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第57話
俺、黒木が出てきたらすぐにでも抱きしめたい。
そんなことを考えていたのに、いざ黒木の姿が到着口から現れたとき、俺は動けなかった。
一ヶ月ぶりの黒木はスーツ姿で、なにもかもが大人びて見えた。
黒木……カッコよすぎ……。
やばいくらい胸が高鳴った。
黒木はすぐに俺を見つけて、こちらに近づいてくる。
『野間』
大好きな黒木の心の声に、心臓がさらにドクンと跳ねて一気に身体が熱くなった。
気持ちがぶわっとあふれそうになったとき、黒木の表情がだんだん強ばっていくのがわかって、ギクリと身体が固まった。
俺はとっさに呪文を唱えた。
黒木、俺に会いたかったって顔じゃなさそう。
電話では会いたいって言ってくれたけど……。
一瞬ひるみそうにそうになって、いや違うだろっ、と自分に喝を入れた。
俺は黒木に選んでもらいたくて呪文を解くわけじゃない。
黒木に大好きって気持ちをいっぱい浴びてほしいから解くんだ。
黒木の中にある消えない母親の毒の代わりに、俺の大好きでいっぱいにするんだ。
会ったらすぐに抱きしめようと思ってたのに、すっかりタイミングを逃がしてしまった。なにやってんだ俺。
黒木は俺から少し離れた位置で足を止めた。
声で話しかけるには微妙な距離。
俺は心の声で言った。
『黒木、おかえりっ』
抱きしめる代わりに、俺は精一杯の笑顔で黒木を迎えた。
それでも黒木の表情は硬いままだった。
『ただいま。……元気だったか?』
『んなわけねぇじゃんっ。元気じゃなかったっ。すげぇ寂しくて毎日泣いたっ! でもいま黒木の顔見たらすっっっげぇ元気になったっ!』
俺がニカッと笑うと、黒木の表情がふっと和らいで、でも少しだけ眉間にシワが寄った。
『毎日泣いたのか?』
一歩だけ俺に近寄って顔をじっと見つめてくる。
『あ、うそだと思ってんだろっ。ほんとだかんなっ』
『……もしかして目、腫れてる? そんなにか?』
え、まだ腫れてる?
もうさすがに腫れは引いたと思ってた。まだわかるくらいだったのか。
『そんなにだよ。もう会えねぇかもって思ってすげぇ怖かった。……よかった、帰ってきて』
話しながら鼻の奥がツンとして目頭が熱くなった。
黒木の瞳が心配そうに揺れた気がした。
黒木がいまにも謝りそうな気配で、俺はさえぎるように言葉を続けた。
『黒木。俺、呪文やめるって決めた』
すると、黒木の肩が一瞬揺れた。
『……そうか。よかった。やっぱりしんどいってわかっただろ?』
『そうじゃねぇけど、でもやめることにした』
勇気がしぼまないうちに早く呪文を解こう。
『呪文やめたらさ。きっと黒木はもう……俺を抱かないと思うけど、でもせめて友達のままでいてほしい』
『……友達のままでいてほしいのは、俺のほうだよ』
『……そっか。うん。やっぱり俺たち、友達なんだよな。でも、普通の友達に戻るだけだよな?』
『……ああ。ずっと……親友でいてほしい』
親友……! そうだ、ただの友達じゃない。俺たち親友だったっ。嬉しいっ。
『うんっ! もちろん! 俺もずっと親友でいてほしい!』
黒木がホッとしたように息をついた。
もしかして表情が硬いのは、俺が拒絶の言葉を隠してると思ってるからかな。
大好きの気持ちだってわかったら、同じ気持ちじゃなくてもちょっとは喜んでくれないかな。
『黒木ー。俺の呪文、これで聞き納めだぞ?」
なんてな、と俺はニヒヒと笑った。
『もういい? 本当にやめちゃうからな。戻せって言ってももう戻さねぇぞ』
やっぱり怖い。もし迷惑だと思われたらと思うとどうしても怖気づく。
でも、たとえ振られるとわかってても、せめて笑顔で大好きを伝えたい。
そう覚悟を決めたときだった。
『待て野間っ』
呪文を解こうとする俺を黒木は止めた。
『野間、悪い。ちょっと待ってくれ』
『う、ん、どした?』
『俺から先でいいか……?』
黒木は片手で顔をおおってうつむいた。
意味がわからなかった。
『先ってなに?』
『俺は、野間に謝らなきゃいけないんだ……』
『謝るってなに……』
黒木が俺に謝ることってなんだ?
なにを言われるのかと緊張が走る。
『……実は……俺もずっと心を閉ざしてた。野間が呪文を唱える前からずっと……』
『……え、黒木、も……?』
『呪文をやめてくれなんて偉そうなことを言っておいて、本当にすまん……』
黒木も俺に心を読まれたくなかった……?
……あ、そういうことか、と俺の顔から笑顔がはがれ落ちた。
拒否反応が出てるのは黒木のほうだったのか。だから俺の呪文も同じ理由だと思ったんだな。そっか、そういうことか。
拒否反応って、拒絶の言葉って、どんなだろ……。どうしよう、怖くて逃げ出したい。
『お前に嫌われたくなかった。お前を裏切るような気持ちを聞かれたくなかったんだ。……本当にすまん』
裏切るような気持ちって、なんだよ……怖い。
どうしよう、こんな事態は思いもしてなかったから、聞くのが怖すぎる。
俺……聞きたくないかも……。
『じゃあ……心を解放するから。……覚悟してくれ』
『覚悟……』
覚悟するほどの感情なのか……?
怖さと不安で脈拍が上がるのを感じた瞬間、黒木の感情が波のように押し寄せてきた。
聞こえるなんてレベルじゃない、黒木の中であふれる感情が俺の中にぶわっと流れ込んでくる感覚。
いまなにが起こってるのか理解が追いつかない。
顔から手を外してまっすぐ俺を見つめる黒木の瞳に、吸い込まれそうになった。
『野間、好きだ。大好きだ。お前のくるくる笑う笑顔が好きだ。一日中抱きしめていたいくらい、お前が好きだ。友達なのに……本気で好きになって、本当に……ごめん』
黒木の『好き』『可愛い』『離したくない』『嫌われたくない』という感情に全身が包まれる。
うそだ……こんなの……うそだ……。
いつも本の世界にいた黒木。俺を抱きながらもずっと本の中だった。
ずっと思ってた。毎日思ってた。
俺を好きじゃなくてもいいから、少しでもいいから俺のことを考えてほしい。少しでもいいから黒木の心の声を聞かせてほしいって。
でもまさかこんなことは想像もしてなくて、信じられなくて、足がガクガク震えて俺は立っていられなくなった。
「おい、野間っ」
足元から崩れ落ちるように膝をついた俺を、黒木が駆け寄って支えてくれる。
「野間、大丈夫か」
「く……ろき……黒木……」
俺は黒木の身体にしがみついた。
涙が崩壊して、もう止まらなかった。
「くろきぃ……っ」
俺は呪文を解いて心を解放した。
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