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二日目「再びの違和感」
――問い。全ては空回りなのか?
静かな時間。集中できる時間。部屋の中にいれば、ひとまずは安心できる時間を送れる。
「……ん……?」
そんなひとときなのだが、どうやらしばらくの間寝ていたらしい。昨日は徹夜しようと思っていたのだが、旅疲れのことは度外視していたのが間違いだったようだ。しかも、ご丁寧に作業中にかけている眼鏡も外していたのだから、まどろんでいる最中の行動とは、眠気に対して忠実に最適化しようと出来ているのだな、と感心してしまう。
計算の甘さに重いため息をつきながらベッドを見ると、ネムはまだ寝息をたててベッドに沈んでいた。
それなら大して時間は経っていないだろう、と思いつつ時計を見たがその予測も甘かったようで、文字盤は昼過ぎの時刻を告げる数字を指していた。
こればっかりは、さすがに二度目の重いため息をつくしかなかった。これは、すっかり気が緩んでいるに違いない。怠慢に溺れてはいけない、自分を厳しく律しなくては。
再び寝息を立てているネムを見る。すやすやという規則的な寝息や、年代相応の幼い寝顔がクレフを和ませた。しかし、よく見てみると体が薄汚れている上、服も元々あったものではない汚れが散見された。
「んう……んーう……? ふあ……。おじさん、おはよう?」
凝視していたことに無意識のうちに気付いたのか、ネムがゆるゆると目を覚ました。半身を起こし、眠そうな目を擦る。
「ふあ……。なーに? そんなじっと見て……。なにか、付いてる?」
潔癖症という訳でも無いが、元来綺麗好きの性質がどうしても疼いた。それに屈するか、否か……さんざん悩んだが、ひとまず直感に従うことにした。
「ネムさん。ちょっと、シャワーでも浴びてこないかい?」
その言葉に、ネムはゆるりと首をかしげた。
「ぼく、お風呂なら二日前に」
「よし、シャワーに入ろうか。いや、好きなだけ使ってくればいい。お金に困ってるなら、小遣い程度で良ければあげるから。どうか入ってくれないか?」
「まだきれいだと思うんだけど……おこづかいもらえるの、うれしいけど」
「そんなことはないと思うんだ、私は。さ、行こう行こう。さっぱりすると思うから」
二日前に入浴した、という時点で綺麗好きの直感に屈して正解だった、とクレフは心から思った。
「んう……なら、おじさんもはいろ? 一人って嫌だもの」
一緒に、と意外なお誘いを受けた。かくして、二人でシャワーを浴びることと相成った。眠気覚ましにも丁度良いと思い、クレフはひとまずその言葉を呑んだ。
洗面所を兼ねたバスルームは広く、ホテルの性質上かシャワールームはガラス張りだった。
手早く脱いでおもむろにシャワールームへ行こうとしたクレフに対し、ネムはまだ服を脱いでいる途中だった。
「……手伝おうか、ネムさん」
その様子が見ていられなくて声をかける。その直後に妙な罪悪感が湧いたが、反射的に後ろめたいことは何もない、と再び脳内で何度も復唱していた。
「いいのお? じゃあ、お願いしようかなぁ」
恐らく娘と同じくらいの年齢なのだろうが、どうも言動が幼く感じるのは何故だろう。男の子というのはどうしても女の子よりも言動が幼いとはいうもの、果たしてここまで歴然とした差が出るのだろうか……。そう思いつつ服を脱がせると、ネムの身体中に痣や擦り傷が散見された。
まさか、売春以外にも非道徳的な目に遭っているのだろうか。そう思いつつ、シャワーのカランを捻りながらネムに問いかける。
「ネムさん、お湯熱いかな? ところで、その怪我ってどうしたんだろう」
「んー……ちょうどいいよ。けが? これね……、あはは。ぼく、たまにお客さんに怒られたりするの。それで、ごめんなさいってしたら、たまに叩かれちゃったりするの。
普段ぼーっとしていてつけた傷とかあざとかも、あるんだけど……。
ぼく、きっとミジュクなんだと思うんだ、だからもっとがんばらないと……えへへ」
シャワーを浴びながらへにゃりと笑うネムに対し、クレフの心境は穏やかではなかった。
やはり、この子は理不尽な大人の食い物になっていた。推測の範疇からは出ないが、幼いから、抵抗しないからとうっぷん晴らしをしている奴もいるのだろう。それが、心から許せなかった。
「んぁあ……、もぅ、あまりごしごしするといたいって……」
「え? あ、ああ……、ごめんネムさん……。お湯なら溜めておいてるから、石鹸を流したらバスタブに浸かるといいよ」
はーい、と元気な返事を返す姿は、やはり年相応のこどもらしいものだった。だからこそ、痛々しい痣や傷跡が許せなかった。
この怒りは、やはり姉に告げてどうにかするしかない。それ見たことか、幼いこどもはやはり食い物にされて虐待を受けているじゃないか……!
