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第1話
大きい身体以外はすべてが平凡な俺が唯一得意とすることは、この恵まれた身体を活かして柔道に励むことだけ。幼い頃にテレビで見たヒーローアクションがかっこよくて、見様見真似で幼稚園で暴れまわったことがあった。もちろん先生にも親にもしこたま怒られたわけだが、そのあとに父から提案されたのが柔道との出会いだった。
「いいか、広大(こうだい)。人を殴ったり蹴ったりすることは、簡単にやっちゃいけないんだ。でもな、それが認められているスポーツがあるんだぞ」
さっそく父は、俺にたくさんの競技や試合を見せてくれた。ボクシングやレスリング、空手に格闘技…それらを見て一番興味を持ったのが柔道だった。
生まれたときからビッグサイズだった俺は、その見た目のまま広く大きく育つように「広大」と名前を付けられ、名前に劣らずものすごい勢いで大きく育った。
もう少しで190センチになるかという高校生にして大きすぎる背丈に、小学校高学年から続いている柔道のおかげで今はがっしりとした威圧感のある風貌に成長してしまった。相手を怖がらせまいと笑顔を常に意識して、持ち前の明るさもあってか俺の周りには自然と人が集まってきて、いつも賑やかで楽しい。高校二年に上がる春先、その楽しい日々はあることをきっかけに陰鬱とした日々へと激変した。
ことの発端は進級直前の春休み。いつも通りに柔道部へと足を運んで練習に励む日々だったが、最近どうも身体がだるい。準備運動やストレッチを怠ったわけでもない、筋肉痛がひどいわけでもない。ただここ数日寝つきが悪かったり夜中に目が覚めたり、部活で息苦しさを感じたり、身体が重かったり…原因がはっきりしない不調が続いていた。
外部コーチの父兄にも「珍しいな、最近調子悪いのか」と声を掛けられた。それは暗に、やる気がないなら邪魔なだけだと言われているのだけれど。
最近の気だるさを親に相談したところ、ダイナミクスといわれる第二性の検査をもう一度受けてみたらどうだとすすめられた。
世の中は男女性の他に、そこからさらに第二の性である「ダイナミクス」が存在し、Dom(ドム)とSub(サブ)とNormal(ノーマル)に分けられる。Subに対して支配し守りたいという欲求を持つDom。Domの支配下に入り守られたいという欲求を持つSub。そのどちらにも属さないNormal。それぞれ人口割合は、全体人口の約八割がNormalと大部分を占めており、DomとSubは一割ずつで存在しているといわれている。
思春期に入るとダイナミクス検査を受けなければならず、遅くても高校入学前には全員が一度は検査を受けなければならない。高校を入学する前の検査ではNormalと診断されていたが、今回の検査ではSubだと診断された。
「中学生のうちにだいたいの人はホルモン値が変動し安定するのですが、遅れて発現する人もいますので大丈夫ですよ」
医者の言葉に、なにが大丈夫なんだろうと思ったが口にはしなかった。医者からの説明では、今の不調に一番有効なのはDomとパートナー関係を結ぶことだそうだが、まだ学生だから急ぐ必要はないと言われた。今までNormalで生きてきて、今までと変わりない普通の生活ができていたのに、いきなりSubだなどと言われてもまったくピンとこない。医者の話も頭に入ってこず、自分のことではない別の話のように聞こえてしまう。かろうじて「はあ」だの「へえ」だのと返事はできたが…これからどうしろっていうんだ。
中学の授業でもダイナミクスの関係について教わったものの、自分には無関係な気がしていたのでよく覚えていない。今日の診断についても、今までの生活となんら変わらないだろうと気楽にかまえていたものの、病院から処方されたホルモン剤の袋に「毎朝一回・食後一錠」の文字が重くのしかかる。これからは薬漬けかと落胆した。
病院での診断を受けた次の日、部活前に職員室に行き顧問の先生に診断結果について話をしにいったところ、様々なトラブル防止のため学校に届け出る必要があると説明された。
「なんだ結(ゆう)城(き)、お前みたいな大男がSubだったのかあ」
