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第1話 旅立ち
「本当に行くのかい、先生」
「先生」と呼ばれた男は、大きなリュックサックを背負って、ゆっくりと振り返る。彼の名は、ロン。ニンゲンの学者である。
「ああ。男が一度決めたんだ、もう止めてくれるなよ」
「いや、だがねぇ先生……」
困ったような声で、ロンを引き留めようとしている男は、レイジア。ロンの友人の一人であり、この街の役人でもある。
「ニンゲンが旅に出るなんて、無謀だよ。先生はよく知っているだろう?」
彼の首から背、そして長い尻尾にかけては、するどい突起物が一列生えている。ロンより一周り以上も大きな身体をしていて、皮膚は硬く赤黒い。
彼は、この世界で竜人と呼ばれる生き物である。
「……この家のものは全部お前にくれてやる。この家も土地も全てだ。……ああ、ネズミの世話を忘れないでくれよ」
「そのネズミは連れて行くのに、こいつらは置き去りかい」
レイジアは、硬い指でロンの手元を指差した。ロンは目を落とす。
「……コレはそいつらの親で……もう長くない。それなら、俺の旅に連れて行って、最期をみてやりたい」
「一人が嫌いなんだと素直に言えばいいのに」
「そんなこと、男に言えるはずないだろう。なあ、シーザ」
シーザという名のついたこの縦長の小動物は、マダラヘンゲネズミという生き物である。体長は三十センチほどで、頭には三対の耳を持ち、見た目は、遥か昔絶滅したフェレットによく似ている。長い身体に生えた短い足で蛇のように這いずり、その身体の色と模様、そして質感は、絶えず不規則に変化していた。マダラヘンゲネズミの「保護色」である。
ロンは、窓から街を見下ろした。金属製の身体を持つ不老の生き物、柔らかい毛に包まれた生き物、他の生き物の三倍近い大きさの身体で器用に街を縫う生き物――多種多様な生き物が、街を行き来している。
大きな尻尾を引きずるようにしてロンの側へやってきたレイジアは、ため息をついて、彼と同じように窓の外を見た。
「……分からないねぇ、先生。この街がそんなに嫌いかな。ここには毒も火も、死ぬような寒さも汚い空気もないんだよ」
「俺はこの街が好きだったさ。食い物があって職があって、なんの不満もない。……だが、アイツから手紙が届いた」
「……アイツ? アイツってまさか……」
ロンはくすっと笑って、一封の封筒をレイジアに見せた。封筒の裏面に描かれていたのは、レイジアにも見覚えのあるサインと、癖のある汚い字だった。
「俺の青い鳥からのご招待だ」
レイジアは目を大きく見開き、鋭い牙をロンにむけて怒鳴った。
「……馬鹿馬鹿しい! それこそ行くべきじゃない! だいたいもう何年もアイツは行方しれずだ。その手紙だってほら、時超え郵便の印が押してある! ……分かるだろう、先生。俺だって、言いたかないが……、アンタにだけはマメだったアイツだぞ……、もう……」
「……俺もこの先長くない」
ロンは淡々とした口調でそう言った。その細い身体を、レイジアはじろっと見る。
「……最期に知りたくなったのさ。アイツが、あのくだらぬ命遊びで、一体何を生したのか」
「違う……、アンタはアイツに会いたいだけなんだ。アンタらしくないことはよせ、先生」
レイジアの言葉を遮るように、ロンは、紫外線を吸収する特殊な素材で作られた重たいフードを被った。シーザが、ロンの首元にするすると巻き付く。
「先生がいてくれれば、この街は安泰なんだ。皆先生を好きで、アンタを頼りにしてるんだ」
ロンは、他から見れば大層小さく脆い身体を、分厚い布でしっかり覆って、レイジアを振り返ると笑った。
「……きっと、悪くない旅になる。……それじゃあ、元気で」
「『元気で』って……先生……っ」
レイジアの声などもう聞こえていないかのように、ロンはひらひらと左手を振ってドアを開けた。使い慣れた長い階段を、とことこと降りていく。
「……はぁ」
レイジアは一つため息をつくと、部屋に飾ってある写真立てをじっと見た。街一番の知識人で、誰からも愛され、先生と称えられていた、人気者のロンと、ひらひらと掴みどころのない、命知らずの自由人。