「ねえ、おじさん。一緒にお風呂はいろ? 一人だと広いような気がして、落ち着かないの……」
促されるまま一緒に入ったバスタブは、何故かひどく安らぎを感じるものだった。そういえば、娘が自分と一緒に風呂に入るのを嫌がるようになったのは、いつからだっただろうか。その記憶と今の行動がリンクするかということや、何故こんなに安心しているのかは、結局分からずじまいだった。それよりも、彼のことだ。どうにかならないものだろうか――。
服をロッタに洗ってもらうように告げ、ネムと別れた後に真っ先に向かったのは、シェンの城だった。
滞りなく謁見室に通されると、相変わらず豪奢な格好をしたシェンが迎えてくれた。
「あら、どうしたの? また、帰りたいとか言うんじゃ」
シェンの軽口を遮断し、クレフは詰問に移った。
「そんなことを話しに来たわけじゃない。姉さん、貴方が思うよりも事態は深刻なんだ。この街には幼いこどももいるだろう。彼らの話がしたい」
クレフはやや食い気味に話を切り出す。
「彼らは幼いのに売春を余儀なくされている者もいるし、暴力や虐待に近いものを受けている者もいるんだ。
その事実を姉さんは分かっているのか!? 分かっているならどうして見過ごす真似をする、仮にも一国の主だろう?
もしも分かっていないならどうしてそれを予知できない? こうなることは見通せるはずなのに……!」
感情的に叫ぶクレフに対し、シェンは無表情のまま叫びを聞いていた。
「……言いたいことはそれだけ?」
「それだけってどういう意味なんだ、重要な問題でじゃないのか……?」
そんな彼を、シェンは鼻で笑う。
「下らない。この街に住むってことは、そう言うことよ。全ては自己責任、屋根の下眠れるだけでましだと思うことね」
「な……!」
「この街にいる限り生命の危機にさらされることはまずないのだから、それに感謝して貰いたいくらいよ。全てを承知で住んで貰っているのだから、貴方みたいな観光客風情に口出しされるの、酷く面倒だわ」
熱弁したクレフに対し、失笑で返すシェン。
「そんな、住民全てを思いやってこそ主なんじゃないのか……」
「じゃあ、例えば貴方は、仕事場の人間すべてのコンディションを管理できるとでも?」
その言葉に、クレフは言葉を失う。
「そ、それは……不可能に近い、けど……」
「でしょう? 貴方の言っていることはそれに近いことだって分からないかしら。貴方も一人で町ひとつ統治してみればその大変さぐらい分かると思うけれど」
未経験の領域について触れられてしまったら、もう黙るしかなかった。それ見たことかと言わんばかりの表情を浮かべるシェンだったが、クレフはそれよりも気になることがあった。シェンの傍ら、テーブルに無造作に置かれている数種類の薬がいやに気にかかったのだ。
「……姉さん、その薬……風邪でも引いたのかい?」
薬に触れようとした手は、すぐに払われた。
「触らないで! ……何だっていいでしょ? クレフには関係の無いことなんだから。
話はもう済んだでしょ? さ、もう帰って」
もう何も話したくないという遠まわしな意思表示と、こうなったらもうテコでも動かないということぐらい察したクレフは、とぼとぼと城を後にするしかなかった。
部屋に戻り真っ先にしたことは、部屋の端末でロッタと連絡を取ることだった。幸い通話機能も付いていたため、メッセージのやり取りより素早い会話が可能だった。
「……はいはい、ロッタですよぉ。なんですかー?」
「ああ……、昨日会ったクレフだ、ええと……ホテルに泊まってる者で、昨日貴方の帰りが遅いと聞いたからネムさんを泊めたんだけど……そのことを話は聞いていないかな?」
「あぁ、聞いてますよぉ。ありがとうございます、おかげで助かりましたよぉ」
ロッタの声は非常に明るいものだった。そんな彼女に、クレフは切り出す。
「そう、ですか……。ところでロッタさん、ネムさんのことなんだけれども、いいかな。
あの子、怪我が多いようだけど何か……」
「ああ、それね。お客さんからたまに殴られることもあるみたい。ほんとドジよねぇ」
けらけらと他人事のように笑うロッタに、クレフは軽く怒りを覚えた。
「そ、そんな他人事みたいに……! なんとか出来ないのか? 庇うだとか相手に何か言うとか……」
「はぁ……。ねぇお兄さん、そんなにネムちゃんのことが大事? ただの観光客なんだから、もっと他の子のことも試した方が楽しいよぉ?