まあ気にするなよ、と俺の肩をバンバン叩きながらガハハと笑っている顧問。気をつけていないと、じわじわ湧き出る感情に身を任せて声を荒げたくなってしまう…怒りか悲しみか、自分でも整理できていない。あまり向き合いたくない感情だ。
「先生、今やそれはセクハラ発言になっちゃいますよ」
部活顧問の隣の席、現文教諭が軽く注意した。言葉にならない靄が広がる感覚…まるで腫れ物に触るみたいな、はっきりしない漠然とした違和感。自分の愛想笑いが引きつっているのが分かる。
顧問や両親からのアドバイスで、ダイナミクスの公言は控えたほうがいいと助言をもらった。たしかに自分の周りでもダイナミクスがどうとか話している人は少ない気がする…というか俺自身がそういう話に無関心すぎたのかもしれない。たまにニュースでも、DomがSubを強制服従させて傷害事件になったと報道されることもあるため、少し注意が必要らしい。
「部活もしんどいときは休んでいいからな。今日は練習出るか?」
表面上優しく聞こえる言葉をもらえたけど、その声色からは優しさのかけらもなく、もう用事は済んだだろうとこの場を切り上げたいニュアンスを含んでいた。ああ、そうか。これは柔道部員としての戦力外通告なのだと察した。本当は練習に出るつもりで用意してきたけど、居心地の悪さからはやく逃げ出したかった。
「まだホルモン剤が身体に合ってなくて」
「ん、そうか。いろいろ大変だろうからな」
顧問は席から立ちあがりしな、帰ってゆっくり休めよと機械的に言いながら柔道場の方向へと歩いていった。小さな声で「もったいないけどな」と漏らしたのを聞き逃さなかったし、それがやけに俺の頭に反響してみぞおちがグッと締め付けられた。
スポーツにおいてNormal以外の性は、メンタル面やフィジカル面での不安定さが理由で継続させることが難しいといわれている。スポーツ選手などもほとんどがNormal性で、個人競技はその性差が顕著に出てしまう。昔からやっていた柔道こそ、今自分が一番熱中できることだった。中学でもメダルや賞状をもらって、地区大会にも常連だった。今まで抜かりなく練習に励んできたし、高校でもやれるところまでやってみたい。しかし、ダイナミクスの発現で向けられる目がこんなにも変わってしまうし、スポーツをやるうえでの不都合も実感しているのだ。でも、だけど…柔道に対する熱を鎮めるには時間がかかりそうだった。自分のダイナミクスを変えることはできないのだから仕方がない。生半可な気持ちで部活に行ってもみんなの足を引っ張るだけだ。そもそも薬の副作用があるし…など、悔しさを隠すために理由を何個も並べた。
診断をもらって以降部活に行くのはやめた。ホルモン剤が身体に馴染むまで少し時間を要したのもあるが、柔道に関することを視界にいれてしまうと諦めがつかないからだ。それを察したのか、顧問からもなにもおとがめは無し。悔しいけど、気持ちを落ち着かせるためにはこうするしかなかった。
そんな憂鬱さを抱えた春休みを終え二年生に上がり、新しいクラスになっても顔なじみはちらほらいた。一年のときから仲良くしている野球部の安藤とサッカー部の杉山はまた同じクラスで、「またお前と一緒のクラスかよ」と笑い合ったりして以前と変わらない日常が始まった。春休みで柔道を失ってからなんとなく生きる理由も失っていたが、いつものメンバーと顔を合わせれば笑顔を浮かべることはできた。一人で憂鬱に過ごしていた春休みから、こいつらがいれば少しは気が晴れるかもしれない。
しかし、新学年が始まって二ヶ月もたたずして、その憂鬱さはさらに重く自分にのしかかってくるのだ。
「そういや結城、お前部活行ってないんだって?」
ある日の昼休み、おなじみの安藤と杉山の三人で弁当を食べ終えところで、杉山が突然切り出した。
「…ああ、足、怪我してさ」
「嘘つけ、お前Sub発現したからって他のやつ言ってたぞ」
あまり触れられたくない話でドキッとする。口が軽いお調子者の安藤もその話題に食いついてきた。
「えっ、まじ? 結城Subなの? めっちゃ意外なんだけど! お前もいじめられたいとか思ったりすんの?」
「いや、そういうわけじゃ…」
