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桜の木と首輪
目を覚ますと、ソファに横たえられて、薄いブランケットが掛けてあった。リビングの窓から入る風が心地よくて、横を向いたら、額の上の濡れタオルがぽとりと落ちた。
シャワーを浴びる遠い音が聞こえる。どれくらいの時間、気を失っていたんだろうか。鬼崎さんとのエッチなアレコレを思い出して、俺は自分のパンツをこっそり覗いた。朝に自分で履いたやつと柄が違う・・・・・・。下着の中に出してしまったのでベタベタだったはずだが、下半身はすでに綺麗に整えられていた。
気を失っている間に洗われて拭かれて着替えまで、羞恥心に苛まれつつ、彼の気遣いが嬉しくて「へへ」と笑みが溢れる。
そういえば鬼崎さんと初めて出会った時も、風が俺の頬を叩いていた。でもその風は今よりずっと冷たくて、擦り切れるように痛かった。
◇ ◇ ◇
まだ桜の木に花が咲く前の、冬の終わり。
俺は苦渋の選択を迫られていた。良くある話だが、父親がリストラにあったのである。
父親の勤めていた会社は中小企業であったが、業績は上り調子と聞いていた。年功序列を重んじる社風に沿い、その頃、課長補佐として働いた父親は次期課長ポスト間違いなしと期待もされていた。
人員の削減を言い渡されたのは、あまりにも突然だった。父親の稼ぎに頼っていた家計は火の車となり、家族は露頭に迷う寸前。大学に払えるお金も仕送りもゼロになった。
退学、厳しい二文字が重くのしかかる。けれど、俺にはどうしても諦められない夢があった。そのため俺はアルバイトを増やし、自分の力だけで卒業してみせるからと親を説得して、何とか大学に残ったのだ。
当然、俺の選んだ道は楽じゃない。学費を最優先事項にし、やれることを一から考えた。それまで親の脛をかじって行っていた事を全て見直さないといけないといけないと思い、改善点として浮かんだのが住む場所だった。可能な限り安い家賃の部屋を探すために、掛け持ちしたアルバイトの合間を縫って、不動産屋を梯子 することにした。
けれど家賃が下がれば、物件の古さも設備も治安だって悪くなる。俺は直面する現実に打ちのめされた。
実家は一軒家。大学入学の際に親と決めたマンションは、相場でいえば平均家賃よりも高いクラスに入る新築物件だった。
設備の整った小綺麗な場所にしか住んだ経験の無かったせいで、一般的な常識がずれていたのだとあとで分かった。あの時の俺は希望の条件と家賃の折り合いが付けられずに、営業マンに迷惑顔をされて帰された事もしばしば。
そして運命の日。たしか、駅前の不動産屋に六度目の門前払いを食らった日だった。俺は肩を落として自転車を押していた。これからの人生が不安で、前に進むのが怖かった。
だから赤信号が青に変わっても、いつまでも一人だけその場を動けなかった。ついこの前までは同じだと思っていた人々が、どんどんと自分を追い越して去っていくような錯覚。
疎外感、孤独感、どう表現すべきかは分からないけれど、本当に一人ぼっちで心が潰れそうだった。
肩に誰かの手が置かれて、振り向いたのはその時。
「信号、もう三回くらい変わってるよ?」
涙で濡れた顔を見て、そこに立っていた男はひどく驚いた顔をした。
俺は振り向いた事を後悔した。だが慌てて自転車を前に押すと腕を掴まれ、見知らぬ男は「まだ赤だよ」と困ったように笑ってくれたのだ。
微笑んだ顔を見て、はらりと、心で絡まった糸がわずかに解けた気がした。
男と二人で信号を渡り、その先も横に並ぶ形で歩いていると、
「部屋を探してるの?」
と唐突に切り出された話題。何で知ってるんだろうと不審に思ったが、にこにこと柔らかい表情に絆され、俺は頷いていた。
すると男はしばらく喋らなくなったので、話題は終わったんだと勝手に解釈をしていた。
「いい物件があるんだけど、どうかな? たぶん君も気に入ると思う」
その声に顔を上げた。俺は返事につまる。「見るだけでも」と言われ、連れて行かれた場所は大学から自転車で二十分の良い立地だった。普通の二階建ての一軒家。ぱっと見はそんな印象で、人の家に上がるような緊張感を感じたのを覚えている。
玄関のすぐ前に階段があり、廊下の奥にリビングとキッチンに入るドア、その途中に浴室とトイレ。二階には十畳くらいの部屋が三つ。空き家というわけではなく、どの部屋にも生活感の漂う家具と家電が揃っていた。
