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後編
ワインといっしょに差しだされた硬いチョコレートをつまみに、二人は愉しく飲んだ。厳密に言えば愉しんでいたのはハイドが主で、ウィルクスは明るく振る舞うふりをしていたが、刻々と高鳴っていく動悸にだんだん気分が塞ぎこんできていた。
ハイドは身振りで示しながら、熱っぽく科学実験の基礎をウィルクスに教え込もうとしていたが、ふいに口をつぐんだ。しばらくあたりがしんとして、ウィルクスは不安になる。自分の心が流れ出ていたのだろうかと恐怖を覚えた。ハイドは黙って腰をあげ、窓辺のカーテンを少し引き開けた。風が入ってきて、チョコレートの甘い香りが漂った。
「もしかして気になっているかもしれないけれど」ハイドは椅子に腰を下ろすと、ウィルクスの目を見て言った。「ぼくの耳と尾について」
ウィルクスは背筋を伸ばした。たしかに気になってはいる。でも触れてはいけないことかと思っていたし、獣の耳と尾があろうと、なかろうと、自分がハイドに抱く気持ちに大差がないような気がした。それなら知っても知らなくても同じだ。しかし、ウィルクスにも好奇心はある。
薄いガラスのグラスからワインを一口飲んだあと、ハイドは言った。
「きみが『高貴な方』の安否を確認しに行くために赤いずきんをかぶっているように、ぼくのこのわけのわからない耳と尾にもそれなりの意味があるんだ」
それから、狼男は次のように語った。
「ぼくはロンドンで一介の私立探偵をしている。いや、していた、かな(ストランド街に事務所があるんだ、今は空き家になっているけれど)。とにかくぼくは探偵で、ときどき警察とも協力していた。きみはロンドン警視庁の刑事だね。それでぼくのことを知らないのは(自慢ではないが)、ぼくが呪いをかけられてここに隠棲して以降に、刑事になったということだろう。
そう、ぼくは呪いを掛けられているんだ、ある殺人者によって。彼は悪しき呪術に長けた男で、アレイスター・クロウリーより邪悪だった。生きた悪魔を丸飲みした男のように、腹の底まで、魂の裏側まで真っ黒なんだ。その男と縁あって対決してね。ぼくは彼を追い詰め、やつは自殺した。自分は転生に賭けると言ってね。そのとき、ぼくに呪いを掛けたんだ」
そう言ってハイドは自分の獣の耳をいじった。ウィルクスはまじまじと、灰色の毛が生い茂ってふさふさとした、尖った耳を見つめた。それは物音に反応してぴくぴく動き、なんだかとても健気に見えた。
赤ずきんは遠慮したが、しかしどうしてもこう言わざるをえなかった。
「呪いというものは、もっと残酷なものだと思っていましたが……」
「そうなんだよ」ハイドはうなずいた。
「その男はとても邪悪な人間だったが、ただ、ひどく間が抜けていたんだ。おぞましい夢は見るのに、想像力がなくて、自分で生み出すとなればだめだった。彼の呪いは『これ』だった。……たしかに、このせいでぼくはロンドンにいられなくなった。きみはあまりそうは思わないかもしれないが、ぼくの姿はやっぱり白昼の、文明のただ中で見ると恐ろしいらしいんだ。女性たちは真っ青になるし、見世物小屋の檻にぶち込まれそうになった。だから、呪いがとけるまで向こうにはいられない。それでこっちに引っ込んでるというわけだ。まあ、それなりに暮らしてはいるけれども」
そうだろうな、とウィルクスは思った。裏庭の花壇や、自分たちがいるこじんまりしたあたたかい雰囲気の居間のことを考える。この人、けっこう愉しく暮らしてるぞ。
「信じてくれなくてもかまわないから話したけれど、まあ、そういうことなんだ」
ハイドは気楽に言ってワインを飲んだ。信じるかと問われれば、おれは信じる、とウィルクスは思った。自分が男を好きになることに比べれば、はるかに信じやすい事柄だった。
「信じますよ」
