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序章「いくつかの欠落」

――問い。お前たちを愛せていたかな?  人間とは、とにかく脆いものだとはよく言われることである。昨日まで元気だったとしても、あっさり死んでしまうなんてことはよくある話だ。  彼、クレフ・ノベンバーの妻子もご多分に漏れなかった。 「いってらっしゃい、あなた」 「パパ、気を付けてね!」  笑顔で彼の出勤を見送ってくれた二人だったが、クレフの帰宅する頃、倒れ伏す二人の身体は、既に冷たくなっていた。  二人の身体には刺し傷がいくつも見つかり、辺りには血が飛び散っていた。クレフが『殺人事件に妻子が巻き込まれた』と判断するまでに時間はかからなかった。  犯人は逃走中のところを一日もかからず捕まった。犯人の動機は単なる好奇心、殺人衝動を満たしたいが故の自己中心的で衝動的な犯行。クレフの妻子は、粗末で幼稚な快楽殺人に巻き込まれた哀れな被害者になったのだった。  彼は一晩にして妻子を失い、すなわち幸せな家庭も奪われた。  これが、あっさりと幕を下ろした稚拙な犯行劇の一連の流れである。  不幸事に見舞われた彼に同僚たちが配慮し、仕事をしばらく休んではどうか、などと皆が口々に提案した。  しかし、妻子の葬儀を早々に終えた後にクレフは職場に復帰し、いつもと変わらぬ様子で仕事に没頭していた。 「なあ、ノベンバーさんって……、奥さんとこどもを殺されたんだよな? なんでいつも通りなんだよ」 「私が分かる訳ないじゃない、あの人にとって仕事の方が大事だったんじゃないの?」 「こら、聞こえるぞ馬鹿。仮にそうなら、奥さんたち可哀想だよな」 「夫婦仲、冷めていたのかもね……」  彼を憐れみ同情する声は、次第に的外れな邪推の声に変わっていった。  そんな声を全く気にするそぶりも無く、クレフは「どうせ仕事以外何も出来ないのだから」としか返さなかった。  結果、尚更気味悪がられていることに、彼はそれでも気付いていない。  クレフの仕事は、ジュエリー職人である。元々手先が器用だったことや彼の元来の性格も相まって、三十三歳という年齢にしては、工房でも信頼されている職人にのし上がった。  彼の作った作品を買った人間は口々に賞賛したものだったが、それに陰ながら影響をもたらしている要因があった。もっとも、それは工房の同僚たちは誰も知らないことではあるのだが。  その日もクレフは、工房の皆が帰った後もなお、居残って作業をしていた。  誰もいない工房の方が静かで落ち着くとは、同僚や妻によく言ったものだった。 「……ジル。リズ……」  作業をひと段落終えたところで、ふと妻子の名を口にする。  不器用な自分なりに、二人を愛していた。どうしても戻らない彼女らを亡くしたことは、もうどうしようもないことだ、と悟っている。犯人には憎悪や殺意などといった感情よりも、ただ罪を償ってほしい一心でしかない。  それでは、妻子を失った喪失感や哀傷は? と問われると、『分からない』としか答えられない自分がいた。  二人とも愛しい存在だった。勿論愛玩のそれとは違い、家族愛や夫婦愛のそれに該当している。だが、それ以上のことを考えようとすると、思考の許容量を超えてしまい、思考回路がとたんに鈍くなる。 「ジル、リズ。私は、お前たちを愛せていたかな」  仕事ばかりで家庭を顧みなかった夫であり、父親であることは分かっている。こんなこと、今や回答の出ない問いだった。 「ああ……。仕事、しないといけないか」  幸か不幸か、作らなくてはならないものは沢山あった。考える暇がないということが、今の自分には幸いでしかない。  軽く背伸びをしたところで、後ろから何者かに声を掛けられた。それは聞き覚えのある声だった。 「クレフ。貴方って本当に仕事中毒なのね。ちょっと呆れたわ」  後ろを振り返り『何者か』を確認したクレフは、重いため息をついた。 「……姉さん」  華美な容姿をしたその女を、クレフはよく覚えている。今や唯一の肉親となった、その女性を。 「今の名前はシェン、だったっけ。姉さん」 「そう。異国の言葉で『神』という意味を持つのだそうよ。素敵でしょう?」 「はは……私にはさっぱり分からないよ」  苦笑の後、再び机に向き直る。 「で、何の用なんだい? 葬儀ならもう済んだから、国に帰っても良いだろうに。まだ油を売っていていいわけでもないだろ、姉さんは一国の主なんだから」 「あら冷たい。それでも弟? 折角構ってあげようかと思ったのに」 「……別に、構わなくてもいいよ。私には仕事があるし、姉さんには守るべき国があるだろ? 互いに忙しい、お互いに構う暇がない。