それに、そんなに気になるんだったら連れて帰ることも出来ると思うし、領主様に掛け合った方が良いんじゃない? 私一人で面倒見るのも限度がある訳だしね、その辺分かってもらえないとホント辛いの」
ここの住人は、他人に対してはどこまでも他人事を貫くのが普通なのだろうか。全ては自己責任、というシェンの言葉が脳裏をかすめる。
「そんなことより聞いてよー、今友達呼んでネムちゃんと遊んでるの。よかったらお兄さんも遊びに来ない? 一緒に遊ぼぉ」
「え、わ、私と……?」
一気に拍子抜けした。話題のベクトルが変わったかと思ったら、遊びの誘いを受けるなんて。
「そうそう、お兄さんと! おカタそうな人と一度話してみたかったんだぁ。ね、来てよ来てよー。アパートの503号室なんだけど、アドレス帳に住所も乗ってるし、部屋ならすぐ分かると思うから。はい決定ってことで、待ってるねぇ」
選択の余地も与えないままに通話を切られる。ここで行かないという選択肢もあったのだろうが、どうもネムのことが放っておけなく、端末を持ってロッタの家に向かうことにした。
迷うことも無く着いた町はずれのアパートは、多少古びた外観をしていた。
アパートの入り口前で、ロッタが出迎えてくれた。
「いらっしゃーい! わぁ、来てくれるとは思わなかったぁ! さ、来て来てー」
エレベーターなどは無く、階段で五階まで上がり、部屋に通される。
そこにいたのは、ロッタと、彼女の友人と思しき女性三人と、ネムだった。
と、言い表せば普通だったが、明らかに普通ではないことが起きていた。ネムの着ているものは、今まで着ていた、ブカブカでサイズの合っていない服ではなかった。決定的な違和感を挙げるなら、ネムが今着ている女物の、フリルがあしらわれた可愛らしいドレスだろう。
「え、ね、ネムさん……?」
「可愛いでしょ、あたしのお古なんですよ。ネム君に似合うかなって持ってきたらロッタが着せていいって言ったし、服を洗わなきゃいけないーっていうんで、着せたんです」
ふふん、と得意げに女性がこの状況を説明してくれた。
「あ、おじさん! ねぇ、これにあうかなぁ?」
おもちゃにされていることを気にする様子も無く、ネムはほにゃりと笑ってスカートの裾をつまんで見せた。
さすがに、この状況には脱力感と共に言葉を失うしかなかった。ネムを始めとするこの街のこどもたちの為にと思って行動したつもりだったのに、彼自身はこの街に意外に順応しているのかもしれない……とさえ思えてきた。
「あ、ああ……似合っているよ、可愛い」
やっと絞り出した感想も、的外れなのか的確なのか最早分からなかった。
「でしょお! 服も可愛いんだけど、ネム君も可愛いから良く似合っててー! いやぁ、さっすがあたし!」
「何言ってんのよ、あたしの服だって絶対可愛いのに!」
「えー、ネムちゃんはセクシー路線より可愛い路線の方が良いって! ね、お兄さん?」
女たちはクレフの言葉にいよいよ楽しそうにはしゃぐ。
「は、はあ……そう、なんですか」
このままでは感情労働に暮れる予感がしたクレフは、適当にやり過ごしたのち、その場を早々に後にした。女たちはやや名残惜しそうにも見えたが、扉を閉め部屋を後にする頃には、再び彼女ら同士ではしゃいでいた。恐らく、さっきのは社交辞令で、自分たちの自慢話を聞いてくれさえすれば、その後はいてもいなくてもどちらでも良かったのかもしれない。
ホテルに帰り、仕事の続きをしよう。そう思い、宿に戻ることにした。
夕方過ぎ、作業に没頭していると部屋のドアを叩く者がいることに気付く。
ドアを開けると、相変わらず女物のドレスを着せられているネムが立っていた。