ヘラヘラと笑う友人達の言葉や決めつけにイラっとして、どう返していいのか分からなかった。Subの本能である「Domに命令され服従したい」という欲求は間違った方向に解釈されやすい。偏見混じりの茶化しに苛立ちと羞恥でカッと顔が熱くなる。そんな俺の気も知らずに目の前の二人の会話は続く。
「俺の先輩が言ってたんだけどさ、柔道部の後輩がSub診断もらって部活来れなくなったやついるって、三年の間で噂になってんだって」
「まじかよ、だって柔道部ってあと中川と鈴木と、吉田しかいねえじゃん」
「あいつら普通に柔道場でゴリラの如く取っ組み合いしてたぞ」
「めっちゃ想像できるんだけど」
「結城、柔道部エースだったのにもったいねえな」
まただ、もったいない。その表現にまた心がずっしりと重くなる。モヤモヤとした気持ちを抱えながらもその場をなんとか切り抜けようとしたけど、無邪気な級友たちはさらに追い討ちをかける。
「てか結城くらいの大男がSubだと、相手も大変だろうに」
「ゴリマッチョなお兄さんじゃないと相手すんの無理じゃね」
「げええ、俺ガチムチは無理だ、想像させんなよ」
「んじゃあピンヒールの女王様?」
「それ最高のご褒美じゃん」
「お前もSubの素質あり、と」
周囲で勝手に進んでいく品の無い会話に返事をする気も失せる。ぎゃははと下品に笑っているその声がうるさい。さらに最悪なことに、近くにいた女子たちも会話を聞きつけ加わってきた。
「結城くんみたいなDomだったら守られたかったのになあ」
「結城くんがSubとか想像できない」
「まああたしらNormalなんだけどね」
クスクスと笑われる。なんでこんなに屈辱的な気持ちにならなければいけないのだろう。ここで本気になって言い返したところでなにも生まれない。これがSubの宿命なのだろうか。まだ自分でも自覚できず手探りの状態なのに、勝手に土足で踏み散らかされるような不快感。それでも場の空気を悪くさせてはいけない、何か言わなくては…そう思うものの、もう相手をしたい気分ではない。この話を切り上げたいが、昼休みはまだ終わらない。
「…まあ俺、いざとなれば背負い投げ一本とって、むしろDom服従させるわ」
「さすが、強えわ〜惚れちゃう〜」
その場が笑いで包まれた。俺の周りはいつも賑やかで、人がたくさんいて、面白い。その賑やかさを保つためには笑顔でいなきゃいけない。結局自分も苦々しい気持ちを抱えながら、自分で茶化すことしかできなかった。
だるさの抜けない身体を引きずるように登校し、冷やかし交じりの雑談に笑って返す。あっという間に噂は広がり、廊下を歩けば前は感じなかった視線がチラチラとこちらに向けられ、俺を指さしヒソヒソと何やら話し始める。元からのキャラもあり適当に笑っていれば深刻な空気になることはないし、いじめにあうようなことはないものの、以前よりも楽しいと思えることが少なくなった。
俺自身もそんな日常に〝諦めた〟ような気がする。なにをどうあがいてもSub性が変わることはないし、波のある不調に向き合っていけばいいだけ。周りの反応を相手にしなければいいだけ。Sub性を理由になにか危険な目にあったら、今まで鍛えてきたこの身でぶっ飛ばせばいいのだから。
部活に行かなくなっても柔道部のメンバーは気軽に話してくれたし、ありがたいことに、たまに稽古相手してくれよとまで言ってくれる。俺は俺で、急に部活をやめたとはいえ筋トレやランニングは続けた。そうでもしてないと、弱いSubは服従させられてしまうという自分の中での偏見に負けてしまいそうだったから。気を紛らわせて自分をごまかすことしかできずにいた。
「…なんか今日、うまく薬効いてねえな」
今日も朝からだるさが抜けず、放課後の今になっても帰る足取りが重い。級友たちとのなんでもない日常を維持するために気を張っている自覚もあり、気疲れもしやすくなってしまっているのだろう。毎日の服薬は欠かさずしているが効果にも限度があるらしく、今日みたいにずっと気怠さが続くこともしばしばあった。
放課後の教室には数える程度の人しか残っておらず、初夏の空気をはらんだ湿った風が窓から流れ込んできていた。校庭から風にのって聞こえる野球部の掛け声をなんとなく聞きながら、少しだけ机に突っ伏して倦怠感に身をゆだねて惰眠をむさぼることにした。少し休んでから帰ろう、今日はランニングも休もう、と帰宅後の過ごし方を考えながら自分の身体と相談する。
