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第六章 冬の夜 雪

 目を覚ますと、やけに明るい部屋だった。ここはどこだっけ。知っている部屋だ。知っている匂いだ。知っている温もりに、知っている息遣い。はっとして飛び起きようとするが、力強い腕にがっちり捕まえられて動けない。   「たっ……樹」 「んぁ……おはよ、悠李」    名前を呼ばれ、昨夜の情事が甦る。途切れ途切れの記憶ではあるけど、恥ずかしいことを口走っていたことははっきり覚えている。   「お、起きろよ。もう朝……」 「えー、もうちょっと寝てようよぅ。せっかくクリスマスなんだしさ」 「クリスマスは関係ないだろ……」    しかし抱きしめられてしまっては身動きできない。裸でないことだけは救いだけど、自分で服を着た記憶はないから樹に着せてもらったに違いなく、それはそれで恥ずかしい。   「ただ寝たいだけだろ」 「んー、そうだけど、悠ちゃん抱きしめて寝たいんだ。こういうこと、今までできなかったから。たっぷり堪能しとこうと思って」    眠気の残る潤んだ瞳。重たげな瞼。緩み切った口元。寝癖でぼさぼさの髪。ひだまりの猫みたいに大きなあくび。こいつのこんな姿を知っている人間は、世界広しといえど一体何人いるのだろうか。   「……別に、こんなのでよければいつだって……」 「ホントに?」 「うん……」    ちゅ、と唇にキスしてやった。一晩明けたというのに、まだ熱が引かないみたいだ。俺も大概だ。   「悠ちゃ……」 「よし、起きるぞ」 「え、ぁ……」    抱きしめる腕が緩んだ隙に、俺はするりとベッドを抜け出した。底冷えする寒さに身震いする。カーペットはふわふわで温かいけど、朝の冷え込みには勝てないらしい。   「悠ちゃーん……」    樹はまだベッドに潜って、物欲しそうな目を覗かせている。   「ねぇー、しようぜ」 「ばか、朝っぱらから盛るな」 「悠ちゃんが誘ったんじゃないかぁ」 「さっきのはそういうのじゃない」 「でもぉ、悠ちゃんからのチューなんてめちゃくちゃレアだもん。オレ勃っちゃった」 「ばか……別に、おはようのチューくらい……こっ、コイビトなんだから……」 「恋……人……」    ばっと樹が飛び起きた瞬間に、俺も後ろへ飛び退いた。   「ちょっ、なんで逃げるんだい?! 今のはもうそういう流れだろう!?」 「だ、だからそういうのじゃないって……! それに俺、今、すごく……」    ぐうううう、と盛大に腹の虫が鳴いた。かぁ、と頬が熱くなる。樹も目を丸くする。   「あ、あは、そっか、お腹が……」 「わ、笑うな……!」 「笑ってないぜ。かわいいなって」 「笑ってる」 「違うってば。いやほら、昨日ね、激しい運動でカロリー消費したからね」 「っ……」    腹が鳴るのとはまた別種の恥ずかしさが込み上げる。居た堪れなくなり、部屋を飛び出した。樹の呼ぶ声を背に階段を駆け下り、リビングの暖房を入れて、キッチンを漁る。冷凍庫はぎっしり詰まっていたけど、冷蔵庫はほとんど空だ。必要最低限のものしか置いてないって感じ。   「パンでいいかい? ごはんは炊かなきゃないからさ」    眠たそうな目を擦って、樹も起きてきた。厚切りの食パンを二枚用意する。   「ガッツリ食べたいよね? オレもお腹空いてたんだ」 「でも、所詮はパンだろ」 「まぁ任せてよ」    パンの耳に沿ってマヨネーズで土手を作り、真ん中に卵を割り落とし、千切ったベーコンとたっぷりのチーズをのせて、トースターに入れた。焼き上がりを待つ間に、ケトルでお湯を沸かす。なかなかの手際の良さだ。   「お前、母親が再婚したから戻ってきたって、前に言ってたけど……」 「んー、まぁ、再婚はしたけど、見ての通りオレは一人暮らしだよ」    知っていた。この家に大人が出入りするところを、一度も見たことがない。こいつの母親にも、継父らしき男にも、一度も会ったことがない。宅配便はしょっちゅう来ているが。   「なんで」 「まぁ、うちの母親は気紛れだからね。元は三人でここに住む予定だったんだけど、やっぱり都心がいいってさ。そりゃあ、都心の方が何かと便利だけど、オレはどうしてもここがよかったから、頼んで一人暮らしさせてもらうことにしたんだ。二人は港区のマンション借りて住んでるよ」 「お前も難儀だな」 「いやいや、むしろ自由を謳歌できてラッキーって感じだぜ? それにね、新しい父親っていったって、どうせ何年続くか分かったもんじゃないし」 「そういうもんか?」 「そうだよ。悠ちゃんもいるし、おばあちゃんもいるから寂しくないし。それに何より、悠ちゃんと心置きなくイチャイチャできるからね。親がいたらこうはいかないよ」 「……ばか」    あっという間にお湯が沸いた。ケトルがぐらぐらいっている。樹は、インスタントスープを戸棚から取り出した。   「どれにする?」 「コンポタ」 「オレは、クラムチャウダーにしようかな。飲み物は? オレはコーヒー淹れるけど」 「ん、うーん……牛乳」 「ホットミルクにする?」 「……うん」    ミルクをマグカップに注いでレンジで温め、コーヒーを淹れてスープを作ったら、ちょうどトーストも焼き上がった。香ばしく食欲を誘うそれを皿に盛り付けて、二人でダイニングテーブルにつき、いただきますと手を合わせた。   「……うまっ」 「そりゃよかった」    焦がしたマヨネーズってこんな味なんだ。香ばしくて濃厚で、普通に食べるよりもずっと旨い。