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第2話

「あ……っ」  思わず声を上げた。容赦のない強い力で引かれ、水に足をすくわれた貴弥は男の胸にまともに倒れこんでしまったのだ。 「し、失礼っ」  あわてて体勢を立て直そうとしたが、男は何を思ったのか、よろめく貴弥の体を両手で抱き支えてきた。いや、支えてくれるというより、正面から抱き締められるような形になり、貴弥は狼狽する。 「は、離してください! 大丈夫だから」  思わず声が大きくなってしまう。  これは、どう考えても普通の体勢ではない。異常に密着しすぎている。  混乱する貴弥が面白いのか、離すどころか男はくすくすと笑い、 「藤崎さんはまず、もっと水に慣れることから始めた方がいいと思うな」  などと、やけに楽しそうな口調で告げる。 「レッスンは結構だと言ったはずです」  見も知らぬ他人としっかり抱き合うなどという経験は着衣のときですら一度もないのに、今はスイムパンツ一枚だ。不規則に高鳴る鼓動が相手に伝わってしまわないかと、貴弥はほとんどパニックに陥る。 「水が怖いって気持ちをなくすには、積極的に水に触れて水と仲良くなることが一番。俺が支えててあげますから、まずは体の力を抜いてみて」  今、怖いのは水ではない。涼しい顔でもっともらしいことを言いながら、ほとんど抱き締めるように貴弥の背に腕を回し離そうとしない、目の前の無礼な男だ。  初心者には本当にこんなレッスンをするのだろうか。いや、クラブに入会する前にビギナー向けの入門書をつぶさに読んだが、こんな過剰に接近した訓練法などどこにも書いていなかった。 「き、君は……人の話を聞いてないのか?」  周りを気にして潜めた声で非難したが、男は憎らしいくらい平然としている。 「藤崎さんがあんまりそっけないからさ。俺だってちょっと拗ねたくもなるって」  全く意味不明だ。言葉が通じていない。しかもいきなり馴れ馴れしい。  そしてその意味を問い質す余裕は、貴弥には与えられなかった。男の指先が、首から背骨に沿って中心をスッとなぞったのだ。 「っ……」  意思に反して勝手に体が震える。 「藤崎さんはちょっと猫背だな。体をまっすぐ伸ばすことは水泳には必須だから、まずはそこからですね」  何度も背をなぞる無礼な男の指は、明らかに意図的だ。最初の微妙なくすぐったさが体の奥に眠っていた熱を次第に煽り立てるのを感じ、貴弥は混乱する。しかしここは苦手な水の中、ろくな抵抗ができない。 「あまり鍛えてない体だ。もう少し筋肉つけた方がいいな」  戯言を言いながら、男の手が背中から胸の方に回った。 「や……やめ……っ」  思わず声を上げるが、相手の指は貧弱な胸板の肉付きを確かめるように、丹念に這い回り始めた。 「いや、やっぱりこのままでいいか。真っ白い肌も、細い体も、あんたらしい」  一人納得して頷きながら、男は涼しい顔とは相容れないセクシャルな指を駆使し、胸の中心を探り当てた。自分でも触ったことなどないそこをそっと押し込まれ、貴弥は思わず身をよじる。 「あ……や、ぁ……」  明らかに欲望をかきたてる目的で胸の突起を何度もさすられ、我ながら信じ難い、はしたない声が出てしまう。  こんなのは嘘だ。性欲に関しては全く淡白な自分が、見知らぬ男に触れられて淫らに感じてしまっている。一体どうしてしまったのだろう。 「そうそう、いい感じに力が抜けてきたな。もっと、俺によりかかって」  耳朶に触れる近さでセクシーな唇が囁く。意思を裏切って硬くなり始めた貴弥の中心に、不埒な男は自分の腿を押し付けるように刺激してきた。 「や、やめてくれ……っ」  泣きそうな声を上げ逃れようとするが、相手の腕はビクともしない。他人の手によって施される初めての愛撫は信じられないほどの快感を呼び、貴弥の意識を混濁させていく。 「ど、どうして、こんなこと……」  情けなく掠れる声で訴えると、男の唇が軽く耳朶を食んだ。 「あんたがいけないんだぞ。全然知らないヤツみたいな目で、俺を見るから」  全然知らないヤツじゃないか、という反論も、首筋から喉を滑る唇の甘美な感触に負けて止まってしまう。  もう何が何だかわからない。かろうじて残っている理性が、この痴漢行為は完全に犯罪だと叫んでいる。だがもう一方で、こうなることは運命だったのだ、などと理不尽なことを言い出し、あまつさえ喜んでいる自分がいるのはどうしたことか。  理性は欲望の前にはもろいものだと知らされた。貴弥は昂ぶる股間を無意識に相手の脚に押し付けている自分に気付き、うろたえる。しかし体を引こうにも、大きな手に背をがっしり引き寄せられているのでままならない。 「や……もぅ、頼むからっ……」 「ん? いきたいのか?」  違う、離してほしい、という意を込めて、必死で首を振り相手の胸に手を突っ張った。  その拍子に左手首の無機質な相棒が目に入り、一気に全身の熱が引いた。 「大変だ……」  23時35分。プールから上がる予定の時刻を、もう15分もオーバーしているではないか。  急に素に戻った貴弥の気配を訝しんでか、男の腕の力が緩んだ。貴弥は相手を突き飛ばすようにして離れると、ステップまで戻る余裕もなくコースから直接プールサイドに這い上がった。 「え、何? どうしたんだよ?」  男の呆気に取られた声に振り返り、 「僕は90分会員なんだ!」  と、恨みを込めて叩き付ける。相手はキョトンと眉を上げた。 「は?」 「わからないのか! インしたのが22時30分ジャストだから、僕の持ち時間は24時までになり、シャワーを浴び着替えをする時間を考慮すると……ああ、もう! つまり、こんなふうに君に説明している時間もないということだ!」    一気に言って背を向ける。出口に向かいかけ、抑えきれない憤りと共に振り向く。 「今夜のことは君の上司に報告しておく! 客に対する痴漢行為は、法に照らして厳重に処罰されるべきだ。覚悟しておいてくれ!」  少しは怯えるかと思った男は笑って肩をすくめ、ヒラヒラと片手を振ってくるだけ。馬鹿にされたようでカッとなったが、これ以上相手にしている時間も気力もない。時間に追われるように、貴弥はプールを後にした。

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