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第四章 夏の終わり 微熱
あんなことがあった翌朝も、樹は平気な顔をして俺を迎えに来た。ベロは大丈夫か、と訊こうとし、とんだ藪蛇だと気付いてやめた。祖母の淹れたホットココアを飲み、ニュース番組の占いコーナーを見てから、一緒に家を出た。
樹が昨日のことをなかったことにするつもりなら、こちらもそのつもりでいよう。と思っていた矢先、手を握られた。しかも電車内でだ。一応朝のラッシュ時ではあるけど満員列車というわけではなく、でも学校の知り合いに会う可能性は十分にあり、でも入口付近に立っているから人目には付きにくいのかもしれなくて、だけど同じ制服を着た男同士が手を繋いでいる光景は、やっぱりあまりにも奇妙すぎるんじゃないだろうか。
一瞬で色々な考えが頭を過ったが、手を振り払うことはできなかった。景色がびゅんびゅん飛んでいく車窓に樹の姿が映る。微かに目を細めるので、俺は目を逸らして俯いた。こんなの、やっぱり変だ。もしも誰かに見られたらと思うと、いや、たぶんもう誰かしらには見られているだろうが、そう思うと恥ずかしくて心臓が異様な音を奏でる。
駅に着いた。窓の向こうに知っている制服が見え、俺は咄嗟に樹の手を振り払った。手汗でびっしょびしょになった掌をズボンで拭った。ドアが開いたので、樹の表情は分からなかった。
午前中ずっと、やけに目が冴えていたのに、授業の内容は右から左に通り抜けた。板書もほとんど取れていない。後で誰かに見せてもらえたらいいが、たぶん無理だろう。重い気分のまま昼休みを迎えた。樹が来る前に、俺は弁当を持って屋上に逃げた。
入口からなるべく遠い端っこの青いベンチに一人で腰掛けて弁当をつつく。夕飯の残りの肉じゃが、朝食の残りの焼き鮭、彩りのブロッコリーとミニトマト、そして出汁巻き玉子。白米には梅干しがのっていて――
「悠ちゃん!」
樹の必死な声が秋の空にこだました。他にも屋上で昼食をとる生徒はいる。俺は思わず立ち上がった。
「よかった、いた……!」
昼休みは半分ほどが過ぎようとしているのに、樹はわざわざ俺を探して屋上まで来たのか。なぜ……?
「教室行ったら、悠ちゃん先行っちゃったって言われたから、中庭行ってみたんだけどいなくて、だからさ、ほら、あの、前庭の花壇で食べたこともあったから、そこも寄ってみたんだけど、全然いないし、」
樹は息を切らして喋る。
「でも、屋上にいたんだね。見つけられてよかったよ。いなくなっちゃったかと……」
隣に座って、レジ袋から購買部の弁当を取り出す。海苔弁当らしいが、余程振り回されたらしくぐちゃぐちゃに崩れていた。
「あらら。まぁ、胃に入れば一緒だからな」
箸を割り、大急ぎで食べ始める。魚のフライも磯辺揚げも、ごはんと一緒に掻き込んでゆく。そんなに急がなくてもいいのに。そんなに急ぐくらいなら、別の場所で一人で食べたらよかったのに。というか、一応病み上がりのくせに、こんなにガッツリ食べて平気なのか。お腹がびっくりするんじゃないのか。
「……ゆ、悠ちゃん」
それまで弁当に集中していたはずの樹が、少しばかり頬を赤らめてこちらを向いた。
「あ、あんまり見つめられるとさ、その……」
俺は慌てて目を逸らした。
「見てない」
「見てただろう」
「見てない。お前が意識しすぎなだけだ」
「そうかなぁ」
「そうだ」
樹はへらへら笑う。調子が狂う。俺は、まだ残っていた白米を一気に掻き込んだ。さっさと食べて、こいつのことなんて置いて帰ってしまいたい。
「悠ちゃん、あんまり急ぐと詰まらせるぜ」
「お前こそ」
「そもそも、悠ちゃんの一口は小さいんだから、無理しない方がいいよ。お茶飲むかい? 買ったばかりだから冷えてるよ」
「……いらない」
ペットボトルを回し飲みなんてしたら、何というか、つまり、間接的に唾液の交換をすることになるわけで、それは何となく……別に、嫌だとかそういうわけじゃないけど……
「……水筒あるから」
「ちょっと、動かないで」
