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前編

 二十世紀初頭の夏のはじめに彼らは出会った。  赤ずきん、と呼ばれる青年がいた。例のドイツの童話から、幼い面立ちの可愛らしい若者を想像してもそれは間違いである。この「赤ずきん」は長身痩躯、二十七歳の青年で、騎士が持つサーベルのような鋭い目に凛々しい相貌、全身から威圧感を放つ美丈夫だった。  そんな人目を惹く風貌でありながら、身を飾ることには無頓着らしい。いつも茶色の、ごく良識的なおとなしいジャケットを着て、そろいのズボンを身につけ、よく磨いた黒い革靴を履いている。タイはもちろん黒無地。いかにも目立たない、紳士の格好と言ってよかった。ただし、茶色いその頭に中折れ帽は見当たらない。彼は帽子があるべきはずの場所に真紅のフードをかぶっている。さらに、胸元に赤いリボンを結んでいた。これが彼の服装の中の、唯一の飾りだった。  どうかしている、と誰もが思うかもしれないが、赤ずきんは大まじめで正気だった。  この青年は本名をエドワード・ウィルクスという。しかし、みんなは彼をただ赤ずきんと呼んだ。イギリス北部にある、とあるさびれた村の裏手に黒々と広がる名もない森の中を、赤ずきんはほとんど毎日往復することを日課としていた。荷物はひとつだけ、片手にバスケットを持ち、青い市松模様の布をその上にかぶせている。彼は焦げ茶色の目を鋭く光らせながら、いつも隙がなかった。  風が木の葉を鳴らし、暗い森の木々のあいだに光が射しこむ。光は踊り、緑と土のにおいが地面から巻きあがって、小枝を踏む音が高く響く。赤ずきんは幾重にも影が折り重なり、暗がりも踊る鬱蒼とした森の中を、まっすぐ前を向いて一心に歩いて行く。  これはそんな赤ずきんと、呪われた狼の物語だ。 ○  その日、赤ずきんはいつものルートを変更して、森の東側から北を目指していた。目的地はいつも同じでルートも決まっているが、この日の指示はそうではなかった。いつものルートで渡っている木の橋が崩れたためである。慣れた道を離れるのは心細く、危険も予測される。しかし、前に一度通ったことのある道ではある。赤ずきん、もといウィルクスはコンパスと、目印に小枝に結ばれた赤いリボンを頼りに、森を北へ向かって歩いていった。かろうじて道はあるものの舗装されているわけではなく、けもの道に近い。それでも生い茂る木をよけながら、彼はずんずん歩いていく。午後三時過ぎだが森の中はひんやりし、静かだった。  突然視界が拓け、ウィルクスは息を飲んだ。いつのまにか木々のない平地に出ていた。ならされた土地の中央に黒い煉瓦造りの小さな一軒家と、灰色の石でできた井戸が見える。彼はその光景を驚きの目でじっと見つめた。家には赤い瓦屋根がふかれ、そのてっぺんでは青さびの浮いた風見鶏が、ぎしぎし軋みながらのんびりと回っている。茶色い煉瓦のポーチはところどころ苔むして、石が割れたりヒビが入ったりしていた。奥に引っ込んだ場所にある茶色い木の扉はニスが剥げて、とても見苦しい色になっている。腐った木の臭いが漂ってきそうだった。  呆然と家に視線をやりながらも、ウィルクスは歩を進めた。前に通ったときはまったく気がつかなかったのに……。家の裏手からはまた森が続いている。昼の日差しが射しこみ、茫洋と照らされた家はおぞましい廃墟のように見えた。彼は家をとり憑かれたように見つめながら歩いた。  そのときふいに足元が崩れるような衝撃を覚え、彼は前のめりにつんのめった。そこに地面はなく、ウィルクスは派手な音を立てながら穴の中に身を投げだしてしまった。  しまった、と思った瞬間、胃が裏返るような不快感を覚え、足元から穴の底に落ちた。もうもうと土煙がたち、嫌な音がして、足首に激痛が走る。ウィルクスは左足首をかばうように手をやって、土煙がおさまるまで目をつぶっていた。咳をしながら目を開けると視界はすでにクリアで、頭上を見上げると切り取られた青い空に、羊のような雲が浮かんでいた。  