるのかい? 分かってる上で、あえて……?」
何がだ、と言いたいのに声が出ない。気迫に圧されているからだとは認めたくない。
「だったら、さぁ、オレもう、我慢の限界なんだ。分かってくれるよね?」
だから何がだ。口はぱくぱく動くのに、息を吸うだけで精一杯だ。
「悠ちゃん……いい?」
だから何が――。その瞬間、思考が樹に食われた。口を塞がれて、息もできない。吸えないし吐けない。視界が影に覆われて見えない。両手首を強く掴まれて身動きが取れない。臓物の一部のような、熱くて柔らかくてぬるぬるとしたものが、唇を抉じ開けて突き刺さった。口の中を縦横無尽に動き回って蹂躙する。
ようやく抜けていった時には、酸欠で頭がくらくらするし、顔は爆発しそうに熱いし、体は力が抜けて使い物にならなかった。「鼻で息するんだよ」と樹は苦笑いをして、俺を持ち上げた。ベッドに寝かされると、枕からもシーツからも樹のにおいがした。いつも知っているものよりもシトラス風味が弱く、樹自身のにおいが濃かった。
ほとんど休憩できないまま、再び顔が迫ってくる。もう苦しい思いはしたくないのに、「目を閉じて」と言われたら体が勝手に従ってしまう。再び口を塞がれて、熱くて柔らかくて自在に動く肉片を捻じ込まれる。
「んぅ……っ、ふ、んン……」
「うん、そう、上手だね」
「な、はぁ、おれ、こんなの」
「キス、初めて? 気持ちいいね」
「ぁ、ふ……」
これが気持ちいいってことなのか。キャンディをそうするみたいに舌を吸われて絡め取られ、溶け出してしまいそう。だんだん感覚も薄れていく。舌のうねりと唾液の海に溺れる。窒息しそうに苦しいのに、腰が甘く痺れる。勝手に揺れ動く。まるでその先を求めるようにはしたなく。
「悠ちゃん、悠李……」
それは樹も同じなのだろうか。こいつの余裕のない表情は初めて見た。呼吸を乱して俺の口を貪り、シャツに手を忍ばせて腹を撫でる。その手が想像以上に熱くて、直接触られたことよりもびっくりした。
「ごめん、冷たかった?」
シャツをたくし上げられ、胸の方まで撫でられる。冷たくはないが、くすぐったくてぞくぞくして、全身の毛が逆立つ。
「すご、立ってる……」
はっとしたように樹は呟いて、下腹部をぐっと押し付けてきた。そこは既に硬く張り詰めていた。薄地のスウェットと制服のスラックスを隔ててもはっきりと分かるくらいには。
「っ……ごめん、悠ちゃん。オレもう、ムリかも……っ」
何がごめんなんだ。何がもう無理なんだ。最初から何もかもが説明不足すぎて、何も分からない。けれど、自分より大きな男に圧し掛かられる迫力というのは得も言われぬものがあって、嫌味の一つも出てきやしない。
腹や胸を撫でられながら、口を吸われながら、硬く張り詰めたそれを擦り付けられる。その刺激で、俺のそこも僅かに反応する。それでもお構いなしにぐりぐり圧迫されて、俺の方こそもう無理になりそうだった。
樹の体が一際大きく震えた。俺は誤って樹の舌を噛んだ。
「い゛っ……!?」
樹は弾かれたように体を離した。押さえた口から血が流れる。
「ご、め……」
「オレこそごめん、その……自分だけ……」
ちら、と視線を下に向けるので、俺は慌ててそこを隠した。
「っ、か、帰るっ!」
「悠ちゃ――」
俺は、樹を突き飛ばしてベッドを飛び降りた。階段を転げ落ちるように駆け下り、玄関の扉を乱暴に閉めた。靴を脱ぎ散らかして、脚を縺れさせながら階段を駆け上がり、毛布を引っ張り出して包まった。
なんで。どうして。樹はなんで、どういうつもりで、俺にあんなことをしたんだ。いくら幼馴染だったとはいえ、男同士で友達なのに、どうしてあんなことをしなきゃならないんだ。何のために。どういう意図で。分からない。元々何も分からなかったのに、もっと分からなくなった。迷宮に放り投げられたみたいだ。
一番嫌なのは、樹にあんなことをされて、男にあんなことをされて、本心では嫌がっていない自分自身だ。胸は苦しかったし、肌を撫でられる感覚は奇妙だったし、死ぬほど恥ずかしかったけど、不快だったかというとそうではない。だから困る。混乱する。だって、男同士で友達なのに、そんなのっておかしいじゃないか。
俺は毛布に包まって泣いた。男のくせにみっともないと嘲笑ってくれて構わない。
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