18 / 23
第六章 冬の夜 クリスマス
この季節、四時も三十分を過ぎれば日が暮れる。宵闇迫る街を、俺はふらふらと彷徨った。家に帰ろうとして、どうしても足が向かない。
気付けば、愛宕山中腹の展望台まで来ていた。東屋のベンチが冷たい。コート越しにもひんやりする。でも、なんだかもう疲れてしまって、俺は構わず寝そべった。見晴らしのいい場所へ来れば気分も晴れる気がしたのに、街の灯りが暖かいから孤独が募る。
すっかり、夜の帳が下りた。真冬の夜に山登りなんかする物好きはいない。今頃、家はどうなってるだろう。祖母には悪いことをした。普段より手の込んだ食事を用意して、待っていてくれたに違いないのに。でも、今は誰とも顔を合わせられない。
樹は……、樹は、今頃どうしているだろうか。律儀にケーキだけは用意して、でも、今日できたばかりの彼女とデートしてるかも。あの子がよりによって今日を告白の日取りに選んだのは、たぶん、そういうことだろう。恋人と過ごすクリスマスなんて、憧れの的だもんな。
ポケットを漁ると、キャンディが出てきた。前に樹がくれたやつだ。レモン味だし、最悪だ。でも空腹には敵わない。キャンディを舌の上で転がしながら、マフラーをきつく結び直す。
いつまでもこのままってわけにもいかない。次に樹と会った時、どう言葉をかけるか考えておかなくては。友達なら、素直に祝福してやるべきだろうか。お前だけズルいぞ、なんて、ちょっと僻んでみるのもいいかも。でも、結局何も言えなくて、逃げ出してしまうかもしれない。そうなったらみっともなくて、二度と話なんてできない気がする。
「はぁ……寒い」
溜め息が白く曇る。そろそろ帰ろうかな。樹がいないのなら帰ってもいいんだけど。……やっぱり足が動かない。遅くなればなるほど腰が重くなる。さすがに一晩明かすとなると装備が不安だし、警察沙汰になったらもっと困るし……
――夜に独り、この場所に置き去りになるのは、初めてではない。あれは小学三年生の冬。クリスマスの前日だった。今日よりももっと寒かった。母親が、男を作って出て行った。
こっそり出ていくつもりだったろうに、早帰りだった俺と偶然鉢合わせた。「おでかけ?」と俺が訊ねて、母が「デパート」と答えて、「連れてって」と俺がねだった。母は本当にデパートへ連れていってくれた。お菓子を買ってくれて、ゲームセンターで遊ばせてくれた。
最後に、愛宕山に登った。父が蒸発して祖父母宅へ身を寄せたすぐの頃、母によく連れてきてもらった場所だ。「飲み物買ってくるから待ってて」と言って母は山を下り、それきり戻ってこなかった。
西の空に陽が落ち、世界に闇が満ちても、母は帰ってこない。俺は、ゲームセンターのメダルをポケットの中で握りしめながら、母に初めて買ってもらったお菓子を大事に食べた。グレープ味のグミだった。
自分は母に捨てられたと子供ながらに理解していたのか、母が迎えに来てくれると一途に信じていたのか、今となってはもう分からない。ただ、待っていろと言われたから、俺はいつまでも待った。いつまででも待った。そのうち眠くなって、気付いた時には――
暗闇に、枯れ枝を踏む音が響いた。振り向くより先に、暖かい何かに包み込まれる。
「たっ……?」
「悠ちゃん!」
一拍遅れて、抱きしめられていると気付いた。
――あの時も、俺を見つけてくれたのは樹だった。薄れゆく意識の中で、あいつの声だけが高く響いていた。霞む視界に、あいつの真っ赤な泣き顔だけが揺れていた。
あの時、樹はどこまでのことを知っていたんだろうか。「大丈夫だよ」「オレがそばにいるからね」って、ただそう言って、小さい体で力いっぱい抱きしめてくれたっけ。あの時のあの温もりだけが、俺を今日まで生かし続けている。
凍えた指先が融けていくようだ。でも、あれ? 俺、こんなことしてていいんだっけ。
「っお、前……彼女は!?」
突き放そうとして振り上げた両手は、難なく絡め取られた。
「何の話?」
「だからっ、彼女! 放課後の」
「ああ、あれ」
指を絡めて握りしめられる。
「断ったよ」
「なんでっ」
「なんでって、逆になんでさ」
「だっ、だ、だって、でも……」
頭の中がぐるぐるする。考えが全然まとまらない。寒いのに汗がだらだら噴き出して、冷え切った体をさらに冷やした。樹は優しく微笑んで、手を握ったまま俺の隣に腰掛けた。
「手、冷たくなっちゃってるね」
「べ、つに、平気……」
「ダメだよ。霜焼けになっちゃうぜ」
手袋を片方外し、俺の左手に被せる。右手も外そうとするから断った。
「……お前が寒いのは……困る……」
樹は「そうだね」と笑った。手袋の代わりに、その大きな手で俺の右手を包んで、優しく摩ってくれた。気持ちがちょっと落ち着いた。
「あったかい?」
「……ん」
「ねぇ、悠ちゃん。よく聞いて。オレは、どこにも行かないよ」
「……そんなの……今更……」