「こんにちはあ……。ロッタがホテルに仕事しに来たから、付いて来たの……。おじさん、ひまあ?」
相変わらず緩やかな動きで首をかしげ問いかけるネム。
「いや、暇じゃないけれど……。わざわざ訪ねてくれてありがとうネムさん。どうしたんだい?」
「ん……。おじさん、ロッタの部屋に来てもー……、すぐ帰っちゃったから……。つまんなかった? それともこれ、似合わなかった?」
「そ、そういう問題じゃなくてだね。……い、居づらかったんだよ、単純に。ネムさんは女装させられているし、女ばかりで遊んでいるのに私が混じるというのもはばかられて」
「はばから、……? んー……よくわからないけど、嫌だったのかなぁ。ごめんなさい」
素直にぺこりと頭を下げるネム。ここまで丁寧にこどもに謝られると、却って悪いことをしたなと気まずくなる。
「ネムさんは気にしなくていいんだ。私が勝手に気まずくなっただけなのだし。だから、顔を上げてくれないか」
気にしないで、と下げっぱなしの頭を上げるように手で促すと、ネムはその手が気になったようでじっと凝視し始めた。
「……おじさんの、手……」
壊れ物を扱うようにクレフの手にそっと触れると、愛おしそうに頬ずりをする。
「がんばり屋さんの手をしてるね。きっと、おじさんってぼくが知らないうちにすっごくがんばっているんだね。大変なこととか、無理とか、いっぱいしてるんだろうね。
誰も言わなくても、ぼくはおじさんががんばってるんだって、思うの……。ねえ、おじさん。あまり、無茶しないでね……?」
普段なら、居心地の悪さしか覚えないねぎらいの言葉。
何故だろう、ネムに告げられると不思議と染み入ってくるような気がした。居心地の悪さなど微塵も感じさせなかった。それどころか、胸のあたりを駆け巡った感情はなんなのだろうか。しばらく感じたことのない、この感情は――?
ネムがしばらく頬ずりをしながらねぎらいの言葉をかけるのに身を任せていると、部屋の端末がメッセージ受信を告げる。
「ふあ……? あ。おじさん、メッセージが届いたみたいだよー?」
すり寄せていた頬を離し、ネムはぱたぱたと部屋にあがると端末を取ってきてくれた。
その手にほんの少しの惜別感を覚えつつも端末を受け取ると、ロッタからのメッセージだった。
「ああ……、ネムさん。ロッタさんからだ。もうすぐで仕事が終わるからロビーに来てくれ、と。あと……洗濯物は明日の朝には乾くそうだ」
言葉をかみ砕くようにうんうんと頷くと、ネムはくるりと踵を返す。
「わかったあ……、じゃあ、今日はこれで帰るね……。おじさん、ありがとう。じゃあね」
小さく手を振ると、小走りにエレベーターへと向かっていくネム。
彼を見送り、扉を閉めたところで、クレフはへなへなとその場に座り込んだ。
「……なんだったんだ……、さっきのは……」
さっきの感情は、よく考えるとこども相手に感じるものではない。そして、同性相手に感じるものでもない。
「おかしくなったのか? ……冗談はよしてくれ」
ネムさんにまた褒められたい。でも、さっきの感情を抱くというのはあまり良い趣味とは言えないのではないだろうか――。
「ああ、いけない……! こんなのでは、いけない……」
深く深呼吸をし、色々なものを振り切るようにかぶりを振る。それから、ひとまずそれらの感情をひとまとめにして葬ることにした。
「……作業でも……しよう」
歯がゆい感情は、ひとまず全て保留だ。自分には打ち込むべき仕事がある。貴金属はどんな感情を持っていても自分を受け入れてくれる。
想いを振り切るようにと作業に打ち込む。
幸いなことに、集中が途切れることはなかった。
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