気付くと、樹の顔がすぐそばまで迫ってきていた。その長くしなやかな指が、今にも俺の唇に届こうとしている。俺は反射的に飛び退いて、両手で口元を覆い隠した。
「んなっ、なにして……!?」
「ちょいちょい、なんで逃げるんだい」
「だっ……って、こ、こんな、外で、なんて……!」
「まぁ、もう取れたからいいんだけどね」
何がだ、と思う間もない。樹の手には小さなご飯粒が摘ままれていた。そしてそれを、樹は当然のように口に含んだ。俺が食べこぼした俺の米粒を、樹が食べた。その瞬間、どういう原理かは意味不明だが、のぼせたように顔が熱くなった。
「……悠ちゃん?」
一旦離れたはずの樹の顔がまた近付いてくる。榛色の瞳に、亜麻色の長い睫毛、凛々しい眉に、引き締まった口元。見惚れるほどに整い、大人びた顔付き。反対に、今の俺はどんな顔をしているのだろう。酷く情けない面を晒している気がする。見られたくなくて、ぎゅっと目を閉じた。
ふわ、とシトラスが香る。唇に柔らかい感触。甘酸っぱいレモンの味。ああ、そうだよ。俺の知ってるキスってのは、こういうやつのことだ。これ以外、思い付きもしなかったのに。
恐る恐る目を開けると、樹がいた。至近距離で、玩具をねだる子供のような目をして、俺を見ていた。
「……今日もうち来るかい?」
それが何を意味するのか、分からないふりをした。自分自身にも嘘をついた。すぐには決められなくて、「おやつがあったら持って行く」とだけ答えたが、祖母がおやつを作って待っていることを知っていた。
「昨日は、一人で先走っちゃったからな」
窓を半分開けると、涼しい風が入ってカーテンを翻す。金木犀の甘い香りがして、胸がぐらぐらする。
「昨日はごめんね。初めてだったのに……怖かったよね」
哀れまれているようで釈然としない。
「別に……ちょっと驚いただけだ」
「そう? 今日は優しくするから」
「……しなくていい」
「うん、でも」
「女扱いするな。あれくらい、別に、どうってこと……」
緊張で震える。心臓がバクバクとうるさい。自然と呼吸が乱れる。樹に悟られたくなくて、顔を背けた。
樹の器用な指が、俺のシャツのボタンを一つずつ外す。剥き出しになった腹部がスースーする。汗が乾いていく。樹は、俺の腹や胸を撫でながら、首筋に顔を埋めた。
「はぁ……悠ちゃん、いい匂いする」
お前の方が、いつもいい匂いがする。俺なんて、汗くさいだけだ。
「悠李……」
名前を呼ばないでほしい。変な気分になる。耳を触られるとくすぐったいのに、腹の奥がぞわぞわして妙な感覚に陥る。
「こっち向いて、ベロ出してごらん」
優しく言われて唇を捲られると、俺の意思とは関係なく舌が外へ出たがる。すかさず吸い付かれた。酸素と共に思考が奪われる。
「ふ、ぅ……んン……っ」
鼻声のような、声とも息ともつかないおかしな音が漏れるのが恥ずかしい。どうしてこうなるのだろう。もっと静かにしていたいのに。
水飴を舐めるように、唾液まみれの舌を舐られる。いやらしい音が響く。樹の唾液が垂れてきたのか、それとも俺のが溢れてしまったのか、飲み込めなかったものが口の端を伝う。拭いたいのに、俺の両手は樹にしがみつくので精一杯で、自由に動かない。溢れたものは、枕に染みを作ってしまっただろうか。
「ふ……んぁ?!」
いつの間にかベルトを外されていた。下腹部までスースーする。思わず脚を閉じ、下着をずり上げた。が、樹に窘められる。
「オレも脱ぐから、ね」
口の端に伝う唾液を親指で拭って舐めてみせる、その仕草が色っぽくて魅入ってしまった。クリーニングに出したばかりなのか、やけに白くて糊の利いたシャツを、風を切って脱ぎ捨てる。それだけの仕草が、ムカつくくらい様になっている。
「そんなに見ないでおくれよ」
樹は困ったように笑う。指摘されて初めて見つめていたことに気付き、俺は慌てて目を伏せた。
「見てないっ」
「見てたって。このやり取り、昼間もしたよね」
「み、てない……お前の体なんて……」
「……でもオレは、悠ちゃんの体見てたいよ」
