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よくできました 9
ふいっと婉然(えんぜん)と立ち止まった緋音がエレベーターのボタンを押して、ちょうど止まっていたこともあってすぐに扉が開いた。
滑り込んだ緋音に続いて、珀英も大きな荷物を運び込んで乗り込む。
無言のまま狭い空間を上がっていき、ドアが開いたので珀英が先に降りて、緋音の部屋の前まで真っ直ぐに進んでいく。
緋音はよく晴れている真っ赤に染まった夕暮れ時の空を見上げながら、珀英の背中を見遣る。
まだ冬の名残がある季節だが、春の息吹を感じられるくらい、空気が少し暖かく緩くなっている。
もうすぐ春が来る。緋音の好きな春が。
珀英の作る大好きな筍料理が食べられないのは嫌だから、帰ってこれて良かった。
春になる前に日本に帰ってこられて良かったと、今年は珀英をつれて何処かに美味しいものを食べに行こうかと、そんなことを思いながら、久しぶりに自分の自宅に辿り着く。
珀英が鍵を開けてキャリーバックを玄関に入れている。
緋音が肩からさげていた鞄は、今は珀英が肩から下げていて、珀英はそのままの状態で家に入り、振り返って満面の笑顔を浮かべて緋音を見つめる。
緋音は珀英の後に続いて玄関に入って。
珀英を見上げる。
珀英が家に居付くようになってから、毎日こうして家に帰って来た時に、嬉しそうににこにこ笑って出迎えてくれる珀英を見ていた。
アーモンド形の瞳が細く優しくなって、厚めの口唇が底抜けに楽しそうに横に引かれて笑顔になって、緋音を抱きしめようと腕を広げて待っている。
緋音は後ろ手で玄関に鍵をかけると、にっこりと満面の笑顔を浮かべてあげてから、するり・・・と、珀英の腕をかいくぐりながら靴を脱いで、
「お腹空いたー。何か食べたい」
と、浮き立った気分のまま珀英に我儘を言って、緋音は久しぶりのリビングに歩を進めた。
思った通り、珀英が気合い入れて掃除したのだろう。異常なくらい奇麗に掃除されている。
窓は太陽光を奇麗に透過していて、床は埃(ほこり)ひとつなくピカピカに光ってて、ソファも漆黒の艶が増していて、テーブルには緋音が嫌うから余計な物が置かれたりしていない。
ただただひたすら、緋音が寛(くつろ)げるように整理整頓されている。
すり抜けて行った緋音のしなやかな体を横目で見ながら、珀英は諦めたように深い深い溜息をつくと、それでも緋音らしいはぐらし方に、その変わらなさが嬉しくて、懐かしくて嬉しくて、緋音の背中を追いかけながら弾んだ声をかける。
「飛行機で食べなかったんですか?」
少し意地悪な質問を投げる。
緋音はリビングに置いてあるお気に入りのソファに、どっしりと座って座り心地を満喫しながら、頭を仰(の)け反らせて細い白い喉を晒(さら)して、珀英を見る。
着ていたトレンチコートを脱いで腕にかけた状態で、珀英はゆっくりと緋音の座ったソファの後ろに歩み寄る。
「ちょっとだけ食べたけど、そんなに食べてない」
「何でですか?」
珀英は緋音がなんて答えるか知っていたし、その答えを言って欲しいと思っていて。
緋音が座っているソファの後ろに立って、珀英はソファの背もたれに軽く寄りかかりながら、無防備な緋音を見下ろした。
緋音は細い喉をくつりと鳴らす。
「美味しくないし。お前のご飯のが美味しいから、食べたいと思わなかった」
「・・・・・・っ」
「ロンドンにいる間も・・・お前が色々作り置きしてくれたけど、やっぱり作りたてには敵わないな」
「はあ・・・まあ・・・」
「だ・か・ら。やっと日本に帰ってきたんだから、お前の作ったご飯が、食べたい」
深紅(しんく)の口唇が愉しそうに左右に伸びて笑みを作る。
少し薄茶の瞳が誘うように揺らめいて、珀英の近づいてくる端正な顔を映し出す。
滑らかな白い頬が、柔らかく歪む。
にっこりと楽しそうに笑う緋音を見て、珀英はどうしようもなく胸が締め付けられて。
ソファに座った緋音の上に覆いかぶさって、仰け反った状態の顎(あご)を捉えて、そっと・・・口吻ける。
緋音もそれをわかっていたし、むしろして欲しかったから、抵抗もしないで、珀英の口唇を受け入れた。
ゆっくりと口唇が離れて、珀英の熱い溜息が口唇にかかった。
「まったく・・・すぐ用意するんで待ってて下さい」
「ん、待ってる」
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