ウィルクスはとっさにそばに転がっているバスケットを拾い上げた。穴の底に飛んでいた中身を拾って確かめ、まずは安堵する。しかし、足首に激痛が走って自分の状況を思いだした。彼はなんとか立ちあがろうとしてみたが、左足を地面につけると鋭い痛みが走る。さらに、落ちたときにとっさに手をついたのが祟ったらしく、右手首も痛かった。彼は穴の中にしゃがみこみ、途方に暮れて空を見上げた。  そこに、黒い影がぬっとあらわれた。ウィルクスは身をこわばらせる。逆光になっていてよく見えないが、どうやら人間の影らしい。もしかして、「やつら」のうちの一人だろうか? 緊張で口の中がからからに乾きながら、赤ずきんはその人影を見上げた。 「大丈夫ですか?」と影は言った。  低い、落ち着いた、優しい声だった。正体がわからないのに、その声は人の心に鎮静剤のように作用する。そっと寄り添って、不安な心に浸透してくる声だった。ウィルクスは目を細め、上を向いたまま「落ちてしまって」と答えた。眩しくて目が痛くなる。手をひさしにして目の上にあてがった。依然、警戒はしていたが、しかし相手に敵意がないのは明らかなようだった。 「昔ここに住んでいた猟師が仕掛けたんですよ」と影は言った。「あがってこられますか?」  左手首をついて右足を踏みしめ体を起こすが、左足を地面についたとたんに裂けるような痛みが走った。無事な左手を穴の壁につくと、乾いた土が崩れ落ちてくる。まずいと思ったウィルクスは手を離し、左足の爪先を地面につけたまま、注意深く背筋を伸ばした。百八十センチほど上背がある彼でも、穴のふちは頭より少し上にあった。背伸びはできず、やや背を丸めて上を見る。人影はいつのまにかいなくなっていた。  と、そのとき穴の縁から手がにゅっと伸びてきた。ウィルクスの目に大きな手が映る。男の手だった。厚みのある手の甲に浮かぶ血管と、手首の小指側にかすかに浮きあがる骨の丸みと、人差し指の先がわずかにささくれて、細かい傷がついているのがわかる。あとで知ったが、その傷はバラの棘でできたものだった。 「握ってください」と影は言った。肘まで捲りあげられたシャツが白く眩しい。そして筋肉質の腕は、赤ずきんにはなお眩しく見えた。  ウィルクスは左手を伸ばして男の右手を握った。影の手は熱く、その手の大きさはウィルクスの手をすっぽり包みこむようだった。突然強い力で引っ張られ、ウィルクスは右足のかかとを浮かせる。 「そっちの手も」と言われ、彼は右手を伸ばしたが、握られると痛みが走った。思わずうめくと、影は身を乗りだして、ウィルクスの手首より上の、肘の下のほうをつかんだ。  影の男は力が強いのだということが、すぐにわかった。彼は落ち着いて的確にウィルクスの体をつかみ、青年もそれに合わせるように自分の体と体重をあずけ、土の壁を蹴った。二人はなかなか息ぴったりだった。十分くらいそうして頑張ると、最後は魔術のように、するりと地上に抜け出せた。  最後は勢いがついていた。ウィルクスは影の男に引っぱられるまま地上に出て、その勢いのまま男を押し倒すように、彼の上へ覆いかぶさっていた。男を踏み潰さないようにとっさに両手を地面につくが、痛みが走り、ウィルクスは顔を歪める。そのとき、組み伏せた男の薄青い瞳と目があった。  心臓が跳ねて、赤ずきんは慌てて跳ね起きる。男はゆっくり上体を起こした。彼の腿の上に自分が跨っていることに気がついて、ウィルクスは素早く、馬の鞍から降りるように体を離した。 「そこ」と男は穴のそばを指さした。「目印があるから、今度は気をつけて」  よく見ると、穴から一メートルほど手前の場所に、短い木の枝を二本縛ってつくった銀色の十字架が突き立っていた。ウィルクスはそれをしばし見つめたあと、まだ地面に脚を投げだしている男のほうを向いた。また目が合う。薄青い瞳を見て、ウィルクスはビスクドールの目だと思った。ただし、男本人はビスクドールとはなんの共通点もなかった。  逞しい体つきをした、大人の男だった。