「お前の罪は重いぞ、遊び人め……」
レイジアは恨み言を吐きつつ、その遊び人に振り回されて苦しんだ、老いた友人の後ろ姿を眺めていた。
親愛なる先生
お久しぶりです。突然の手紙に、驚かれたことでしょう。なにせこの手紙は、俺が貴方に送る最後の手紙に違いないのですから。
本来この手紙は、いつものように住所宛にすればよかったのですが、念の為、貴方の身体宛で送らせていただきました。ほら、貴方に頂いた涙があったでしょう。それを使って貴方宛の未来便を作りました。……というのも、俺にはどうしても貴方に見せたいものがあるのです。
本当は貴方のところに持って帰りたかったのですが、モノがモノだけに、俺にはどうすることもできません。わがままで申し訳ありませんが、俺を信じて迎えに来てください。貴方の心にまだ俺がいるのなら、きっとこの旅の結末は、悪くないものになるでしょう。
ただ、貴方の心に俺がいないのなら、今すぐにこの手紙を破り捨ててください。旅を強要しておいてなんですが、貴方の人生の邪魔をするつもりじゃありません。貴方には居場所がある。その街は、貴方という頭脳を、必要としている。だから俺のような自由人に、貴方が縛られることはないんです。
キュ、と、耳元で小さな声が聞こえた。ロンは読んでいた手紙を重ねて折り、硬く上質な封筒に戻すと、シーザの頭を人差し指で優しく撫でた。
「……心配するな、俺は知識の探求者だ。この写真がどの辺りで撮られたかは全て知っているし、あいつの残した地図もある」
ロンは、人差し指と中指で写真をはさみ、ピンと振った。写真には、今自分が乗っている黒い汽車と、一人の少年、そして若い頃の自分が写っている。
「これを辿れば、アイツの言う場所まで辿り着く。道のりは険しいかもしれないが……、同じニンゲンのアイツが行けたんだ、なんとかなるさ」
くるりと写真をひっくり返すと、裏面には癖のある汚い字で、今からおよそ二十年前の日付と共に「旅立ち」と書かれていた。その下には、本当に小さな力のない文字で、「先生が泣いていた。少し馬鹿のように見えた。」と書かれている。
「どう思う、シーザ。この男くらいだろう、俺を馬鹿だと言うのは」
シーザは小さな声で鳴きながら、ロンの首をぐるぐると回った。それから、胸元から服に潜り込む。
「……はは、くすぐったいだろう。……ほら、潜るならこっちにしたらいい」
ロンはシーザを掴んで、自分の上着のポケットにしまった。シーザは、しばらく主人の顔を見上げて不満げに鳴いていたが、すぐにおとなしくなった。
ロンは、ゆっくりと汽車の椅子に座り直す。揺れを感じながら、その目をすっと閉じた。
カップを二つ並べて、隣国の王から贈られた紅茶を注ぐ。透き通った赤をぼんやりと見つめ、ロンはカップに手を伸ばした。
「先生! ただいま!」
「うわっ、ノア!?」
突然、窓から飛び込んできた男に驚いて、ロンは思わず愛称のほうを口にした。ノアと呼ばれた少年は、肩までのびた青い髪をたなびかせ、にっと笑ってロンに飛びついた。
「おま……っ、こらノアロ! 離れなさい! 紅茶がこぼれるだろうが!」
彼の名はノアロ。ニンゲンの少年である。彼はこれでもかというほど強くロンを抱きしめた後、黒いローブをふわりと揺らしてロンから離れた。
「……たく、窓から入ってくるなんてなんて奴だ」
「先生を脅かそうと思ったんだ。手紙で、『早く帰れ』だの『寄り道をするな』だの、ものすごい寂しそうだったからな」
「誰のせいだと思って……」
ロンはぼやく。ノアロはほんの少し困ったように笑って、自分のポケットに手を突っ込んだ。
「はい、これ先生に」
ノアロが、まるでハンカチかゴミかのように取り出したそれは、身体をくねらせて、ロンの膝の上に飛び込んできた。ロンは、足の隙間に潜り込もうと奮闘しているそれを取り押さえて、手のひらの上に乗せた。
「……ネズミ? ……待て、まさか"マダラヘンゲネズミ"か?」
「さっすが先生! 物知りだぜ」
ノアロはパチンと指を鳴らして、ケラケラ笑った。
「お前、まさか追憶の森に……っ」