ウィルクスがそう言うと、ハイドはにっこり笑った。目の下の皺が柔らかく歪み、狼のように彫りの深い顔立ちはとてもうれしそうだった。ウィルクスは目を伏せ、治りかけたほうの手を握りしめた。かすかな痛みが走り、心が少し落ち着いた。窓際のテーブルに手を伸ばし、グラスを手に取ると一口飲んだ。赤い液体をくるくる回しながら目を細め、尋ねる。
「ちなみに、一生このままなんですか? 呪いを解くことはできないんですか?」
「一つだけ方法がある」ハイドは厳かに口を開いた。
「ぼくを愛している人間とのキス。それで呪いが解ける」彼は片手を挙げて、牧師が説教するように言った。
「ただし、条件がある。『その愛は不屈で、また危険を冒していること』。剣を手に、茨を乗り越えてくる姫にしか呪いは解けない」
「不屈はわかりますが、危険を冒していること、というのは? 命を賭けなければいけないということですか? あるいは、不倫とか?」
「神の摂理と法に背く愛、と彼は言っていたな」ハイドは薄青い目でやや遠くを見た。
「つまり、同性愛だ。不屈の精神でぼくに愛を向ける男のキスによってしか呪いは解けない。……きみは仕事柄、よく知っているね。同性愛がどれだけ不名誉で危険なことなのか。
あの邪悪な男は阿呆だが、彼なりに意地は悪かった。だからそんなひねくれた条件をつけたんだよ。だから、ぼくがこうして隠棲しているのも仕方のないことだとわかってもらえると思う。四十年生きてきたけれど、男に愛された経験はそうそうない」
とても気楽にしゃべってハイドは口を閉じた。ウィルクスは自分がどんどん青ざめていく気がして、怯えた。指先から血の気が引き、手と脇にじっとりと冷たい汗が滲んだ。
「でも、いつか……」ウィルクスは低い声でつぶやいた。「そんな人が、現れることも……」
あるんじゃないですかと言って、彼は言葉を続けられなくなった。「あなたはハンサムで、優しくて、魅力的だ」、本当はそう言うつもりだった。ハイドのように軽く言えると思いこんでいたが、それができるほど、ウィルクスは自分自身と折りあえていなかった。彼は同性を愛してしまう自分が許せなかった。いつも激しく嫌悪していた。代わりに黙って、ハイドの黒いタイの結び目を見ていた。
「自分を愛してくれる人を見つけるのは、難しいことだとは思わないか」
ハイドはウィルクスの顔を見て、どこか優しく言った。
「きみはとてもハンサムだし、凛々しくて、かっこいい。まじめで礼儀正しくて、いい子だ。だからきみを好きになる女性は多いと思うが……」
「そんなことないですよ」
ウィルクスは笑ってそう言って、チョコレートの山に手を伸ばそうとした。そしてなぜかその手を手前で下ろした。
「でもきみみたいな魅力的な青年だって、きっと難しいよ。きみを愛する男にぶつかることは」ハイドは言った。
「いつも、ずっと不思議なんだ。あの邪悪な男が、呪いを解く方法に愛を指定したことがとても人間臭く思えてね。運命の出会いを待てということか? おとぎ話ではよくある。運命の出会いや愛がどれだけ尊いか、みんなに言い聞かせるんだ。でもぼくは運命の出会いを信じていない。きみは?」
急に話を振られて、ウィルクスは無表情で答えた。
「運命の出会いにはいろいろあります。多くの人はその言葉が持つドラマチックな響きに感化されて、そんな出会いは素晴らしいものだと思っている。実際には、運命の相手と巡り会った五年後にその相手から首を絞められて、さらに運命が変わるなんてことはよくある。警官だから知ってるんです」
「きみのいう通りだ」ハイドはうなずいた。
「世間の人間は本当に本気でそんなことを信じているのか? 運命の出会いが人を救うなんて。理解できないな」
「首を絞められて救われる人間もいますよ。ごくたまには」
ウィルクスのつぶやきを聞いてハイドは微笑んだ。
「ぼくも何人かの女性と付き合ったことはある。別れた妻もいた。彼女たちを前にして、ぼくの内側に起こったことで共通していると思ったのは、高揚。これで幸せになれるという幻想、親しみ、性欲。そんなものが愛なら、たいしたものじゃない」
彼は組んだ脚の爪先をぶらぶらさせると、薄青い瞳を細めて微笑んだ。