それでいいだろ? もう放っておいてくれ」  突き放した言葉に、話し相手である彼女、シェンは軽く肩をすくめる。 「本当に相変わらずな子ね」 「私はもうこどもじゃない。いい年をした大人だよ」 「変なところに突っかからなくてもいいわよ。……それはともかくとして、たまには休んだらどう? 息抜きは大切よ」  その言葉に対し、しばしの沈黙が流れる。紙を手繰る音と、細工を施す小さな音だけが生まれていた。 「……私が息抜きのできない人間だとでもいうのかい?」 「ええ、貴方の小さな頃から見ていたアタシの結論だけれどもね。  ねえ、クレフ。私思ったのだけれど、元の生活を取り戻したりだとか、犯人に復讐したりだとかしたくないの? アタシたち、折角の『末裔』なんだからそれくらい容易いでしょ?」  末裔、という言葉にクレフはわずかながらに反応する。 「……また、そんな話をして。何度も言ったけど、私は『力』を使わず生きていたいんだ。確かに私は末裔だ。こんな稀有な力、自分には勿体ないくらいだよ。だから、普通の人間として暮らすのが身の丈に合っているんだ」  シェンは少々残念そうな顔をすると、はぁ、とため息をついた。 「クレフ、貴方のそういう頑固なところも相変わらずね。でも、……アタシ知ってるのよ。貴方が作ったアクセサリー。それに魔力を付与していることぐらい」  再び、クレフが反応する。工房にかかっている時計の、秒針の音がやけに大きい。 「大掛かりな魔法じゃないことぐらいは分かっているわ。だって、貴方も、アタシも大した力は持っていないはずだもの。でも、アタシたちみたいなこちら側の人間は最早大して多くもない。力の出所をたどるくらいなら、アタシにも容易いのよ」 「……悪趣味だな、姉さん」 「別に、悪趣味で結構よ。貴方の作ったアクセサリーって人気なものだから、いろんな人が持っているのよね。使っている石も……センスがいいわ。さすがアタシの弟。  それで、ね。今まで興味本位で石の断片を探って、持ち主に会ってみたのよ。気に入った人をたまに街にご招待してみたりしてね。  何かきっかけでもあれば力もいかんなく発揮できるんでしょうけど。私たちって血縁を辿れば、それなりに有名な『魔法使い』だったのだから」  魔法使い、という言葉に対し、今度はクレフがはぁ、と呆れのニュアンスを籠めたため息をつく番だった。 「私が知らないうちに、作品に魔法をかけたかどうかはともかく、だ。そうやって過去の遺産を羨ましそうに見ているの、私は良くないと思うんだ。今のご時世、魔法だとか奇跡だとかは絵空事の代名詞だ。  それに、淘汰されるべきものって、あると思うんだ。私たちの力だって使える者も少ない今、私は淘汰されて構わないと思っている」 「……そう。貴方はそう思っていても、アタシは違うってことだけは覚えててほしいところね。ところで」  平行線をたどる口論に、シェンはひとまずのピリオドを打った。 「貴方も折角だから、アタシの街に遊びに来ない? 別に、日帰りでも構わないけど……折角だから他の招待客同様、七日間いてくれても構わない。肉親なのだから、それ以上滞在してくれてもいいわ。アタシの造った街は――」  シェンの説明を、クレフは遮り続けた。 「説明はいらないよ。噂には聞き及んでいるし、どんな街かはだいたい察しが付く。街は歓楽街として特化していて、金を払いさえいれば住人を好きにしていいとか言うんだろ? ……悪趣味な街だ」 「あら、悲しい」  言葉の割には、シェンはさほど悲しんだ素振りを見せなかった。 「そんな街に来てくれ、と? 私には仕事があるんだが……」  そんな、という表現が引っかかったのか、シェンは肩をすくめた。 「やだ、失礼な子。でも……、大体のところは合ってるわ。安心していいのよ、都市として機能するべきものはあらかた持ち合わせているから。……はい、招待状。一応形だけでも、貴方を招待したっていうルールだけは守りたいから。詳しくは封筒の中の書類に書いてあるわ」  シェンはハンドバッグから取り出した、やや厚みをもった封筒をクレフに手渡す。 「じゃあ、話も済んだことだしこれ以上お邪魔するのも申し訳ないから、そろそろお暇するわ。クレフ、貴方が街に来てくれるのを楽しみにしているわね。奥さんと娘さんのことは本当に残念だったと思っているわ……。本当のところは、深く悲しんでいるのだとはアタシ、知っているから大丈夫よ」  再びハンドバッグを開け、懐中時計を取り出す。それは宝石がたっぷりあしらわれた豪華な品だった。 「じゃあ、ね」  それを振り子のように一度振ったかと思うと、シェンの姿は煙のように消えてしまった。クレフには、すぐに分かった。懐中時計を媒介に『魔法』を使って時空を歪め移動したのだな、と。 