ウィルクスがただ「大人の男」と思い、年齢を推測できなかったのは、その豊かな黒髪が半ば白髪になっているからだった。だから髪は濃い灰色と言ってよかった。しかし眉は黒々として、青い瞳はそのためによけいに透きとおって見える。  そののち、ウィルクスは恋心のために彼の顔を直視できなくなった。だが、このときはよく見ることができた。  このとき彼を唖然とさせ、視線を釘付けにさせたのは、年上の男がハンサムだからではなかった。  男の頭にはひくひく動く灰色の、獣の耳が二つついていた。さらにウィルクスが見ると、脚を投げだして座っている男の腰の下には、地面を箒で掃くように動く灰色の尻尾がついていた。尻尾はぱさぱさ音を立てて左右に揺れている。ウィルクスはあっけにとられて凝視した。 「ああ、気にしないで」視線の先に気がついて、男は明るく言った。「狼の耳と尻尾が生えているだけだから」  だけだから? 四角四面にまじめな青年は困惑した。からかわれているのだろうか、と思った。しかし、目の前で動く獣の尻尾はどう見ても血の通った「なまもの」だ。機械仕掛けにはとても見えないなめらかな動き、質感だった。  触れてはいけないことかもしれない、と青年は思った。そこで(気にしなくてもいいと言われたので)、獣の耳と尾からむりやり視線を離し、礼儀正しくお礼を言った。 「助けてくださり、ありがとうございます」  男はあぐらを組んでうなずくと、「怪我はありませんか?」と穏やかに尋ねた。その優しい口調がウィルクスの胸にじんと沁みた。 「右手と左足をひねったかもしれません」正直に言った。 「じゃあ、うちに寄って、手当てしたほうがいいでしょう」  そう言って男は腰をあげた。彼はそばに落ちていたものを十字架のそばに置いた。ブリキのじょうろだった。ウィルクスが見ると朽ちかけた家の裏手に、それに似合わぬ整った花壇が見えた。白いデイジーと白いバラが可憐に咲き誇っている。男はじっとウィルクスを見つめた。年上の男の彫りの深い顔には人柄の穏和さがあらわれている。おおらかな、昔の貴族みたいだ、と青年は思った。大勢の人間たちに真心をもってかしずかれ、のびのび育った男の飾らない優雅さがにじみでている。狼の耳がぴくぴく揺れた。ウィルクスは目を逸らす。突然、男は彼に背を向けた。 「乗って」  かがみながらそう言われ、ウィルクスは戸惑う。 「さあ」  振り向いてもう一度促され、ウィルクスは慌てて足元に転がったバスケットに腕を通した。そろそろと背によりかかると、狼男はゆっくり体を起こした。直立すると、男がとても長身であることがわかる。ウィルクスよりもさらに上背があり、広い背中に寄りかかるとかすかに香水のにおいがした。それとも、それは庭のバラの香りだったのかもしれない。 「じゃあ、しっかりつかまっててくださいね」  男はそう言ってウィルクスを背負ったまま、軽々と色あせた家のほうに歩いていった。 ○  家の中に入って、ウィルクスは二つのことを知った。  一つ目。家は外から見たら今にも朽ちてしまいそうで、もう使われていない家(正直なところ、かつて凶行があった家に見えた)のようでありながら、中は意外にも快適だった。  こじんまりしていて、電気はさすがに引かれていないが、居間の窓辺にはヴァイオリンを模したガラスのランプが置かれ、あたたかみのある光を放っていた。東側の壁にある縦に長い二つの窓には濃いグリーンのカーテンが掛けられ、それが今は引きあけられて、明かりとひんやりした風をとりこんでいる。日差しは窓辺に置かれた猫脚の小さく古い引出しつきテーブルを照らし、その上に置かれた木の救急箱と、包帯や軟膏やピンセットを照らしている。テーブルの上に置かれたホーローの白い洗面器には水がたたえられていたが、そこにも光が反射し、その輝きは天井に映った。  男はウィルクスを窓際の安楽椅子に座らせると、自分もその向かいに腰を下ろした。左足だけ靴下と靴を脱いだ青年の脚を自分の膝の上に置いて、彼はとても丁寧に、手際よく手当てをした。  初対面なのに、悪い。