ベーコンとチーズはもちろん最高の相性だし、卵も半熟でとろとろしてて旨い。うちは和食がメインだから、こういう朝ご飯は新鮮だ。樹が作ってくれたという感動も相まって、とにかくハチャメチャに旨い。   「お前、料理の才能もあったんだな」 「大袈裟だな。自然とできるようになっただけだぜ。でも、喜んでくれたなら嬉しいよ。いつか一緒に暮らすようになったら、毎朝作ってあげる」 「それ、同棲ってやつだろ? さすがに気が早いんじゃ……」    皿から顔を上げると、樹と目が合った。頬杖をついて、やたらと嬉しそうににこにこしている。それで、今更気が付いたんだけど、スウェットの襟から覗く樹の首筋や鎖骨の辺りに、生々しい歯形がいくつも残っていた。全て俺の噛んだ痕だ。昨晩の情事を思い出して体が火照る。ホットミルクやコーンポタージュスープのせいだけでは決してない。   「どうしたの」 「な、んでもない……」 「口に卵ついてるぜ」 「えっ、ン……」    樹のしなやかな指が、俺の唇を拭う。この指が、昨夜は文字通り俺の体中を這いずり回って、気持ちよくしてくれたのだ。もしも同棲なんてしたら、あんなことが毎晩続くのか。いや、同棲なんてしなくても、晴れて恋人になったのだから、これからは頻繁にああいうことをするのかも。どうしよう。そんなの絶対に体が持たない。でも、ちょっぴり期待している自分もいる。いや、ダメだダメだ。朝っぱらから不埒なことばかり考えるな。   「ねぇ、今日は何しようか」    樹が言う。何って、ナニか? 起き抜けに盛っていたこいつのことだから、一日中したいなんて言い出すんじゃないだろうな。俺はつい身構えたが、   「雪遊びでもする?」 「……雪?」    樹の呑気な一言に拍子抜けした。   「うん。外見てごらんよ」    言われて、窓際に駆け寄りカーテンを開ける。そこは一面の銀世界……とまではいかないけど、がらんとした広い庭は真っ白に染まっていた。朝の清浄な光を浴びて、キラキラ輝いている。   「結構積もったよね。きれ~」 「あ、ああ」    雪なんかで無邪気にはしゃいでかわいいやつだな、と思いつつ、俺だけ意識しまくりだったことに頭を抱える。俺ばっかりしたいみたいじゃないか。   「覚えてる? 昔、うちの庭でかまくら作ったの」 「あー、中に人形置いて遊んだっけ」 「そうそう! 小っちゃい雪だるまもいーっぱい」 「学校で雪合戦とか」 「したね~、懐かしい。悠ちゃん、手袋濡れるのが嫌って言って素手で遊んでたから、手が真っ赤になっちゃって」    背後から抱きしめるように手を握られた。雪を背景に、二人の影がガラスに映る。   「何だよ」 「ん? いや。手、冷たいかと思って」 「冷たいわけない。室内だぞ」 「そう? でも、こうされたいのかなぁって」    そっと指が絡まる。まるで夜を思わせるような、しっとりとしたいやらしい手付きで。途端に、肚の奥が熱を孕む。   「こらっ……」 「期待した?」 「何を……」 「悠李、すぐ顔に出るんだもん。オレが今日一日エッチ三昧したいって言い出すかもって思っただろう」 「そんな、こと……」    はむ、と耳を噛まれると、ぞくぞくしてダメになる。甘い痺れが全身を駆ける。   「ね、しようぜ」    ぬる、と長い舌が耳の穴に這入り込んで……。ガラスに映る俺は、蕩けたメス顔を晒している。これが俺か。なんて顔だ。窓の向こうは透き通るような雪景色だっていうのに。ああ、あの白いの全部が雪なんだ。すごい。すごい綺麗。一体何センチ積もったんだろう――   「っ、やっ、やっぱりだめ!」 「わっ」    両手を振り上げて樹の手を振り払った。樹も驚いたように両手を上げている。   「な、何」 「雪掻きしないと! ばぁちゃん一人にさせるわけにいかない」 「そ、それは、確かに……」 「お前も手伝え」 「えっ、えー、でも」 「俺も手伝うから」 「えぇーっ」 「今しとかないと後で大変だぞ」 「その後は?」 「その後?」 「雪掻きの後」 「んー、じゃあ、雪だるまでも作るか」 「雪だるまぁ?」 「大きいのは無理でも、小さいのなら作れるだろ。いっぱい作って、塀の上とか並べようぜ。日陰に置いとけば長持ちするし。かまくらも、小さいのだったら作れるかも」    だって、せっかくの雪なんだから。遊んでおかなきゃもったいない。次いつ積もるかも分からないのだし。いい提案だと思ったのに、樹は急に声を立てて笑い出した。   「なっ、何だよ、人が真面目に……」 「いや、あはは、かわいいなと思って」 「はぁ? お前が先に言い出したんだろ」 「そうだけど、ふふっ」 「ば、バカにしてるのか」 「違うよぉ。そうだね、じゃあ今日の予定は、雪掻きと雪遊びで決まりだ」    一頻り笑った後、樹はまた俺の手を握った。今度はあんまりいやらしい触り方じゃない。   「楽しみは夜に取っとくことにするよ」 「……はぁ!?」    思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。樹はまた楽しそうに笑った。「さて、顔洗うかー」と洗面所に消えていく。    やっぱり今夜もするのか。そんなに毎晩するものなのか? とか思わなくもないけど、俺はきっと樹を迎え入れるのだろう。だって、好きな人と心を通わせてするエッチは気持ちいいし、体を繋げるごとに心も深く繋がれるってことを、俺はもう知っているから。

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