「…結城くん、具合悪い?」
現実と夢の境目でうとうとしていたところ、頭側から声を掛けられた。重い頭を持ち上げると、声の主は同じクラスの相沢柚希(ゆずき)くんだった。
「あっ、と…ちょっとだるくて寝てた」
「そうなんだ、保健室で寝なくて大丈夫?」
「そこまで深刻な感じじゃなくて、少し休んでただけ」
そっか、と相沢くんは俺の前の席に座った。出席番号で一番最初の相沢くん、という印象だけで、同じクラスではあるけど直接話したことはなかったから声を掛けられたことに内心驚いた。窓から優しく流れ込む風が、相沢くんの黒い髪をさらさらと揺らす。
ぼんやりとした頭で現実を一つずつ目で拾っていく。差し込む夕日は俺たちを含め教室全体を赤く染め、黒板の上に設置されている時計を見ると寝始めてから一時間以上も経っていたことに驚いた。教室にはいつのまにか俺と相沢くんの二人だけになっていた。
改めて相沢くんに目を移すと、普段教室の最前列右端の席に座る相沢くんの背中はこぢんまりとして華奢な印象があったが、実際近くでみても標準よりは少し小柄な体躯をしているように感じられる…俺が標準よりも大きいからそう感じるのかもしれないけど。目元にかかるか否かというくらいに伸びた黒髪は柔らかそうで、優しい印象を受けた。
「季節の変わり目だし、体調崩しやすいよね」
相沢くんは目を細めて優しく微笑んだ。普段話すクラスメイトたちの下品な笑い方とはまったく違う、柔らかく癒される笑顔だと思った。
「少し寝るつもりが、思ったより時間経ってた」
「きっと疲れてたんだね、結城くんいつも人に囲まれてるから」
「そうかも、最近特に、疲れやすい」
相沢くんの声が頭にすっと入ってきて、一言ずつ脳内で心地よく反響する。今この二人をまとう空気だけが澄んでいるようで、すうっと呼吸がしやすく感じる。普段は言わないような弱音まで吐いて…きっと相沢くんには癒しのオーラがあるかもしれない。さっきから相沢くんの耳心地のいい声をもっと聞いていたくて、じんわり広がる心地よさを味わうようにゆっくり目を閉じた。
「…結城くんも、頑張っているんだね」
ぽつりと呟いた相沢くんの一言が、胸にじんと響く。もっと欲しいといわんばかりに、心が貪欲に騒ぎ出す。もっと、なにか、俺に…。
相沢くん、と声を掛けそうになったとき、廊下から騒々しい声が聞こえてきて現実に引き戻される。部活終わりの生徒たちが教室に近づいてるようだ。
「じゃあ、僕、帰る。結城くん、またね」
「あっ、ちょっ…」
引き留める間もなく、相沢くんはその騒々しさから逃げるように、自席の荷物をサッと持って教室を出てしまった。
「あれっ、結城じゃん、まだいたんだ」
「おお、野球部組、おつかれ」
「今日もつっかれた~、腹減った!」
騒々しさの正体は、安藤率いる野球部たちだった。先ほどの心地いい静寂とは打って変わって、教室が一気に騒々しくなる。軽く挨拶を交わして俺は教室をあとにした。駐輪場に相沢くんがいるかな、と思ったけどそれらしき姿は見つけられなかった。
自転車を漕ぎ出し帰路につく。家までは約二〇分。空を見上げれば朱色から藍色へと、夜へのグラデーションを描いていた。久々に空を見上げ、綺麗だと思った。さっきまであった頭痛が治まっていたことに気づいたのは、帰宅してしばらく経ったあとだった。
相沢くんと初めて話した日から数日、心も身体も軽くなった気がしたもののまたすぐだるさは戻ってくる。定期受診で担当医からも、強い薬を成長期のうちから服用するのはおすすめできないと言われて、休むほどではないが常に怠いという不快感と付き合っていかなければならないらしい。ふと思い出す、あの放課後の穏やかな時間。少なからず俺の中では相沢くんという人物を意識するきっかけにはなった。
教室では席が離れているし、相沢くんは一人で過ごすことが多いようで本人をまとう雰囲気は独特のものがある。話しかけようにもタイミングがない。
俺の周りにはいつものアホどもがいて、雑談に気が紛れることもあるけれど一人になりたいと思うことが増えた。安藤も杉山も、体調を気遣ってくれていることは分かるし、良いやつらではあるけれど。