ウィルクスはそう思った。しかし、「自分でします」と言っても、男は「うちの敷地内の事故だから」と言って、頑として譲らなかった。それが優しさだと、ウィルクスはもうすでに気がついている。男の身が引き締まった右腿に左足を乗せて、ウィルクスは視線をうろうろさせていた。真剣な表情で手当てをしている男の表情が目に入りそうになると、彼は意図的に視線を逸らした。  時間も気になる。ウィルクスはまだそれを言えなかった。しかし、自分には職務がある。望みはないだろうと思いながらも、遠慮がちに電話がないか尋ねてみるも、男はきっぱり首を横に振った。  得体の知れないひんやりした軟膏を足首に塗ってもらうと、熱が引き、痛みが少し和らいだ気がする。男は包帯やガーゼでウィルクスの足首を固定しながら、ちらりと薄青い瞳を上向けた。 「急いでいますか?」  ためらったのは一瞬で、ウィルクスはすぐにうなずいた。 「はい。急用で……」 「きみは『赤ずきん』?」  ウィルクスははっとして、背中に垂れているフードを引き上げた。きちんと頭にかぶり、「そうです」と答える。それからまたフードを脱いだ。男はにこっと笑った。狼の耳がぴくぴく動き、尻尾は愉しそうに左右に揺れた。ウィルクスはその単調な動きに見入っていたが、急に顔つきを引き締めて尋ねた。 「わたしのことをご存知なんですか?」 「知ってるよ。このへんでは有名だ。姿を見たのはこれが初めてだけど……きみはその、なんというか、赤ずきんにふさわしくとてもかっこいいね」  凛々しい目をぱちぱちさせてウィルクスは男を見た。目が合うとウィルクスはとっさに逸らした。からかわれていると思ったが、男の顔は優しくて真剣なままだった。  狼男は青年の脚を自分の腿に置いたまま、彼のやや腫れている右手をそっと取る。チェスのナイトが描かれた黒いカフスを外し、袖口を折り返して、骨ばった手首に軟膏を塗りつける。ウィルクスはそのあいだ、ぴんと立った獣の耳を見ていた。 「赤ずきんということは、危険な仕事だな」  うなずきかけて、ウィルクスは背筋を伸ばした。なぜかこんなにも、この見知らぬ不思議な男に心を許している自分に愕然とした。赤ずきんは気を引き締め、改めて目の前の相手を観察した。そして、なにもわからぬあまり匙を投げた。  ウィルクスは地を這い闇に跳躍するおぞましい化け物や、恨みでどす黒くなった幽霊が出てくる小説を読むことが大好きだったし、祖国が幽霊と妖精の国であることもわかっている(そして空想的な本が好きな彼は、そのことを少しうれしく思っていた)。それでも、獣の耳と尾を生やした男がとても親切だということは、常識では理解できなかった。 「きみを送るよ」と手当てを続けながら男が言った。ウィルクスは首を横に振った。右手首に触れる男の手は、がっしりしていてあたたかかった。赤ずきんは堅苦しく口を開いた。 「それは悪いです」 「しかし、きみはその脚じゃ進めないし、帰れないだろう。(ウィルクスが困った顔で、しかし反論できないのを狼男は見てとった)ぼくがどこか、きみが行きたいところへ送っていく。それからそこにいる人に助けてもらえばいい。――ああ、大丈夫だよ。送り狼ではないから」  飄々と口にされたどぎつい洒落にウィルクスは目を伏せる。男はそれに気がつかない。手際よく包帯を巻きながら気楽に言った。 「森を抜けるにはここからまだ二十分はかかる。送っていくよ。それがいいんじゃないかな?」  はい、とウィルクスはつぶやいた。  彼が知ったこと、二つ目。  男は名をハイドと言った。ファースト・ネームのほうは教えてくれなかった。  この時点で、ハイドは次のことを知らない。  ウィルクスはバイセクシャルだった。それはとても危険なことだった。男が男と関係を結ぶことは犯罪行為だったし、それなのに彼は警察官だった。それでも、ウィルクスは自分ではどうしようもなく男に惹かれる心と肉体をもっていた。 「さあ、できたよ」ハイドは折り返した袖を直しながら低い声でささやき、微笑んだ。