胸元からウエスト、ヘソの窪み、そして、まだあまり毛の生えていないヘソの下へと、樹の手が滑っていく。
「ぅあ……そ、そこ……」
「うん。触るよ」
「ぁ、あ……っ」
特別汗を掻いたわけではないけど、一日過ごして風呂に入ってないから汚いのに。お前も嫌じゃないのか、他人のそんなところを触って。そもそも、そんなところを触る必要はあるのか。舌を入れるキスだけでもキャパオーバーなのに、これ以上は心も体もついていかない。
言いたいことは山ほどあるが、喋ろうとして口を開けても、妙に上擦った息だか声だかよく分からない音が漏れるだけで、これなら何も喋れない方がマシだと思った。
樹の手は俺よりも大きくて、指は長くてしなやかで、けれど案外節くれ立っていて、そのくせ器用にあちこち動き回る。自分でする時は感じすぎるからあえて避けている箇所も、躊躇なく弄られる。やめてほしくても、変な声しか出ないから何も言いたくない。逃げようとして腰を引くと、余計嬉しそうに弄ぐられる。他人にされるのって、こんな感覚なのか。自分では制御できないまま、無理やり高みへと押し上げられる。
「あ゛、ふ、ぅう゛ぅ……」
どうしよう。このまま、見たこともない高みへと投げ出されるのだろうか。まだ何の準備もできていないのに。怖い。俺は必死に手を伸ばして、樹を抱き寄せた。溺れる者は藁をも掴むというが、それ以上に必死になって広い背中を掻き抱いてしがみつき、厚みのある肩に噛み付いた。
「ん゛ぐ――ッ」
「い゛だっ……!?」
思い切り歯を立てて声を押し殺した。ふー、ふー、と息を荒くしてさらに歯を食い込ませると、血の味がした。
「い、いたっ、痛いよ、悠ちゃん」
「ふぁ……」
口を離すと唾液が引く。血の赤と混じって酷い。急に力が抜けてしまって、俺は身を横たえた。ふかふかの枕が重い頭を抱き留める。霞む視界に樹の影が揺れる。顔が近い。食い入るように見つめられている気がした。
「悠李……」
だから名前で呼ぶな。解放されたはずの下腹部が変になる。……いや、本当に変だ。物理的に新たな刺激が加えられている。ようやく這い出たはずの泥沼に、息継ぎもままならないまま再び沈められる。脚をバタつかせて逃れようとするも、それ以上の力で樹に押さえ込まれる。
「やっっ……!」
「ごめっ……すぐ済むから……」
数倍に膨れ上がった快楽が襲い、一瞬にして高みまで追い詰められる。今すぐにでもイッてしまいそう。怖くなって、また肩に齧り付いた。
「いっ……」
樹の声が引き攣り、唯一しがみつくことのできる肉体が離れていく。行かないで。そばにいてくれ。
「ごめんごめん。ほら、噛むならこっちにして、ね」
歯形の残っていない肩を差し出され、俺は夢中で噛み付いた。また樹の声が引き攣る。けれど、今度は離れていかない。それどころか、一層密着して俺を抱きしめた。
「一緒に、ね……」
男らしい大きな手に包まれながら、樹のそれをぐりぐり擦り付けられる。なんだかもう、何が起きているんだかよく分からない。さっき手でされた時よりも、ずっと熱い。体も熱い。交わっているその一点が熱い。摩擦熱なのか体温なのか、爆発しそうに熱い。
「ふッ……んン゛――」
胸が苦しい。息ができない。声が出せない。今確かに達したのに、地獄の責め苦が終わらない。またすぐイッてしまう。でも不思議なことに、酷くされて安心している自分もいた。優しくされたいのに、酷くされたい。酷くされながら、優しくされたいと願いたい。わがままだって分かっているけど。だって、あんまり甘やかされたら、勘違いしてしまいそうだから。
「っ、は、オレもう……」
余裕のない声が鼓膜を揺さぶる。髪を撫でられ抱き寄せられて、首筋にキスされた。瞬間、下腹部の弾ける感触が伝わってくる。密着しているから、脈打っているのがよく分かる。温かな粘液を浴びて、俺のそこも弾けた。
昨日今日と初めてのことばかりが続く。死ぬほど疲れた。もう何も考えたくない。
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