「わけがわからなくて移り変わりやすく、くだらない愛よりも、性欲だけの性交のほうが心が落ち着く。ぼくはそういう人間だとあの魔術師に言ったが、やつは虫の息で聞いていなかった。自分の思いつきに恍惚となって、ぼくに呪いの文句をつぶやいたよ。その時点でぼくは何者にも呪われていなかったと、彼は気がつかなかった」
そう言ってハイドはワインを飲んだ。狼の耳がぴくぴく動き、椅子の座面と背もたれのあいだから後ろに飛び出た尻尾がゆっくり左右に揺れていた。
この人はけだものなんだとウィルクスは思った。目の前の男は彼の目に、言葉が通じあわないけだものに見えた。それなのに、薄青い瞳の輝きは眩しかった。真心を包み隠さず表す窓のようだった。
愛について、ウィルクスは考えたことがなかった。予期しない激しさで心と肉体が惹かれるだけで、その正体を見極めることができなかった。ただ、いつか心が通じ合う相手を求めていた。寄り添って丸くなって眠ることを夢見ていた。帰る場所を求め、性欲を満たしてくれる相手を求めていた。
そんな彼の目に、ハイドはとても異質に見えた。自分とはまったく違う人だとウィルクスは思った。こんなにも優しい人なのに、そんなにも醒めていることが恐ろしくて、急に激しく苛立った。
「ぼくを愛してくれる男のキスを待ち続けるより、一人で静かに暮らしていようと思ってね」
屈託のない表情でハイドは笑った。
「探偵の仕事は好きだし、また仕事がしたいとも思う。でも、仕方ないね。だからきみがヤードの刑事だと知ったときはうれしかった。懐かしくて。またよかったら、会いに来てくれないか?」
また来ますよとウィルクスは言った。この人もおれの求めている人じゃなかった。そう思った。そう思うと、ハイドのすべてが憎くなった。おれだって、あなたみたいになりたかったと思った。
目の前のけだものが微笑むのを見ながら、ウィルクスは唇に微笑を浮かべ、ワインを飲むことしかできなかった。
彼はそれから十五分後にハイドの家をあとにした。
◯
ウィルクスの仕事に触れておくと、彼はロンドン警視庁の刑事で、ある特殊な職務を負ってロンドン北部のこの村を訪れていた。
彼が毎日従事している仕事は一言で言うなら「連絡係」だった。彼は森を抜けた外れにある、小さな、しかし要塞のような古城を訪れる。そこに監禁されたある人間の安否を確認し、そこを根城にする男たちからの伝言を受けとって、引き返して今度は自分の上官たちの意向を相手方に伝える。とても危険で、注意力と忍耐力が必要な仕事だった。国の役人たちは震えていたし、軍の人間はいきり立っていた。それでも監禁されている人間の身分があまりにも高貴で、あまりにも重要な人物だったため、荒っぽいことは絶対にできなかった。
古城の男たちは日に日に殺気を増していった。囚人は真っ青ながら、ポーカーフェイスで救出を待っている。ウィルクスは神経を尖らせていた。彼自身は交渉役ではなかった。ただ、その日の昼に上官を通して言われたことを相手方に伝え、返答をもらってくるだけだった。交渉は遅々として進まず、怒りから捕らえられた人間が私刑に遭いそうな場面が幾度かあった。そのたびウィルクスは割って入り、火種を自分のほうに移そうとした。
というわけで、ウィルクスはいつも気が立っていた。それでも自分に与えられた職務を果たそうという意欲に満ちていた。選ばれたことが嬉しく、絶対に失敗したくなかった。だから緊迫感と疲労のさなか、突然現れたハイドの穏やかな優しさに彼は惹かれた。そんな場合ではないからこそ、恋だと気づいて心が和んだ。血なまぐさい殺人現場の窓から見えた花壇の白いバラのように、その恋は異様で、この世のものとは思えないほど和やかだった。
帰路について五分も経たぬうちに、ウィルクスはバスケットを忘れてきたことを思いだした。帽子を脱ぎ、胸に当てて息を吐く。職務で必要なので、取りに戻らなければならない。バスケットの中にはいつも監禁されている人間への手紙と、犯人たちへの手紙、そして囚人を見捨てていないという証拠に、彼が望んだものをそこに入れて運んでいるのだ。
