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第45話〈黒木〉

「岳くん。社長からこちらの資料を預かってきました。お渡ししておきますね」  ロサンゼルスに向かう機内で、父さんの秘書である糸井さんからファイルを渡された。 「糸井さん、あの、敬語は……」 「あ、そうだった、ついつい。ごめんな」 『職業病かな? 岳くんもすっかり大人になっちゃったしなぁ』    糸井さんはちょっと困った顔で微笑んだ。  小さい頃、糸井さんにはずいぶんとお世話になった。一昨日数年ぶりに会ったとき、他人行儀に敬語で話しかけられ、俺はものすごく戸惑った。  父さんとほとんど歳の離れていない糸井さんは独身で子供もなく、小さかった俺をいつも気にかけてくれた。糸井さんのほうが父親だと思いたくなるほど、いつも優しくしてもらっていた。  でも小学校に上がる頃、もともと二重生活だった父さんの拠点はほぼアメリカに移り、糸井さんにはほとんど会えなくなった。  あの頃は寂しくていつも泣いてたな、と思い出す。  久しぶりに会った糸井さんは、変わらず優しい。  笑うと目尻にシワができるところも変わらない。いや、シワが増えたかな。 「社長は岳くんにとても期待しているみたいだよ。その資料にある会社の契約が取れれば、かなりの大口なんだ。そこに岳くんを呼び寄せることになって、みんな驚いてるよ」 「……それは驚くでしょうね」 『でも岳くんはまだ高校生だ。たとえ優秀でもこんな大切な仕事に関わらせていいものなんだろうか……』    糸井さんの戸惑いが伝わってくる。当然だろう。  父さんが呼び寄せる理由は、俺が優秀だからじゃない。俺の力を利用するためだ。そうじゃなきゃ高校生が仕事に関わるなんて普通じゃない。野間のように店番を代わるのとはわけが違うんだから。 「糸井さん。でも父さんからは見学程度だと聞いてます。後ろで邪魔にならないように見させていただきますね」 「見学程度……?」 『それにしては社長が必死だったな。絶対に岳くんが必要だと言っていたし……。二人の電話もそんな雰囲気じゃなかった……』  余計なことを言って社員を混乱させるなよ、と俺はあきれた。どこの世界に高校生が絶対必要な商談があるんだ。  糸井さんのいる前で父さんからの電話に出たのも失敗だった。 「とにかく俺は、夏休みだけ職業体験に参加するような感じだと思ってますので、お邪魔だと思いますがよろしくお願いします」 「邪魔だなんてとんでもないよ。でも本当に、そんな軽い感じじゃなさそうだったよ……。それにこの商談が成功しないと岳くん、アメリカのスクールに転校になるんだろう?」  糸井さんは俺を気づかうように見てくる。   「……やっぱり、あの電話でわかっちゃいましたよね」 「まあね……。聞いてしまって申しわけない。恋人とのことも認めてもらえるといいね」 「……あ、はい……」    ギクリとして息が止まりそうになった。  電話の会話だけなら野間が男だとはバレてないよな……?  恋人か……。本当にそうならいいのに。  俺も、野間とのことを認めろとか、なにを言っているんだろうな……。たとえ父さんに認めてもらったところで、野間が俺を友達以上に見てくれるわけでもないのに……。   「あのあと私にも電話がかかってきてね。社長が笑ってたよ。恋人のことを認めろなんて言い出したって」    まるで俺から言い出したようなニュアンスで糸井さんは言う。  そもそも向こうから脅しておいて、どうして糸井さんへの報告がそうなる? 俺にそう言わせるつもりだったくせに。  笑ってたってどういう笑いなんだ。約束を守るつもりはあるんだろうな。糸井さんと話していて俺は不安にかられた。    二日前、父さんが電話で『やっとこっちに来る気になったか』『署名したんだろう?』と言い出して、身に覚えのない俺は慌てた。  急いで実家に行ったが、母さんは書類を持って消えていて、代わりいた糸井さんに「アメリカ行きの準備を」と言われて頭を抱えた。  野間に電話をしたあとのことは、もう思い出したくもない。  帰宅した母さんは俺を見た瞬間、心の毒吐きを浴びせてきた。勝手に書類を提出した母さんにブチ切れてスマホを壊し、慌てて先生に連絡をして阻止できたと安心した直後にまた父さんから電話が鳴った。  今思い出しても(はらわた)が煮えくり返る。      『野間くんだったかな? ずいぶん入れ込んでるようだが、お前たちはそういう仲なのか?』 「なんで……っ。どうして野間を知ってるんですかっ」 『ときどきそっちにいる部下に監視させてるからな。なんでも知ってるぞ? お前の言ってたずっと一緒にいたいヤツが野間くんなんだろ? まさか女を連れ込む代わりに男を連れ込むとは思わなかったな』 「……野間に……野間になにかしたら絶対に許さないっ」 『おいおい、俺がなにをするって言うんだ? ただ俺は、そういう仲なのかって聞いただけだろう?』 「……いま野間の話をする意味が脅しじゃなかったらなんなんですかっ」 『おいおいなんだ、被害妄想か?』  父さんの笑い声が耳にさわる。  どんな手を使ってでも俺をアメリカに行かせたいんだな。   「……わかりました。行きますよ。その代わり、もしその商談が成功したら転校の話は白紙でお願いします。それから野間とのことを認めてください。それを約束してくれるなら、行きますよアメリカに」 『ははっ。お前、なんか勝手に言いたいこと言い出したな? なるほど。野間くんのことになると感情スイッチが入るんだな?』 「そっちから脅しておいてなにを言ってるんですか?」 『はっはっ。いいことを知った。いいぞ。それで手を打とう。その代わりすぐに来い。糸井を送っておいたから、すぐに一緒に来い。パスポートの更新はしてあるだろ? いいな?』 「……いいですよ。行きますよ。その代わりちゃんと約束は守ってくださいね」 『わかったわかった。あ、一番大事な条件を忘れてた。大学卒業後は絶対にうちに入社する。約束できるか?』 「…………」  どうせ入社一択だと思っていたから返事に困った。  条件に組み込まれたことに驚く。  そもそも入るしかないと思っていたからどうでもいいが。 『勤務先は日本でもこっちでも、お前に選ばせてやる』 「……わかりました」 『よし。じゃあ待ってるぞ』  父さんとの会話を思い出しながらウトウトしたようだ。  目を覚ますとそれほど時間もたっておらず、糸井さんが「あ、よかった。ちょうどいま機内食配られてますよ」と微笑んだ。 「糸井さん、また敬語」 「あ……はは。本当だ」 『社長にそっくりだからつい敬語になっちゃうな』  ……そうか、俺は父さんに似てるのか。  もう顔もうろ覚えだ。  父さんとは、家を出てからは一度も会っていない。  年に数回電話が来るくらいで、顔なんか忘れて当たり前だ。  

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