「結城、昼飯は?」
「保健室で食ってそのままちょっと寝させてもらうわ」
「おう、お大事にな。俺もお布団で昼寝したい〜」
「うるせ、俺は仕方なくなんだよ」
二人にそう言いつつ弁当を持って教室を出たが保健室には向かわなかった。保健室の、消毒液のような湿布薬のようなあの独特の匂いは、柔道に励んでいたときの怪我を思い出させる。そして保健室内の意図的に作られる静寂が逆に緊張感があって、少し苦手だ。
教室棟からの渡り廊下を通って、理科室や調理室などの特別教室が並ぶ棟に向かった。教室棟とは違って比較的静かで、遠くから教室棟のざわざわした音が聞こえている。
どこかの教室が空いてたらそこで弁当食べて、もし誰かきたら移動すればいいだろう。ひとつずつ教室を覗いて空いているか確認するが、鍵が掛かっていたり部活の集まりのような小規模集団がいたりして良さそうな場所がない。
とぼとぼ歩いて二階の一番奥の教室までたどり着き、施錠されていないことを確認する。ここはどうだろうと中を覗くと、そこには窓際の席に一人、外を眺めている相沢くんの姿があった。
ドアを少し開け、顔だけひょっこり出して「相沢くん」と声を掛けた。思った以上に弾んだ声が出てしまった。
「あ、結城くん」
「俺もそっち行っていい?」
「うん、いいよ、ご飯食べてたんだ」
相沢くんが座っている前の席に行き向き合うように座った。壁からなんとなく目線を感じその正体をたどると、バッハだかベートーベンだか、白髪混ざりの西洋人たちの肖像画が壁に掛けられ、アップライトピアノも備え付けられていて、ここが音楽室だと気付く。
相沢くんの手にはかじりかけのコッペパン、机には飲みかけの野菜ジュース…それだけで足りるのだろうか。
「ふふ、結城くんのお弁当でかい」
「これでも減らしてるんだよ、部活行くのやめて運動量も減ったから」
弁当の蓋を開けて、いただきますと小さく呟いてからご飯を頬張ると、空腹を思い出したように胃が小さく鳴った。
「相沢くんいつもここで食べてるの?」
「うん、いつも空いてて静かだし、ゆっくりできるから」
はむ、とパンをかじりながらそう言った。やっぱり相沢くんの近くには穏やかな空気が流れていて居心地がいい。お互いに特別なにかを話すでもなく、ご飯を食べる。相沢くんがパンを頬張る姿が小動物のようで、市販のよく見かけるパンなのに美味しそうに見えてくる。人の食事まで目にとめて、俺は空腹でおかしくなったのだろうか。
「パン、食べる? ピーナツクリームだけど」
「あ、俺、そんなに見てた?」
「ふふ、うん、すごく」
「俺の弁当いつも米だからたまにはパンもいいかな、なんて思っただけ」
「僕には市販のパンなんかより、結城くんのお弁当のほうがよっぽど美味しそうに見えるけどね?」
相沢くんはおかしそうに笑いながらパンを一口分ちぎって、おずおずと俺の方に持ってくる。そして――
「……〝食べて〟」
周りの雑音が一瞬にして静かになり、相沢くんの一言が脳に直接響くようにまっすぐ伝わってきて、俺の意識は相沢くんに集中する。ためらうこともなく吸い寄せられるように相沢くんの手からパンを食べた。なんの変哲もない市販のピーナツクリームコッペパン。そのクリームの甘さが舌に広がっていく。
「…いい子だね」
「…ん…」
相沢くんの右手が俺の左頬をするっと撫でた。返事なのかよく分からない声が漏れる。高揚感、安堵感、充足感…一気に押し寄せる心地よさ。心臓がトクトクと脈打ち血液が全身を巡って、心が満たされていく感覚。広い湯船に浸かって一息つくような開放感。その心地よさに浸りながらもっともっとと欲が沸いて貪りたくてうずうずする。どこか冷静な頭では、俺コッペパンそんなに好きだったっけ、と疑問が浮かぶ。
ふと相沢くんと目が合う。さきほどのふわふわと笑っていた相沢くんとは違った、とろけて高揚しているようなうっとりした表情。視線は熱を持って俺を捉えていて、その色っぽさにドキッとしてしまう。
「…ん、これ、なに?」
先に言葉を発したのは俺の方だった。胸の内側から溢れ出る安心感に溺れそうになりながら、やっと声を出す。
「コマンド使ったんだ、軽いやつだけど。嫌だった?」