帽子を手に、ウィルクスは来た道を引き返しはじめた。茶色い短髪が灰色の光に触れて、沈んで見える。
いつもかぶっている赤いずきんは連絡係の印だった。「あなたたちを攻撃するつもりはないから、どうかわたしを攻撃しないでください」という印だった。
左後方から急に木々を掻き分ける鋭い音がして、ウィルクスは思わず飛びすさった。その瞬間、妙な力の掛け方をしてしまって、治りかけた左足首に激痛が走った。彼は思わずうめき、身をかがめようとしたところで突如後ろから羽交い絞めにされた。
腕はまるで太い木の幹のようで、首に回った手がウィルクスの喉仏を圧迫し、もう片手には背骨を折らんばかりに力が込められていた。頬に冷たい感触が走ったと思う間もなく、ウィルクスの頬は薄い折り畳みナイフの切っ先に裂かれて、ぱっくり口が開いていた。血が溢れだした。それは顎を伝って襟を汚し、背後から回された男の手の甲に落ちた。
ウィルクスが正面を見据えると、ナイフを握った男の緑の目と目が遭った。ナイフの切っ先がウィルクスの瞳に触れるほど近づき、また離れた。ウィルクスは羽交い絞めにされながら、ナイフを構えた男の後ろにももう一つ、影が揺らいでいるのを見た。
「おれは連絡役だ」
刑事は抑えた声で言ったが、羽交い絞めにしている腕はぴくりとも動かなかった。荒い息遣いが聞こえ、それは木々のざわめきと絡み合って、我慢できないほど神経を高ぶらせる。頬から流れ落ちる血のぬるさと臭いに、ウィルクスの顔は強張った。
「おれは連絡役だ」
もう一度低い声で言うと、重い蹴りが腹に叩きこまれた。ウィルクスは背を反らす。みぞおちに胃液があがってくる。なんとか喉でそれを飲み下して、刑事はふたたび相手を睨んだ。背の高い、金髪の若い男はがっしりした顎を強張らせて、笑みはまったく見せなかった。
「フードはどうした、赤ずきん」
ささやくような声にウィルクスは息を吸って歯を食いしばった。男の真ん中で分けた金髪のあいだで、白い額には青い血管がのたくっていた。緑の目の表情が読めず、刑事は睨み続けた。頭上で鳥が飛び立つ音がして、緑の葉が一枚、彼の頭上に落ちてきた。
緑の瞳を見返しながら、凍りついたような時間の中でウィルクスはふいに思いだしていた。
「『もういいわ、でもコンドームはつけてよね』、わたしはそう言ったんです」
強姦された女の供述が彼を暗闇へと投げ込んだ。自分が男であるにもかかわらずそんな仕打ちを思い描いたのは、ウィルクスがバイセクシャルであるから、そして男たちの肉体から放たれる暗い陽炎が「なんでもしそう」に見えてたまらなかったからだ。
予感は悪いほうへ、悪いほうへと転がった。
「訊いてもいいかな、赤ずきん」
男はかすかな、神経質な笑みを浮かべた。だがその笑みはウィルクスには嘲弄に見えた。無力感に手が震え、まぶたが震えた。
刑事はたった一人で五人の男の相手をするしかなかった。
○
ウィルクスがハイドのもとへやってきたのは、それから三日後の午後四時前だった。
ハイドは居間の窓辺に座って、ヴァイオリン型をしたランプの芯の長さを調節しながら、ぼんやりと日差しに輝いているデイジーと白バラを眺めていた。背後で扉が開いた気配がして、彼は振り返った。ウィルクスが立っていた。
彼はいつものように茶色の背広の上下を身につけ、黒い革靴を履き、黒いタイをきちんと結んでいた。しかし今日はバスケットもなく、赤いずきんも身につけていなかった。帽子を胸に押し当て、鋭い焦げ茶色の瞳でハイドを見つめる。頬には白いガーゼが貼られ、唇の端と眉の上にひどい切り傷があった。
彼は脚をひきずりながらハイドのほうに歩いてくると、目礼して言った。
「上官からの指示でうかがいました。わたしたちに手を貸してください」
ハイドはランプをテーブルの上に置き直すと、薄青い瞳をあげて刑事をじっと見つめた。その目に、心に築いた堤防が流れ去ってしまいそうな気がして、ウィルクスは激しく慄いた。なにもわかっていないはずなのに、なにもかもわかっているように輝く目を見つめていると、涙がこみあげてきそうだった。彼はそんな自分を打ち捨てた。背筋を正したまま続けた。
