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第3話

***  首都圏を中心に全国展開する大手フィットネスクラブのチェーン『NEXT』が、貴弥の住むさほど大きくない町にオープンしたのは1ヶ月前のことだった。最新式の機器を配備したトレーニングジムに広いプール、レッスン用の3つのスタジオと5種類のバスを備えた3階建ての洒落た建物は、オフィスもショッピング街もない鄙びた駅前通りのど真ん中でかなり異彩を放っていた。  こんな田舎町にそんな洒落たものを建てて、果たして採算が取れるのかという地域住民の懸念は、しかし杞憂に終わった。都会だろうが田舎だろうが、こと健康に対する関心の高さは同じだ。達者で長生きのためなら財布の紐が緩くなる中高齢層がこぞって会員となり、『NEXT』は年寄り連中が暇を潰す社交場と化し繁盛していた。  建設地として選ばれたのが駅5つ先の人口30万都市ではなく、なぜこの町だったのだろうという疑問は、いつしか住民の話題から消え、今では皆そのクラブが昔からある馴染みの施設のように利用している。  人の集まる場所を極端に嫌う貴弥が、その最先端のクラブに入会するといきなり言い出したとき、たった一人の家族である母はさほど驚きはしなかった。むしろ喘息持ちで虚弱体質だった息子の体力増進に役立てば大いに結構と、両手を上げて賛成したくらいだ。    5年前他界した父の後を継ぎ商店街で小さな時計店を営んでいる貴弥は、一日中机に座ったまま受注した時計の修理に追われていることが多い。運動どころか、終日一歩も外に出ないことすらざらである。元々体力がない上に引きこもりの生活では、母が秘かに心配するのも無理のないことだっただろう。  だが『運動不足だから』と言ったのは実は表向き、本当の理由は別にあった。  水に対する恐怖心を克服したい。できることなら、泳げるようになりたい。それが、人嫌いの貴弥が社交場じみたクラブに嫌々ながら通い始めた本心だ。  病弱なため子供の頃からプールなど入ったこともなく、体育の授業はいつも見学だった。もちろん、泳げない。そしてそのために最も大切なものを失いかけた記憶が、貴弥を未だに苛んでいる。  今でも夢にみる辛い光景。目の前で助けを求める、大切な宝物。もしもあのとき泳げればと、後悔しなかった日は一日もない。  今さら泳げるようになったところで過去は変えられないが、せめて夢の中では助けられるのではないか、と未練がましく思ってしまうのだ。  だが1ヶ月熱心に通い続けても実際は、体を水につけることさえ怖いのが現実だ。自由自在に泳げる自分の姿など、到底想像すらできない夢のまた夢だった。

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