「行ったよ。いいところだったなぁ。何億年も前の木々の中、何の声もしないんだ。風が吹いて、草木が揺れて、優しい太陽の光がキラキラ……って」
ノアロは、遠くを見つめるようにしてから、すっと目を閉じた。追憶の森に思いを馳せるノアロを横目で見て、ロンは震えるネズミの背を指先でそっと撫でた。
「……はぁ……この前は砂漠でその前は死の森で……危険区域ばかりじゃないか。追憶の森だって、完璧に安全じゃない。本当にお前は……」
「旅が好きだなって?」
ノアロは、鉛色の瞳でロンをじっと見つめた。
「……そうだ」
ロンは頷いた。
「そりゃあ、俺は旅人だからな」
ノアロはぱっと笑った。それから、おもむろに、ソファーに座るロンの膝上に乗り上げると、小さく微笑んだ。
「でも、俺が一番好きなのは先生だよ」
ロンはじとっとノアロを見つめて、目線を手元のネズミに落とした。
「……物は言いようだな。お前は旅だって一番好きなんだろう。…………もう少し早く帰ってこないか、この遊び人め」
「ごめん」
ロンは腕を少し持ち上げて、ネズミと目線を合わせると、不満そうな声で尋ねた。
「……それで? このマダラでご機嫌取りか」
「かわいいだろ?」
「…………ああ、そうだな。それは認めよう」
ロンはふっと微笑んだ。ノアロはひょいと立ち上がると、黒いローブを脱ぎながら、またペラペラと口を動かし始めた。
「よかったぁ。先生が気に入らなかったら食べるつもりだったんだ。マダラヘンゲネズミはなかなかイケるからな」
「……お前がそんな目で見てるから、このマダラはこんなに怯えてんのか……」
可哀想にな、とロンはネズミの鼻先をくすぐる。ノアロはその灰の瞳を細めて微笑み、机を挟んでロンの反対側に座った。
「先生、今回の収穫を見てくれよ!」
「……待て、今録音する」
リュックサックから小さな紙の束を取り出したノアロは、立ち上がったロンを見て首を傾げる。
「録音? 音を記録するってことか? なんでそんなこと」
「お前、前に旅行記を出したいと言っていただろう。時間がなくて書けないと言っていたやつだ」
「ああ、それ収入源にしたいなって話してたんだっけ」
「それ、俺が書いて出してやる」
ロンは新品の録音機を持って机に戻る。これは、スティミューラという街で作られた、高価で性能のいいものだ。
「……先生が? なんのために」
ノアロは怪訝そうに目を瞬かせた。
「お前のために。お前はじっとしていられる性分じゃないし、どうせ文章を書くことには向いてないだろう」
ロンの言葉に、ノアロはそうだなと言って、へらへら笑った。ロンは再びネズミを膝に乗せ、ソファーに深く腰掛ける。ネズミは、ロンの膝上で丸くなった。
「収入はお前に全額やる。……俺は仕事持ってるからな」
「いいのか? 先生になんの得があるんだよ、それ」
「…………今まではただ暇だった時間にも、お前のことをずっと考えていられる」
ロンは苦笑いにも近い笑みを浮かべ、紅茶のカップに口をつけた。
「…………冷めちまったな」
「先生、俺も飲んでいい?」
「そこにあるだろう。それはお前のだ」
ノアロは目の前のカップを持ち上げた。もうすっかり冷めてしまった紅茶を、一気に流し込む。口元を拭って、彼は再びカップに紅茶を注いだ。
その間に、ロンは、録音機を机の上に置いて、電源を入れる。
「先生、早く! 俺もう早く先生に写真を見てほしくって待ちきれないよ」
「待て待て、今やるから」
ロンは録音ボタンを押した。機械の音が変わるのを感じて、ロンはソファーに座り直す。
「…………いいぞ、話し始めて」
「よし。まずは先生、これを見てくれ」
ノアロは、瞳をきらりと輝かせ、紙の束から一枚を引き抜くと、机上に出した。
「"リュウグウキリン"だ! すごい写真だろ!?」
ロンは驚きのあまり言葉を失った。
「このリュウグウキリンでかくってさ! ほら、後ろに生えてる"ヒトクイカシワ"、これ大体八メートルくらいの植物だろ? このリュウグウキリン、これよりずっと大きかったんだ! だからこのリュウグウキリンは、十メートル以上ある大物だ!」
「……お前、こんなのどうやって撮ったんだ」