「ここは俺が住んでいる家なんだ。でも一人きりだと広過ぎるだろう? 家にいるとなんだか寂しくて、人に貸すか売りに出そうと思ってたんだ。そしたら約束していた不動産屋で君を見かけた。何やら揉めてたみたいだから」
営業マンとのやり取りを見られてたなんて恥ずかしい。俺は赤面した。
「もし君が住んでくれるなら、不動産屋との契約は破棄するよ」
「あなたはどうするんですか?」
「そうなったら俺も一緒にここで暮らすよ。ルームシェアだと思ってくれればいいから」
「・・・・・・ルームシェア」
部屋は沢山ありそうだし、男同士で風呂やトイレを共有する古いアパートは普通にある。それまでに紹介されてきた、朽ち果てそうなオンボロに比べたら天と地ほどの優良物件。
しかし、あと問題があるとすれば。
「家賃はいくらでしょう・・・・・・その、揉めていたのを聞いてたのなら知ってると思いますけど、あまり高い家賃は支払えません」
これまでの部屋探しで一番ネックになった条件。散々これに阻まれてきた。
俺の質問に、男は窓際から庭を眺めながら答える。
「タダでいいよ」
男の口から放たれた言葉にぽかんとしてしまった。そんなの現実的じゃない。
「聞こえたかな? 家賃は要らないって言ったんだよ」
男はもう一度繰り返す。
「ここに住んでもらうのは俺の我儘みたいなものでね・・・・・・ああ、一つだけ」
取って付けたような言い方。だがこれが本題なのだとすぐに理解した。男の目線の先にあるもの、小さな犬小屋を指で示される。
「ペットが欲しいと思ってたんだ」
一瞬訳がわからずに首を傾げてしまい、すぐにサッと血の気が引く。それでも一縷の望みをかけて、低い可能性を提示した。
「俺と一緒にペットを飼いたいって事ですか?」
「違うよ」
男は冷静に否定した。
「君がペットになるんだよ」
何をどうしたらそう思えるんだろうと思う。イカれてる。
俺だけじゃなくて一般論としての見解だろう。じりじりと男から距離を取り、逃げ出せるように入り口前を確保した。
「大丈夫、何もしないよ。決して危害を加えないと約束しよう」
信じられない。そんな不信感が表に出ていたのか、男は俺から目を逸らし、背中をむけて部屋の外に出る。
「下に降りて待ってるね」
数分後、男の姿が完全に消えてから、俺は慎重に階段を降りた。リビングに戻ると、男はそこにある戸棚を片っ端から開け放ち、何かを探しているようだった。
怪しすぎて、声をかけるのを躊躇う。変態男の考えは分からない。勝手に帰宅して、後々、根に持たれたら溜まったものじゃない。俺は黙って帰るに帰れず、ソファに座って探し物が終わるのを待った。
「あ、よかった。あった、あった」
自分の膝を見つめていると、顔の前に何かが差し出された。
俺はごくりと唾を飲み込み、男の顔を見上げた。それは桜の葉を思わせる深い緑色をした、革製の犬用の首輪だった。
「気に入らなかったら、別のを買ってもいいし」
男は膝をつき、俺の目線の高さで微笑んだ。しかし、言っていることは異常だ。頭のおかしな申し入れを、さも普通の出来事のように話している。
「いいかい、俺の出す条件はこの首輪をつけて俺のペットになること。そのかわり、タダで住むところを提供する。この条件を飲むか飲まないかは君次第だから、決心がついたら連絡して。二週間、返事を待つよ」
・・・・・・二週間。明確な期限を設けられたことで、あり得ない可能性に現実味が増す。
この男はマジだ。背中に冷や汗がつぅと伝っていった。大真面目に俺をペットにしようとしている。
今すぐに逃げるべき。俺の警戒アラートはさっきから鳴りっぱなしだ。それなのに、そう思う相手としては似つかわしくない優しい物言いと表情。頭の誤作動だと分かっていても、困惑する。
この男は何者なんだろう。俺は男の言葉に黙って頷くしかなかった。
ドクン、ドクン、ドクン。男の家からの帰り際、まだ心臓の音がうるさい。
俺は目いっぱい距離が取れるまで走り、自転車を降りた。頬っぺたが岩にでもなったかのように張り詰めていて、ピクリとも動かない。・・・・・・怖かった。たぶん今笑ってくださいと頼まれても、一億円積まれたって無理だろう。
だがそれも仕方がない、俺の精神状態は未だかつてなく緊急事態なのだから。
そうしてパーカーのポケットに収まっている例のモノをやんわりと手で触った。しなりのある輪っか状のそれ。首輪をこんなにじっくり触るのは初めてだった。表面は滑らかですべすべ、所々触れる凹凸を指で弄ぶとカチャカチャと小さく金属音がする。
ポケットから取り出して、俺に与えられた首輪を見下ろす。「ぜひ持って帰って」と、手渡されるままについ持ってきてしまった。正直、どうしようか迷っている自分に驚かされている。