「このままでは拮抗状態で埒があきません。あなたはかつてはヨーロッパ中に名声を築いた探偵だった。その力を貸してほしい。作戦の立て方も、交渉も、逮捕についても、相談に乗っていただきたい。かなりの権限を与えます。お願いです、どうか」
ハイドは静かな目でウィルクスのことを見ていたが、急に椅子から立ちあがった。ウィルクスはわずかに肩を反らした。
「なにかあったのか? やつらにやられたのか?」
真剣な表情にウィルクスは唇を噛んだ。彼はすぐに言った。
「平気です」
「そうは見えないな。むりをしているんだろう?」
「していません。大丈夫です」
「そうは見えないよ。なにがあったんだ? ここに来るのは人に任せて、きみは休んでいるべきだよ」
「大丈夫です!」
ウィルクスは叫んでから我に返った。まぶたが痙攣し、喉がひくついた。ハイドはわずかに身を乗りだし、大きなその手をウィルクスの肩に置こうとしている。振り払うように頭を振り、鋭い目元にますます力を込めて、刑事は言った。
「おれは大丈夫です。それよりも、協力してくださるのかできないのか、それを教えてください。もうあまり時間がないんです。上官は今すぐにでもあなたに本部に戻ってきてもらいたがって――」
「でも、きみは泣きそうな顔をしている」
どうしてそんなふうに見えたんだとウィルクスは驚いた。そのとき涙が溢れて、乾いた唇に流れこんできた。ハイドはそっと彼の肩に手を置いた。ウィルクスは逃げることができず、急にいろいろなことを思いだして、頭を壁にぶつけたい衝動に駆られながら両手で顔を覆った。しばらくそうして固まったあと、彼は両手を下ろした。
涙は流れてしまうと跡形もなかった。ただ目が血走り、鼻の頭がかすかに赤らんでいる。ハイドは手をそっと肩に置いたまま、ウィルクスを見つめていた。
「写真を撮られました」ウィルクスは目を伏せてつぶやいた。
「そこまで酷い写真じゃありません。女なら死にたくなるだろうけど、おれはそこまでじゃない。写真のことは、上官にだけは言いました。彼は仕方なかったと言いました。危険な仕事だから、仕方なかった、きみはよくやったと。でもあの人の目は軽蔑と嫌悪でいっぱいだった。だから、でも、仕方ありません。写真は公開されてもいい。あなたのことを話したら、上官は国と軍に相談して、あなたを引っぱってこいと言った。だから、来てくれると本当に助かるんです。来てくれませんか? 来てくれたら、本当にすごく有難く……」
「でも、耳と尻尾がこんなだよ」
ハイドは肩に手を置いたまま低い声でささやいた。冗談めかす口調ではなかったのにウィルクスは笑った。
「そんなの、この非常事態にだれも気にしませんよ。狼の耳と尻尾が生えてても、言葉は通じるんだし。だから、来て……」
言葉を滑らかに吐きだしていたウィルクスの唇にあたたかいものが触れた。彼は呆然として目を見開いた。唇は押し当てられ、そして離れた。
ハイドは半白の髪に手を触れ、しばらく撫でていたが、やがて感心したようにつぶやいた。
「おお、なくなっている」
ウィルクスはものも言えないままハイドの頭を凝視し、彼の背後を視線で探った。狼の耳と尾は煙のように消えていた。
「ごめん、嫌だったかな」
ハイドがまじめな顔で言って、ウィルクスは泣きたくなった。探偵はささやいた。
「なんとなく、そうかなと思ってはいたんだ。きみがぼくの言うことをあまりに真剣に受けとめてくれるから。でも、自分の自惚れかなと思っていた」
「どうして、耳と尻尾が……」ウィルクスがつぶやくと、ハイドはもう一度頭を触った。
「あの邪悪な男は『不屈で、危険を冒した愛を持つ人間のキス』とだけ言った。相手『から』キスされるのを待ってろとは言っていない。だから、ぼくからしても問題はないかなと思って、やってみたんだ。スタンプをスタンプ台に押しつけるんじゃなくて、スタンプ台をスタンプに押しつけたかんじかな」
「なんだ、それなら、よかったです」
「本当にそう思っているのか?」