人様の前であんな派手な移動なんかしていないといいと思いながら、手渡された封筒を見やる。来てくれとは言われたものの、果たして自分に時間はあるのだろうか。 封筒を一瞥し、封を開けて書類を斜め読みする。街までのアクセス手段や、街でのルールなどが書かれていた。 それらにざっと目を通した後、深いため息をついた。 「城塞都市ジェム……か」  どこかの国では、ジェムとは宝石の意を持つらしい。姉のことだから、その辺りから街の名を引っ張り出してきたのだろう。ふと、机上にある作業途中の作品に目を向ける。まだ作業途中のそれは、アメジストとターコイズをあしらった指輪だ。依頼主の話を詳しくは知らないが、どちらも誕生石ということもあり、おそらくプロポーズか婚約指輪にでも使うのだろう。  作業中の作品はまだいくつかあるのだが、不思議と宝石や金銀製品に触れていると心が安らぎ、落ち着く自分がいた。仕事をしていない自分など、生きているのか首をかしげるようなものだとは昔から自己評価しているところではある。  ……姉さんには悪いけど、ジェムへ行くのは日帰りにさせてもらおう。ぱっと行ってすぐ帰るくらいでも構わないだろう……。そう結論付けて、その日は日付が変わるまで作業に没頭した。  翌日。一日だけ休暇を取ろうと工房の仲間に休暇願を出そうとしたが、どういうわけか少々勘違いされたようだ。 「ノベンバーさん、やっと休暇を取ってくれるんですね! 良かった良かった、そうですよね。あんな事件があったのですから仕方ありませんよね。しばらく羽を伸ばすといいですよ、仕事の方は僕らで何とかしますから!」  工房のリーダーがそう言うと、皆一様に頷いた。 「一日しか休まないなんてとんでもない、折角だから一週間、いや二週間くらい休んでくださいよ! 休暇届の一日ってところ消しておきます、二週間ってことにしておきますから!」 「いや、ですから……」 「いえいえ、大丈夫ですよ! 切羽詰まった納期の作品もありませんし、今はどうせ閑散期なんですから。どうかゆっくり休んでくださいな」  どこをどう勘違いされたのか、休暇は一日だけから二週間という長期休暇に変えられてしまった。  工房の仲間たちに悪意がないことぐらいは分かる。妻と娘を失った身だというのに、すぐに職場復帰していた自分がどこかおかしいというのも頷ける話だ。  きっと、彼らなりに気遣ってくれたのだろう。それに、休暇の日数で揉めるのも馬鹿馬鹿しく思えてきた。ここはおとなしく従おう。  心なしか、同僚たちが皆安堵したような表情を浮かべているような気がした。  ……そこまで病的に見えたんだろうか? いつも通りにしようと、していただけなのに。  そんな疑問は残ったものの、これでジェムに行くことは決まった。行って帰るだけにしようと思ったものの、長期休暇を貰った中で日帰りなんていう間に出て一人で大きな家にずっといるというのも、却って滅入ってしまうような気がしてきた。  仕方ない。ここは、姉さんの言うとおり七日間滞在して、それからの身の振り方は後で考えよう。  旅支度をしている中で、無意識のうちに制作途中の作品をいくつかトランクに詰めていた。恐らくホテルに泊まることになるのだからと、作業が簡単なものだけを詰めていたのだが、それでも両手で足りない程度には作品を持っていこうとしていたのには苦笑せざるを得なかった。結局、考え抜いて更に数を絞って持っていくことにした。  工房から担当している作品をいくつか持ち出して旅行先でも作業をさせてくれと頼むと、工房のリーダーが複雑な面持ちで頷いたのを忘れられない。やはり根底は仕事中毒者なのだなとか、休暇中も仕事をするのかと呆れただとか思われたのだろうか、というのは邪推だろうか。  自宅で旅の支度をしていて、ふと目についたものがあった。簡単な銀細工が出来る、銀粘土だった。 暇なときにはジルやリズにアクセサリーを作ったものだった。 「……暇つぶしには丁度いいか」  おもむろに未開封のそれを手に取り、鞄に詰めた。工程の途中で必要な道具は、ありあわせで間に合わせるか、現地調達で何とかしよう。 一緒に家族が写っている写真立ても持っていこうと思ったが、やめた。代わりにアルバムから丁度いい写真を見繕い、財布に入るサイズに切り抜いて入れた。 それから簡単に支度を済ませたところで、その日は床に就くことにした。 ジェムに行くのだ、と思うと気が進まない自分がいる。しかし、たまにはいいじゃないかと囁く自分もいるのは否めなかった。 複雑な気持ちをない交ぜにし、彼の七日間はもうすぐ幕を開けることとなる。

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