現在置かれているどん底の環境と、首輪を受け入れることによるメリット、二つを比べる天秤が心の中でどっち付かずに揺れていた。
極端に言えば首輪なんて形はベルトと同じ、よく見るとアクセサリーみたいだ。お洒落でこんなのを首にしてる人だっている。
楽観的すぎるかもしれないけれど、首輪を付けるだけなら、大した事はないんじゃないかと思えてくる。引き換えにタダで約束される綺麗で暖かい生活、それを目の前にして断るのは勿体ない。
男の素振りは全てにおいて優しかった。たとえ、このような変態趣味を持っていても、乱暴にされたりはしないのだろう。あの男自身が「危害は加えない」と実際に言っていたし・・・・・・。あくまで、あの優しさが見せかけじゃなかったらの話だが。
「ワン!ワン!」
聞こえてきた犬の鳴き声に、ハッと顔を上げる。見られたからといって困るわけではないが、やましい気持ちがして首輪をポケットに突っ込む。
「こらこら、チェミー、走らないの。すみません~」
「いえ」
散歩中の柴犬だ。すれ違いざまに端に避けると、申し訳なさそうな顔で飼い主が会釈をする。柴犬は大きく開けた口に舌をベロリと出して、食い気味にリードを引っ張って走り去った。俺は振り返り、その様子を遠い目で眺めた。
———待って、アレに俺もなるの?
唐突に、じわりと額に汗が浮かぶ。「ペット」「犬の首輪」、二つのキーワードが示しているのはあの姿じゃないのか?
嫌々無理だ、普通じゃない。迷っていた心の天秤がじりじりと、首輪とは反対に傾いていく。
危なかった。危うく安易な考えに流されてしまうところだった。
よく考えろ。あの男は俺に「ペットになれ」と言った。他がどんなに素晴らしい条件でも、了承した瞬間に、俺は人間としてのプライドを捨てる事になるのだ。
返事の期限は二週間だと? 馬鹿馬鹿しい。
あんな変態男は、このまま放っておけばいい。約束の期限が過ぎれば、何も言わずとも勝手に諦めてくれる。
悩んでいるうちに、自転車を押した俺はいつもの土手沿いにまで来ていた。
もう二度と、失礼極まりないあの男に会うことはない。
俺はポケットに手を入れて首輪を掴み、思い切り川に向かって放り投げてやった。散歩スポットの河原では、飼い犬と飼い主が楽しそうに遊んでいる。ぽとんと川に落ちた首輪を、オモチャだと勘違いしたのだろう、飼い犬たちが目を輝かせて追っていく。
愛らしい姿ではあったが、俺は冷めた目で一瞥し、すぐに背を向けた。
首輪の吸い込まれた水面は変わらずに静かに流れ続ける。最初からポケットには何も入ってなかった。そう思うことにする。
「あーあ、時間の無駄だった」
冬空に佇む丸裸の桜の木は、俺の目には寂しげに映った。
この木が満開を迎える時、俺はどんな顔でここに立っているのだろう。その頃にはもう、この道を通る事さえ叶わないのかもしれない。前を向こうとしても、気持ちはどうしても沈んでしまう。
俺は暗い未来を振り払うように、速いスピードでペダルを漕いだ。
あれから二週間、変態男からの音沙汰は無かった。自分の連絡先は教えてないのだから、もちろん当然なのだが。声をかけられた交差点でばったり出会うんじゃないか・・・・・・なんて、最初はビクビクしていたのが、今は少し落胆している自分がいる。
おまけに引っ越し先探しも進展は無しで、また堂々巡りの日々だ。懐の寂しさか、不安の現れか、胸の内だけじゃなくて、心なしか手足も冷たい気がする。
捨ててしまった首輪を思い出し、あの男の顔を思い出し、今更ながらに惜しい事をしたなと後悔した。神さま仏さま、お願いします。どうか助けてください。俺の心は限界です。心身共に疲れ果て、誰でもいいから縋りたい気持ちでいっぱいだった。けれど今俺の持てる幸運を総動員しても、この状況は打破出来ないみたいである。
こうなれば生きるために強硬手段に出るしかない。俺はスマホの検索画面を開き、一文字一文字、慎重に打ち込んでいく。
「おっす」
「ひぃ!」
頭上から降って来た声に大きく肩が跳ね、慌てて画面を閉じた。
「なははっ、ビックリしすぎ。こそこそ何やってんの?」
「なんでも無いよっ」
まずい。大学の講義室である事をすっかり忘れていた。
「林田さぁ」
楠木が隣りに座り、深刻そうな顔をする。
「え、なに?」
やけにゆっくりと、机に筆記具を並べる楠木。なんだこの空気は。嫌な沈黙が流れる。まさかさっきのスマホの画面を見られていて、・・・・・・気持ち悪いから友達やめますとか・・・・・・?