「だって、オレ」
真剣な眼差しにどきりとする。
「悠ちゃんが好きだから。だから、ずっとそばにいるよ」
凍て付く寒さが瞬く間に弛んだ。胸の奥に火が灯る。空洞が光で満ちていく。狂っていた歯車が噛み合い、錆び付いていた時計の針が動き出す。体がぽかぽか火照って、それなのに、なぜか微かに震えている。こんな感覚は初めてで、初めてなのに懐かしい。
「悠ちゃん……?」
顎に手を添えられて、樹のびっくりするほど整った顔面が迫ってくる。キスされる、と思って咄嗟に目を瞑ると、温かいものが頬を流れた。
「ご……」
「?」
「ごっ、ごご、ごめんっ! な、泣かせるつもりはなくてっ……、で、でもオレ、ほんと、本気で、一生大事にするって決めてるし……っ!」
「は……?」
「えっ……?」
霞む視界に、樹の間抜け面が揺れる。かっこいい顔が台無しだ。俺は思わず吹き出した。
「えぇ? な、何だい、急に。何笑ってるの?」
「だってお前……ふふ、変な顔」
「んなっ、ゆ、悠ちゃんだって」
むにん、と頬を包まれ、むにむにと揉まれた。樹の温かい手もふわふわの手袋も、冷えた頬に気持ちいい。
「キスしていい?」
落ち着いていた心拍数が再び跳ね上がる。俺は小さく頷いて、ぎゅっと目を閉じた。今度こそ、ほんのりとレモンが香った。
「花火の時、告白したつもりだったんだけど」
樹の自転車の荷台に乗せてもらって帰った。樹のお腹に腕を回して、しっかりとしがみつく。
「タイミングが最悪でさ。ちゃんと聞こえてたかどうか、自信なくて」
「……聞こえてた」
「そうだったんだ」
「でも俺も、お前が本当にそう言ったのか、自信なくて。聞き間違いだったらどうしようって」
「うん、そうだよね」
小気味よくペダルが回る。車輪がくるくる回る。まるで鳥が空を飛ぶみたいに、自転車は夜を軽やかに滑っていく。
「花火がやんだ後に、もう一回告白し直せばよかったのに、急に怖くなっちゃったんだ。もしかしたら、そういう風に言葉にしない方がいいんじゃないかって。はっきりさせない方が、お互いのためなのかもしれないって……。……でも、やっぱり好きだから。悠ちゃんのこと、ずっとずっと、大好きだったからさ」
「……うん」
今晩の街灯は一際明るい。暖かい色で光って、闇をも包み込んでくれる。電柱の足元に一輪の花が咲いている。民家の塀を白猫が散歩する。樹の優しい声が胸に沁みて、身を切るような北風も今は不思議と寒くない。指先も、足のつま先まで、発熱しているみたいにぽかぽか暖かい。世界はこんなにも美しいのに、俺はずっと気付けずにいたんだ。
「今日ね、告白されてみて分かったんだ。オレも、もう一回勇気を出そうって。あの子ね、本当に真っ直ぐだったんだよ。だからオレも、彼女には悪いけどね、オレももう一回、ちゃんと気持ちを伝えてみようって。フラれたらフラれたでしょうがないけど、自分の気持ちにだけはきちんとケリを付けようって。悠ちゃんに知られないまま、死ぬまでずっとこのままなんて、辛いからね」
樹の背中に、そっと頬をのせる。樹がそわそわしてこちらを振り向こうとするので、「前見て運転しろ」と俺は言った。樹の背中はカイロよりもあったかくて、心臓の音は打上花火よりもうるさかった。
帰って、祖母に叱られた。一応、補習が入ったので遅くなると連絡を入れておいたが、樹のせいであっさり嘘とバレたらしい。「補習があるとして、こんな時間までやるわけないじゃないか」とのことだが、全くその通りだ。祖母がビーフシチューを温め直してくれ、予定よりも随分遅くなったけど、クリスマスパーティーを始めた。
樹が買ってきたのはベーシックなイチゴのショートケーキで、雪のような生クリームにサンタクロースの砂糖菓子がちょこんと載っていた。頭は俺にくれ、体は樹が食べた。もったいないけど、生首のまま放置するのも悪い気がして、早めに食べた。
パーティーが終わっても、樹はしばらく帰らなかった。いや、俺が帰さなかったのかもしれない。茶の間の炬燵で隣に座って、でもぴったりくっつくことはできなくて、拳一つ分の距離がもどかしい。テレビ画面に流れるクリスマスの定番映画はもう終盤だ。
「ばぁちゃんはもう寝るよ」
いつの間にか風呂を上がった祖母が言う。
「う、うん。おやすみ」
「悠ちゃんも早く入っちゃいなさい。タッちゃんも、そろそろお帰り」
「はーい」
「……あ、あのさ、ばぁちゃん。俺、今夜……」
今、言わないと。祖母が寝てしまってからでは手遅れだ。樹がしてくれたみたいに、俺も勇気を振り絞る。それでも声は情けなく震える。
「こ、こいつン家、泊まってもいい?」
祖母が頷くよりも早く、樹が目を見開いた。
「ホントに!? いいの!?」
「べ、別に、普通のことだろ。昔だって……」
外泊は認められた。禁止されるはずもなかった。昔だって、互いの家をよく行き来していたのだし。
ともだちにシェアしよう!