「簡単さ。前もって、リュウグウキリンの通り道に寝そべって隠れておくんだ。半日くらいかな。こっちが動かなかったら、アイツら分かんないからさ。で、写真撮ったらすぐ逃げるんだよ。あいつら、小さくてすばしっこいものは捕まえるのが苦手だから、下手こかない限り捕まんないぜ」
彼の話を聞き、ロンは目を何度も瞬かせ、それから大きな溜息をついた。
「…………お前は……本当に……」
「あはは、でもいい写真だろ?」
「よく見せてくれ」
ロンが右手を伸ばすより先に、ノアロが半分立ち上がって、写真を持った手をロンの近くへ伸ばしてきた。ロンはおとなしく座ったまま、近くで写真を受け取る。
写真に写っていたのは、リュウグウキリンという危険な大型生物だ。光を受けて七色に光る半透明な鱗を持っており、その姿は歩く宝石細工とも言われている。性格は総じて凶暴で、食性は雑食、群れを作って生活する。
ノアロの写真は、そんなリュウグウキリンを、その真下から青空と共に写したものだった。きらきらと輝く鱗の一枚一枚がはっきりと見えるほどに近く、こちらを見下ろすガーネットのような赤い瞳が、恐ろしく美しかった。
「…………素晴らしいな……。図鑑なんかには、絶対に載らないような写真だ」
ロンの声は、自分でも気付かないうちに弾んでいた。ノアロを見ると、彼はこちらを見て満足そうに笑った。
「……先生が楽しんでくれるなら、俺はこの命なんかちっとも惜しくないな」
ロンは突然左手でノアロの手を掴むと、泣きそうな顔で首を振った。膝の上で眠っていたネズミが飛び起きて、机の上へ逃げていく。ノアロは、困った顔になって、真面目な声音で笑った。
「……先生がいるから、この命懸けの旅が、更に楽しいってことだよ。俺が好きでやってるんだ」
「そんなことは分かってる。お前が旅に出るのが俺のためなら、とっくの昔にやめさせてる」
「じゃあなんでそんな顔するんだよ」
ノアロは、まっすぐにロンを見た。灰の瞳は不安そうにゆらゆら揺れ、その縁はぼんやりふやけていた。
ノアロの手を掴む自分の左手の上に、ロンはゆっくりと右手を重ねた。
「…………旅人ってのは馬鹿なのか」
ノアロの手首に結ばれた、赤い紐を撫でる。ノアロの腕は、ぴくっと跳ねた。
「お前の命がどれほど重いかを知れ。無茶をするな。……旅なんかに、命をかけないでくれ」
ロンの声は微かに震えていた。それは、ロン自身にも分かった。大人が子どもに物事をせがむなど、みっともないとも思った。
ノアロは、肩をすくめて笑った。
「……無理だなぁ。だって俺は旅人だぜ、先生」
ノアロはロンの前髪を撫でてから、彼の側頭部をそっと手のひらで包んだ。
「…………旅人ってのは馬鹿なんだ」
ノアロの言葉に、ロンの心臓はじんと痛む。彼の手が離れると、ロンは俯き、ぎゅっと拳を握りこんだ。
「……分かった、分かったよ」
「…………先生、泣いて……」
「もういい。ガキなんか好きになっちまった俺の負けだ。旅でもなんでも好きにしたらいい」
ロンは立ち上がると、身を乗り出してノアロを抱きしめ、はっきりと言った。
「もう、いっそいつまでも、俺のことを振り回してくれ。……もう、それだけでいい」
ノアロは、ロンの背中に腕を回すと、彼にすり寄った。
「……約束する。いつまでも、ね」
二人は身体を離す。ノアロが、名残惜しそうに、ロンの右手を握った。手のひらを指で撫で、薬指の先を人差し指と親指でそっと握る。それは、一秒にも満たない短い時間で、すっと離れた。
ロンが椅子に座り直すと、ネズミは、またロンの腕の中にひょいと飛び込んだ。我が物顔でロンの膝上を陣取り、そのまま目を閉じる。
「…………あれ、なんだお前。俺のことはあんなに嫌ってたくせに、先生は好きなのか?」
「マダラヘンゲネズミは、元来人懐っこくて……、その愛らしさで他の生き物に寄生して生きる、かなりドメスティックな生き物だ。……普通、そんなに嫌われる方が難しい」
「ええっ、なんでだよ!」
ノアロはリュックサックから何やら取り出すと、手のひらに乗せて突き出した。
「……ほら、コレでどうだ!」