授業道具を全て出し終えると、楠木は重い口を開いた。
「今日飲み会があるんだけど、来れる?」
「は?」
腹が立つほどに的外れの質問だ。強張っていた身体がコントのように椅子からずり落ちる。
「おい、こら。ドキドキした時間を返せ!」
「ドキドキ? なんでお前が俺にドキドキすんだよ。それよりさ、人数が足りなくて困ってるんだよね」
苦笑いをする楠木に、俺はノーと首を横に振った。
「ごめん無理、行けない」
「・・・・・・やっぱ、そうだよなぁ」
分かってたよと言われ、俺は眉を顰めた。必死に稼いだアルバイト代を、一晩の楽しみのためだけに使いたくはない。金を貯めるために、毎日身を切る思いで節約をしているのだ。それでも肩を落とす友人を見ていると、申し訳ない気持ちが湧いてしまった。
「いつものメンバーでの飲み会でしょ? 人数が揃わないと何がマズいの?」
「いやぁ、それがさ」
「何だよ。勿体ぶらずに言え」
「ごめんって」
楠木は頭を掻き、「実はさ」と切り出した。どうやら話によると、楠木は飲み会の幹事をしている女子のことを狙っているようで、その子に「参加してくれる男の子の数が足りない」と泣き付かれたらしい。
「はー、なるほど。それで良いところを見せようってわけね」
「ソウデス、実は一回フラれてて、なんとか挽回できないかなって思ってたんだけど」
全ては大学に通い続けるため。心を鬼にして飲み会を断り続けて来たけれど、理由が分かってしまった以上は、見て見ぬふりして困っている友人を見捨てるほど冷酷にはなれない。
「仕方ないな」
と、ため息をつく。泣けなしのバイト代をはたいてやるか。
「いいの?! うわー! さんきゅー! 神さま、林田さまーー!」
「うわ、うるさ」
俺を神さまにしてもらっても嬉しくない。講義室中に響き渡る声で「ありがとう」と叫ぶ楠木を、俺はなんとも言えない眼差しで見つめた。
その日の夜。一ヶ月ぶりの飲み会で俺のテンションは上がっていた。久しぶりの楽しい雰囲気は、ハメを外すには充分な理由になる。
もともと酒も人が集まる場も嫌いじゃない。倹約に次ぐ倹約によって溜め込まれていたストレスに比例し、アルコールの量はどんどん増えた。
いつのまにか楠木はお気に入りの女とよろしくやっていた。飲み会の参加メンバーに加わるというミッションはすでにクリアされている。特別何もしていないが、心地よい達成感で気持ちが良くなった。
記憶が途切れ途切れになったのは、そのあたりから。
ふわふわと身体が浮いたような感覚の中、俺は誰かに促されて席を立った。会費は事前に回収されていたので、それは楠木で、飲み会が終わった合図なのだと思い、そのまま店を出たのだ。
居酒屋の外に出ても、俺以外の誰の声もしないことをおかしいと気付けなかったのが運の尽き、連れて行かれのはラブホテルだった。押し倒されて初めて相手の顔を見て、それが全く知らない男でも、思考の定まらない頭では「抵抗」するという考えが思い浮かばない。
ぽかんとしていると、キスをされ、酒臭い息にむせ返った。
「うっ!」
背けた頬に鈍い衝撃が走る。脳が揺れて、ぶたれたんだと分かるまでに数秒掛かった。流石に驚き、少しだけ意識がはっきりとする。
しかし改めて見た男はやっぱり全く知らない人で、怖い顔で見下ろされる恐怖に身体がすくむ。
俺はこの男となんでこんなところに居るんだろう、楠木は? 他の皆んなは? どの記憶の引き出しをひっくり返してみても、この時の俺は混乱するだけだった。
頭の上に強引に腕をまとめられ、「ガシャン」と聞き慣れない音が耳に届く。
「何だよこれ・・・・・・」
「あれ? こうゆうの好きなんじゃないの?」
「こうゆうのって・・・・・・?」
「だって君さ、さっき居酒屋で『男』とか『首輪』とか『ペット』とか、堂々とスマホ検索してたよね?」
俺は血の気がひく感覚がした。