「全然嫌じゃない、すごい、気持ちいい、っていうかなんというか…」
いやらしい意味を含んでいないはずなのに、気持ちいいという表現に少し抵抗を感じ口ごもる。先ほどから押し寄せる高揚感の波は少しずつ落ち着いてきた。
「ってか、コマンドって」
「うん…その、僕、Domなんだ」
相沢くんが説明してくれたのは、DomはSubに対して〝コマンド〟という指示を出すことができ、Subがそれに従うことでお互いの主従関係につきたいという本能的欲求を満たすことができる。その一連の行為を〝プレイ〟と呼ぶ。DomもSubも、定期的なプレイをしないと自律神経の乱れや不調がでてしまい、日常生活に支障をきたしてしまうのだ。
「…って、中学で習わなかった?」
「あー、そうかも。俺関係ないと思ってすっかり忘れてた」
おそらく診断時に医者からも同じような説明をされただろうけど、完全に聞き流していた。
「ただ、結城くんが不快だったり、固定のパートナーがいるんだったらもう絶対しないから」
勝手にごめんね、と小さく付け足して、相沢くんは目を伏せてうなだれてしまった。ちょっとだけ肩が震えているようにも見える。俺はそのコマンドってやつでなんとも言えない満たされた気持ちになって、今なら全速力で十キロマラソンを走り切れそうなくらい心と体が軽い。
「本当に嫌じゃなかったし、こういうの初めてだった。むしろ、その、ありがとう?」
感謝することが正しいのかは分からないけど、治ることのないと思っていた不調から助けてもらったお礼を伝えたいと思った。
「またさ、ここで相沢くんと昼飯食べたい。迷惑じゃなければ」
相沢くんはハッとしたように顔を上げて、揺れる瞳で俺を捉えたあとに、またいつものようにふわっと笑う。
「こちらこそ、迷惑じゃなければ」
ああ、よかった、と相沢くんの笑顔を見て安心する。お昼すぎの日光が降り注ぐ静かな音楽室。この空間だけ切り取って、時間が止まってくれたらいいのに…と思うくらい、平和で穏やかな時間だった。
穏やかな時間の終わりを告げる予鈴が鳴った。あと10分で午後の授業が始まってしまう。名残惜しさもあったが教室に戻ろうと席を立つと、相沢くんは午後の授業を早退すると言った。足元には通学用の荷物が置いてあったので、もしかしたら表面上は元気そうでも体調がすぐれず早く帰りたかったのかもしれない、無理して付き合わせちゃったかなと申し訳なく思った。また明日ね、と俺たちはそこで別れた。
「結城、なにニヤニヤしてんだ、エロい夢でも見たのか」
教室に戻ると安藤がすぐに声を掛けてきて二の腕のあたりをポンと叩かれた。そこで自分の顔がゆるんでいることに気付く。
「…ま、最高の夢だったかな」
ニヤっと笑ってみせると、安藤は「俺もエッチな夢見てえ~」となにやら勝手に解釈していた。安藤と杉山に、あえて相沢くんとのことを言おうとは思わなかった。俺の中で特別なこととしてとっておきたかったし、なにより相沢くんのダイナミクスをどうこう言いふらすのもよくないだろうと思ったからだ。実は、最初に安藤たちにダイナミクスを言いふらされたことを少しだけ根に持っている。今さら謝ってほしいなどは思っていないものの、俺以外の人がダイナミクスの公言や噂話で嫌な思いをするのはみていられない。ましてそれが相沢くんのことならば、なおさら。
「いや、でもマジでさ、結城の顔色めっちゃいいじゃん」
安藤と一緒に昼休みを過ごしていたであろう杉山も、スマホから視線をはずして俺を見上げてそう言った。杉山は普段からクールなようでいて実は心配してくれていたみたいだ。
「まじで調子もどったんならさ、久々に放課後どっか行かねえ?最近全然遊んでないよな」
「お、いいね、俺マック食いたい」
安藤の提案に俺と杉山は即答で乗っかる。また放課後な、と約束を交わして自席に戻った。友達と気ままに遊びに行くのはいつぶりだろうか。午後の授業、先生の声がいつもよりはっきりと聞きとれたけど、視線は黒板ではなく一番前の右端の席に吸い寄られる。空席になっているそこに相沢くんの姿を想像し、明日もお昼に会いたいなとすでにソワソワしていたのだった。
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