ノアロの手には、小さなチーズが一欠片乗っていた。自信満々といった表情で、ノアロは手を押し出す。ネズミは恐る恐る彼の手に近づくと、チーズを咥えて、さっさとロンの元へ帰っていった。
「見た!? 先生、コイツ今俺の手から食べたぞ!」
「だから言ってるだろう、マダラは普通人懐っこいと……」
ネズミは、またロンの膝の上で丸くなり、頭を腹に擦り付ける。その様子を見て、ノアロが吹き出すように笑った。
「はは! ホント、みーんな先生が好きなんだなぁ……」
ノアロはネズミの頭を撫でる。指先に噛みつかれ、ケラケラと笑うノアロを見つめて、ロンはため息をついた。
「……ったく、その調子で短気な生き物を怒らせないようにしろよ」
「……ああっ、それで思い出した! 先生、こっちの写真のタイトルはな、『激昂するミツアシホウセキハクチョウ』……」
「お前はホントに……ッ!」
写真を指差して、旅の話をするノアロの目は、キラキラと輝いていた。初めて見たものの話を、死にかけた話を、本当に楽しそうに彼は話す。頬を紅潮させ、口を大きく開けて、興奮気味な身振り手振りで。ロンは頬杖をついて、ノアロの話を聞いた。愛すべき昼下がりを、心から味わう。
「……小さな方、終点ですよ」
肩を揺すられて、ロンは瞼を持ち上げる。大きな生き物から、長い指先で、肩を揺さぶられていた。
その生き物は、臙脂色の服を着た駅員だった。ロンは慌てて飛び起き、窓の外を見る。そこはもう、見慣れた街ではなく、数え切れないほどの大木に周りを囲まれた駅だった。
「……あ、ああ……、すみません」
ロンは大きなリュックサックを背中に背負うと、ゆっくり立ち上がった。
「ん……?」
ポケットが軽い。不思議に思い手を当てる。そこは空になっていた。
「シーザ? シーザ……」
「お探しのは、このマダラですか? 先ほどからしきりに貴方の周りをウロウロとしておりましたので、踏み潰してしまいそうで捕まえておきました」
駅員はロンの前に手のひらを差し出す。ニンゲンでも潰されてしまいそうな大きな手のひらの上で、シーザがきょとんと首を傾げた。
「ああ、そうです。ありがとうございます」
ロンは手を伸ばす。ローブの隙間から見えた細くしなやかな腕を見て、駅員は驚いた顔をした。
「珍しい。お客さん、ニンゲンですか」
「……お兄さん、ニンゲンは初めてで?」
「…………いや、前にはよく見ていたのですが。……青い髪の青年でした。やけに懐こくて、この汽車を降りる頃には、よく全員と写真など撮っておりました」
「……そうでしたか」
ロンは呟く。その光景が目に浮かぶようだった。
扉の手前に立ち、ロンは辺りを見回した。写真を捲る。二枚目の写真の裏に、また走り書きのような文章があった。
「少しの寂しさと、大きな希望を胸に、知らぬ感触の地面に足をつけるこの瞬間の快感を、先生にも味わってほしい。」
ロンは一つ息を吐く。汽車の床から湿った空気の中へ、足を踏み出した。足の先が、苔むした木の幹に触り、ふわりと弛んだ。ロンの心臓が、どきりと跳ねる。ロンは胸元で拳を握り、また一歩踏み出した。苔だらけの木の幹は、ロンの体の重みでゆっくりと凹み、ロンが足を離すと、またゆっくりと元に戻る。まるで濡れたスポンジの上を歩いているかのような、不思議な感覚だった。
木の幹の上を進み、今度は、家が三軒は建てられそうなほど太い幹の中へ入る。大木の内側に彫られた階段を降りていくと、程なくして改札口が見えた。ロンは切符を窓口に置いて、改札を通り過ぎる。
「ニンゲンなんて珍しい。観光ですかな」
突然、ロンは駅員に呼び止められた。年老いた魚人の駅員が、黒く丸い瞳をロンに向けていた。
ロンはゆらりと彼の方を向く。それから、ほんの少し笑った。
「…………いいえ。『跡追旅行 』です」
ロンははっきりとした声でそう言った。ロンの言葉に、駅員は二度頷き、おもむろに口を開いた。
「……それはそれは、どうかお幸せに」
「…………ありがとう」
跡追旅行。それは、古くからこの世界に息衝く、愛の文化である。
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