「・・・・・・でも俺がそっちだとは限らないですよね!」
「うん、だから確認したよ?」
酔っている間に自分が何を言って、何をしてしまったのかはもう思い出せない。
一つ確実なのは、男の言う内容を確かに検索していた事実があるだけ。だがそれは、昼間にだ。消去し忘れていたのを、酔った状態で開いてしまったのかもしれない。
「申し訳ないけど、本当に誤解で」
「ホテルまで着いてきておいて、今更それは無いよ。いいじゃん、優しくするから楽しもうよ」
男の体重が再びのし掛かってくる。酒臭い吐息が首筋をかすめ、服を捲り上げられ焦りが増した。手首の拘束具をなんとかしたくて、力任せに引くと、何度目かで安っぽい音を立てて壊れ、手首が抜ける。その瞬間に思い切り男を突き飛ばし、鞄を掴んで外へ飛び出した。
何処へ向かって走っているのかは分からない。ただただ怖くて、何でこんな目に合わなきゃいけないんだと惨めな思いで逃げた。
毎日通っている土手沿いの景色に安堵し、俺はようやく立ち止まり、散々だと唇を噛む。ひっそりとそびえ立つ桜。節くれ立った気持ちのせいで、静かで穏やかなその木までもが自分を見下しているかのように感じた。
「見るなよ!」
思わず拳を振り上げる。
「・・・・・・阿呆らしい」
こんな八つ当たり、自分の惨めさを助長するだけだ。俺は拳を開き、手のひらをそっと幹に当てた。
「ごめんな」
そして桜の木を見上げ、「あれ?」と声を漏らす。
何かある、冬の木にはまだ生えていないはずの深い葉の色。枝の先に目を凝らしてみると、その全容が分かり、震える手を伸ばした。大人が背伸びをすれば届く高さの場所に、遠慮がちに引っ掛けられていた『首輪』。誰かが拾ってくれたのだろうか、それとも遊んでいた犬? カラス?
だがそんな事はどうでもいい、まさか俺の元にこうして戻ってくるとは思わなかった。
「ごめんな」
首輪にもそう呟き、汚れを袖で拭う。雨風に晒され、少しだけ褪せてしまった緑色、でもその色を見て安心してしまう自分が居た。
———俺は首輪が戻ってきて嬉しいと思っているのだろうか。あの家はもう売りに出されてしまっただろうか。
「なあ、桜。お前はどう思う?」
問いかけは空を彷徨った、それでも答える口を持たない桜の木は、黙って俺の背に寄り添ってくれているようだった。
やがて勢い良く立ち上がる。
悩んでいても何も始まらない。どうして大学に残る道を選んだのかを思い出せ。夢を叶えるために最善の選択をする、今出来るのはそれだけだ。
俺はそのまま家に帰らずに男の家に向かった。手のひらに金具の跡がつくほど、首輪を強く握りしめ、鼓動が痛いほどに跳ねていた。
決心は付いたけれど、この先の未知の世界に恐れるなと言う方が無理な話だ。
そもそも約束の期限はさっき二十四時を回ったとこで二日も過ぎている。今ごろ、なんで来たんだと思われるのではと不安がよぎった。徒歩で来たのに、自転車で来た時よりも時間が早く感じる。あっとゆうまに到着して、明かりの消えた窓をじっと眺めた。
時間が時間だ、玄関の前で朝まで待った。ドアに寄り掛かって座っているうちに、次第に眠気が襲ってくる。寒空の下、寝たら死んでしまうと頑張ってみても、瞼は落ちる・・・・・・。
ぽんぽんと肩が叩かれた。最初は夢かと思って無視をしたが、もう一度叩かれて、何だろうと目を開けた。
「おはよう、風邪ひくよ?」
覗き込む男の顔に、悲鳴をあげそうになった。自分でここに来たくせに、起きた瞬間はそれを忘れていた。
「やけにドアが重いから、なんだろうと思ったら君だったとはね」
また会えて嬉しいよと男は言った。
俺の返事を待っていてくれた・・・・・・?
そう思ったら、なんだか照れ臭い。俺は男から目を逸らしてうつむいた。
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