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第1話
静まり返った水面には漣一つ立っていない。25メートルコースが8レーンある広いプールも今の時間は無人で、たった一人の客である藤崎 貴弥 の入水を、じっと息を潜め待ち受けているように見える。
プールにはちゃんと底がある。足がつく。流れも、波もない。わかっているのに、やはり怖い。最初の一歩を踏み出すときは、いつでも不安が這い上がる。
貴弥は乱れる呼吸と鼓動を整え、慎重にステップを降り、ライトブルーの床面にそっと足をつけた。八方から緩やかに寄せてくる圧迫感に全身が萎縮するのを、じっと身をすくめやり過ごす。
負けたくない。絶対に、この恐怖心を克服してみせる。そう誓ったのだから。
不安になると腕時計を見る。スイス、ロワール社製の最高傑作・シャープクロスVXモデルは、おそらく百年で1秒の誤差も出ない精度を誇る、完全防水のスポーツウォッチだ。片時も離さないその相棒が寸分違わずいつもと同じ時刻、22時42分を指していることを確認し、貴弥は安堵の息をついた。
正確に時を刻む時計を見ていると、水に対する恐怖心が少しだけ薄らぐ。時間は、水の動きのように不安定ではない。平凡で穏やかな日常の枠の中に貴弥を引き戻してくれる。
大丈夫だ。予想外の事故など、そうそう起こるものではない。今日も時間通りに、何事もなく一日が過ぎていくのだ。
毎週木曜と日曜、人が引ける閉館間際の時間、貴弥はこのスポーツクラブに水と『戦い』にやって来る。水への恐怖に囚われているうちは、胸の奥に巣食うこの根深いトラウマを克服できないと思うからだ。
最初のうちは、足先を水面につけることすら怖かった。ひと月経った今は、こうしてコースロープに掴まりながら、かろうじて水中を歩ける程度になっている。相当な進歩だ。
コースを10周したところで、もう一度時計を見た。23時15分。予定残り時間5分。いつも通り、あと二往復して終わりだ。
ささやかな『戦い』はまだ、水中歩行以上には進んでいない。それでも今夜も予定のノルマをこなせたことに、貴弥はとりあえず満足する。
コースの端に行き着き一息ついたとき、プールサイドを横切った人の気配を感じ思わず顔をそちらに向けた。節電対策で照明が暗いため、その外見はクリアには見えない。だが閉館45分前に入って来たその人物が、高齢会員の多いこのクラブでは珍しく、自分と同年代の若い男であることは見て取れた。
この時間から泳ぎに来た人間は初めてでつい目で追ってしまったが、基本的に貴弥は他人に全く興味がない。むしろ無用な人間関係はできる限り避けたい方だ。それなのに思わず見入ってしまったのは、彼のその鍛え上げられた肉体が計算されつくした規律正しい美しさを持っていたからだった。
男は貴弥から1レーン空けたコースのスタート台に、スッと背筋を伸ばした完璧な姿勢で立った。目を奪われるその造形の美しさに、貴弥は彼から視線を動かすことができない。
真っ直ぐに伸びた体がフワッと宙に浮き、頭から水に飛び込む。飛び込みは禁止されているはずだが、男は全く意に介さない様子だ。数秒沈んでいた体が数メートル先に浮かび上がり、両腕が流麗な動きで水上に飛び出した。しっかり伸びた腕はまるで水を操るようで、ゴムのようにしなやかなドルフィンキックと相まって、完璧な調和が取れている。力強くダイナミックなバタフライだ。
男はあっという間に25メートルを泳ぎきり、クイックターンを決めて戻ってくる。教本のように完璧な泳ぎに息を飲む。
貴弥はしばし時間を忘れ、自在に泳ぐ男に見入った。藤崎貴弥が『時を忘れる』なんて、呼吸を忘れるに等しいあり得ない事態だったが、それほどまでに彼の泳ぎが素晴らしかったという他はない。
我に返ったのは百メートルを軽く泳ぎ切った男が、ゴーグルとスイムキャップを無造作に取り貴弥に視線を向けたときだった。はっきりとは見えないが、その顔立ちが非常に端整だということは漠然とわかった。
「藤崎さん」
名前を呼ばれた。と思う間もなく、男は貴弥のいる歩行者用レーンに水を潜って移動してきていた。反射的に身を引こうとした貴弥の腕を、驚いたことにいきなり取る。
「いつも歩くだけですか?」
そう言って微笑む男の顔をさっきより間近で見て、貴弥の胸は思わず高鳴った。
一言で美形と言い切ってしまうには、あまりにも個性的な美貌。少し下がり気味の特徴のある目尻はどこか気だるく、憂いがかった甘い雰囲気を醸し出す。高い鼻梁とセックスアピールを感じさせる肉厚の唇が、退廃的で崩れた魅力を添える。それでいて逞しい肉体は紛れもなく健全なアスリートのもので、そのギャップがまたさらに目を惹き付ける。
彼に比べれば貴弥の、整ってはいるが神経質そうで冷ややかな印象を与える線の細い目鼻立ち、貧弱な肉体は見る影もなく、同じ男として引け目を感じてしまう。
誰かを見て胸が高鳴るなどという事態は初めてで、貴弥はうろたえる。
他人などすべてへのへのもへじにしか見えなかった自分が、なぜ彼にだけ心を動かされるのか。
まるでずっと待っていたものが、目の前にいきなり現れたかのように。
「え……何て?」
質問を聞いていなかった。あわてて聞き返すと、男はクスリと笑った。
「藤崎さんは泳がないんですか?」
「あ……あぁ、僕は泳げません。健康のためにウォーキングだけしてるんです」
表向きの理由を告げた。さっきの泳ぎのレベルからして、おそらく彼はインストラクターだろう。知らない顔だが貴弥は他人の顔をよく見ない方だし、これまで彼の存在に気付かなかったとしても不思議ではない。
「それより、腕を離してくれませんか?」
捕われたままだったことに、やっと気付いた。他人に触れられることには慣れていない。水中なのに、相手の熱が伝わってきそうな気がして不快だ。
「泳げるようになるといいと思いませんか? 気持ちいいですよ」
しかし、男は腕を離さない。それどころか、手には力が加わった気がする。
「いや、僕は……無理ですから。レッスンの勧誘ならお断りします」
インストラクターは個人レッスンの指名を取れれば、その分給与が上乗せされるのだろうか。
キッパリ断わって身を翻そうとするが、解放してはくれない。戸惑い、非難をこめて見上げるが、全く気にする様子はなく、男はむしろ楽しげに笑って貴弥の腕を引いた。
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