「急いで行こう」  そう言って彼は後ろを向き、ウィルクスにつかまるように促した。青年はぼんやり目の前の背中を見ていた。グレーのウェストコートをまとった広い背中は、彼の目に輝いて見えた。床に置いたバスケットに腕を通し、椅子に腰を下ろした状態でゆっくり背中に覆いかぶさると、ハイドが手を伸ばして彼の脚を抱えた。ウィルクスが背中に体重をあずけるとハイドはそっと立ちあがった。青年は肩につかまり、目を伏せてうつむいた。心臓がどくどく鳴った。バスケットは左腕でぶらぶら揺れ、ウィルクスはちょっと手を伸ばして赤いフードをしっかりかぶった。 「じゃあ、行くよ。道を教えてくれ。体は痛くない?」  はい、とウィルクスはうなずいた。ハイドはしっかりした大股で歩きはじめた。開けっ放しの窓から風が吹いてきて、窓辺の色あせたソファに置かれた本のページを繰って過ぎた。 ○  狼男の助けを借りてその日も無事に職務を終えたウィルクスは、それから五日後にふたたびハイドの家を訪れた。  曇りの日で、空気はどんよりしていた。森の中は湿っぽく、土と、なにか腐ったもののにおいがした。ウィルクスはやや脚をひきずりながら、それでもほとんどよくなった足取りで森の中を歩いた。この日はフードをかぶらず、代わりに薄茶色の中折れ帽をかぶっていた。バスケットはいつもどおり持っているが、青い市松模様の布は掛かっていない。  彼は木の枝をよけながら慎重に道を選び、東のルートをとり北に向かってずんずん歩いていった。もう見つからないかもしれないという不安があったが、杞憂だった。黒い煉瓦づくりの家は、やはり木がそこだけ根こそぎ焼き尽くされたような、ぽっかり空いた場所に建っていた。ウィルクスは慎重に銀色の十字架を避け(穴は半ば塞がっていた)、家に近づきながら裏手のほうをちらりと見た。  ハイドはこちらに背中を向けて、じょうろで花に水をやっているところだった。前と同じようにウェストコート姿で、真っ白なシャツの袖を肘のあたりまで折り返している。張りのある腕が見え、尖った耳と、おおらかに揺れる尻尾が見えた。 「ハイドさん」とウィルクスは声を掛けた。  男は振り向いて嬉しそうな顔になった。ウィルクスに向かって手を振り、じょうろをもう一度左右に振ると、空っぽになったそれを手にしたまま彼のほうにてくてく歩いてきた。 「こんにちは、ウィルクス君。足と手はもういいのか?」 「ええ、ほとんどよくなりました。ありがとうございます。助けていただいたおかげで、なんとか仕事もやり遂げられました。あの次の日から、『赤ずきん』は同僚が代理で勤めてくれたんです。明日から、おれがまた『赤ずきん』に戻ります」  ハイドはうなずいて、「よかった」と微笑んだ。耳と尻尾がそよ風のように優しく揺れた。ウィルクスは唇を噛みしめる。こうなるから嫌なんだと思った。男を好きになるなら、男に生まれてこなければよかった。うつむいている青年を見てハイドは目を丸くする。彼は「どうしたんだ?」と驚いたようにささやいた。しかしどんな答えが返ってきても受け入れるかのようなおおらかさが、そこにはあった。  ウィルクスは顔を上げ、にこっと笑った。 「あなたにすっかりお世話になってしまいました。お礼です」  バスケットを差しだすと、ウィルクスはそこからワインのボトルを取りだした。きれいにラベルが貼られた深みのある緑色のボトルを見て、ハイドは「いいのに」と笑った。受けとってくださいとウィルクスが強く言って、ハイドはボトルを受けとった。曇り空の下に、ワインボトルはまるで海の底に沈んだガラスのように光っていた。 「いっしょに飲まないか? きみが嫌いじゃなければ」 「喜んで」  ウィルクスは笑ってうなずいた。ハイドは瓶の首を持ち、じょうろを玄関の隅に置いて、ウィルクスを手招きした。  その日彼は初めて、ハイドがなぜ狼の耳と尻尾を生やしているのか、その理由を知った。

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