「思ってますよ」ウィルクスは早くなる胸の上下動を抑えようとして、眉を吊り上げた。しかし口元は笑っていた。
「あなたが完璧な人間に戻れてよかった。これでロンドンに帰れますね。おれの気持ちが伝わってしまったのは、つらい――そう、つらいけど」ウィルクスは抑えた声で言った。
「仕方ありません。気持ち悪いでしょう? できたら忘れてください。おれだって、あなたと愛しあえるとは思っていない。性欲だけのセックスが好きな人とは、おれは合いません。だから、忘れて……」
「でも、きみは恩人だ」
静かなささやきに、ウィルクスはヴァイオリンのランプをテーブルの上からなぎ倒したくなった。ハイドの胸倉をつかんで、揺さぶってやりたかった。必死で衝動を抑えようとすると、また思いだしたくないことを思いだしそうになる。結局、彼はたたずんだままうつむいて震えた。全身の骨がばらばらになりそうなほど震えは大きく、執拗に長かった。彼は震えながら低い声でつぶやいた。
「おれはあなたの恩人だ。でも、運命の相手ではない」
ハイドは答えなかった。あの男は、両想いじゃないと呪いは解けないって言ったんだったかな、違ったんだったかな。ハイドはぼんやりと考えていた。その大きな手の下でウィルクスはまだ震えていた。彼がそれを止めようと必死になっていることが、痛いほど伝わってきた。ハイドは力を込めて彼の肩をつかみ、言った。
「でもとにかく、きみは恩人だ。きみが愛してくれたから、ぼくは元に戻った」
「あなたは愛なんてくそくらえと思ってるんだ。おれもそうなりたかった。でもなれないんです。どうしても」
「ぼくが愛の力や真実の愛や、運命の出会いを嫌う理由は一つだ。それが完全に嘘だから。人が本当の意味で人を救うことは絶対にできない」
ハイドは一瞬口をつぐみ、言った。
「きみには言うよ。ぼくはこれまで二度自殺をはかった。いずれも生き延びることになったが。そのとき、『わたしがいればあなたはそんなことをせずにすんだのに』と言う人がいたら、ぼくはその人間をなにもわかっていない愚か者だと思う」
「そんなことは言わないでください。もしわたしがあのとき手を差し伸べていたら? そう思って苦しんでいる人はたくさんいるんです」
「きみの言う通りだ。だが、ぼくはそう思う。自分の思いで他人を救えると考えるのは傲慢だよ。救うことはできない」
「あなたは救いにこだわりすぎてる」
「ああ、そうだ。なぜならぼくも本当は救われたいから。だがそれが不可能だということもちゃんとわかっている。そういうときは、思いだすことにしてるんだ。運命を変えられない出会いにも意味はある。苦しみ抜いた先に光が見えない人生だってある。覚悟などとるに足らぬと言う詩人がいる。
きみが苦しんでいるのはきみのせいじゃない。また元気になってほしい。でも、そうなれなくても自分を責めないでほしい。もし明日には死を選ぶとしても、きみは昨日の夜を越えてきた。きみは強い。まちがいなく、ぼくよりも」
ウィルクスはうつむいて自分の靴の爪先を見ていた。両手を握りしめると痛みが走る。それでも握りしめ続けると、あたたかい手が背中に触れた。体がびくっと跳ね、ウィルクスはそんな自分の反応を抑えようとする。今でもまだ自分を支配している、あのとき声にならなかった絶叫を憎悪に変えようと頑張った。抱き寄せられて、ウィルクスはハイドの胸にもたれかかって目を閉じた。
ハイドはウィルクスの背中を抱いて、ゆっくり体を揺らしていた。胸に抱いているものがどこか懐かしかった。
ウィルクスはハイドの胸に頭を寄せて、目を閉じ、疲れ切って眠る少年のように重い息遣いをしていた。まるで柔らかな繭に包まれているように、彼は心の安らぎを覚えた。ほとんど天国にいるようだった。
ハイドは穏やかなダンスの最中のようにゆっくり体を揺らしながら、抱きしめた青年の清潔なつむじを見ていた。
○
こうして狼は探偵に戻り、その後何年も、何十年も、この若い刑事と組むことになった。
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