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バイバイご主人様、俺は首輪を外します
部屋に駆け戻り、頭まで布団をかぶり包まった。下半身に残る物理的な痛みと、心に残る形のない痛み。そのどちらも悲しくて、また涙がこぼれる。
乱暴にされたことのショックが、心の中で尾を引いて増殖していく。信頼していたぶん裏切られたような気持ちで、二度と顔を合わせたくないとさえ思う。
階段を上がる音が聞こえて身体が強張った。コンコンとドアを叩かれたが無視をすると、少し待った後に鬼崎さんの声がした。
「蓮太郎、さっきはすまなかった。その・・・・・・暴走をして不快な思いをさせてしまったこと、本当に申し訳ないと思ってる。怪我はしていないだろうか? 君の身体に何かあったら教えてほしい」
今さら優しい言葉はずるい。もとの優しい鬼崎さんと会話をすれば、何事もなかったみたいに許してしまいそうで、何も答えられなかった。しばらくして、ドアの前の気配が一度離れ、そしてまた戻ってきたのがわかる。
「俺は出掛けてくるから、シャワーを浴びるといい」
ドアの向こうから聞こえたのは、その言葉が最後だった。
すぐに立ち上がって、窓を覗いた。鬼崎さんの後ろ姿が道路の向こうに消えて行くのが見える。途端にフッと緊張感が解けて、疲れで身体が重たくなった。今すぐにでも寝たい気分だけど、身体が臭くて気持ち悪い。
首輪を外して机の上に置き、部屋を出た。もうすぐ季節は夏を迎えるのに、何故か肌寒く感じる。裸でいるせいだと思ったが、温かいシャワーで身体を流しても、それは変わらなかった。どんなにお湯の温度をあげても、手足はずっと凍えたように冷たいままで、そこで初めて、この家に来てからはずっと自分の身体は温かったんだと気がついた。きっと心も。
俺が調子に乗ったせいだ。後悔に胸が締め付けられる。俺があんな悪戯をしなければ良かった。ペットとご主人様の関係をエスカレートさせなければ良かった。あの人の作った関係を壊さなければ・・・・・・。
シャワーを止めると、髪からしたたり落ちる雫の音が浴室の壁に寂しく反響する。癖で首元に手をやってしまう俺自身と、鏡越しに目が合い、何とも言えず惨めな気分になった。
身体はすっきりしたものの、ベッドに潜り込んでも眠れなくて、首輪を手に取り、くるくると指で弄ぶ。鬼崎さんに向かってお前なんて嫌いだと、この首輪を投げつけてやれたらどんなにいいか。
でもこうなったのは自分のせいなのだから、それは出来ない。それに鬼崎さんのことが嫌いかと言われたら、気持ちが少し落ち着いた今はそう思えなかった。
だけどもう首輪をする気にはなれない。矛盾する気持ちが、悶々と胸に溜まった。
◇ ◇ ◇
「えっ! 鬼崎さんと喧嘩したの?」
「うん、まぁ・・・・・・喧嘩というか何というか」
週末明け、大学の食堂で久しぶりに楠木と昼を食べる機会があった。会って早々に「何かあった?」と目ざとく聞かれ、全てを話さざるを得なくなったのだが、さすがに尻にアレを突っ込まれたのが原因とは言いづらい。
「まあ、そうだよなあ。やっぱりペットになんてなれないって思ったんだろ」
「ちょっと、声がおおきい!」
馬鹿野郎と頭をこずくと、楠木はニヤニヤと笑う。
「はは、ごめん」
「真面目な相談なんだけど?」
「ちょー真面目に聞いてる」
「ほんとかよ・・・・・・」
鬼崎さんとはアレから気まずい状態が続いていた。家ではずっと鬼崎さんの顔を見ない生活で、夜は自室から出て来ず、朝は俺が起きる前に仕事に行く。
以前避けられた時とは違って、今回は俺に気を使っての事だろうと思うが。解決策が見当たらないので、以前よりもしんどい。
「でも、それなら住むとこどうすんの? ペット解消なら追い出されるんじゃねぇの?」
「・・・・・・そこなんだよな問題は。すぐに出てけってことはないんだろうけど、早めに新居を見つけないといけないかもしれない」
「あー、じゃあさ、ほかに当てが無いなら俺と住むってのはどう?」
「え、お前と?」
友人からの突然の申し出に、前のめりで食いつく。
「あれ、でも彼女と住まないの?」
「それがさぁ・・・・・・、彼女と別れたんだよね」
「ごふっ!」
口に入れたばかりのラーメンに盛大に咽せた。
その彼女って、俺が大切なアルバイト代をはたいてやったおかげでゲットした女の子じゃなかったかい?
そんなに呆気なく終わってしまうような関係のために、俺は知らない男に襲われかけたのか・・・・・・たまらず心の中で嘆く。
「早くない? なんで? すぐに別れられたら困るんだけど」
「あれだよ、あれ、性格の不一致ってやつかな~」
やつかな~、じゃないのよ。しかし俺の気持ちを知らず、楠木はあっけらかんと肩をすくめた。
「若者どうしのお付き合いなんてそんなもんでしょ」
「まだお互いのことを分かるほど長く付き合って無いだろ、たった数ヶ月で別れちまうなら飲み会代返せよな」
「んー? それは、お前と鬼崎さんだって同じことが言えんじゃねぇの?」
いきなりストレートを打ち込まれ、どきりとして箸が止まった。何も言い返せないまま、持ち上げた麺を無言で見つめる。
「あ、図星だ。どうせお前が突っ走ってドジ踏んだんだろ? ちゃーんと話し合えば大人の鬼崎さんは許して下さるさ」
励ますように背中を叩かれ、楠木の手を払った。
「許してあげるのは俺の方なんだけど?」
思わずキツい言い方になる。
「んな怖い顔すんなって。詳しくは聞かねえけど、そんな悩むならちゃんと仲直りしろよ。もし本当にどうしても駄目だって言うなら、さっきの話マジだから考えといて」
次の講義の時間のために、楠木は食べ終えると「じゃあな」と食堂を出て行った。その姿を見送ってから、考え込んだ。楠木に言われた言葉が頭の中でループする。
確かに俺は鬼崎亮平という男の事を何も知らない。何が好きで、どんな仕事をしているのか、年齢や血液型、誕生日さえ聞いたことがない。
あの日に見た一面だけで、鬼崎さんを判断したくないと思う。
でも仮に、あのような暴力的な趣味嗜好があったとしたら俺は受け入れられるだろうか・・・・・・。
チクンと胸が痛んだ。肝心な事は何も分からないくせに、鬼崎さんの優しい体温だけは身体がしっかりと覚えている。まだ怖いと思ってしまうのに、今朝も昨日も、触ってもらえないとやっぱり悲しいと思う俺がいた。
夜中の二十二時、俺は早めにバイトを上がった、と言うよりも無理を言って上がらせてもらった。まだ帰って来ると思っていないだろうから、部屋に戻る前の鬼崎さんを捕まえられる。
朝も夜も俺がいる時間には自室に籠ってしまうくせに、食事の準備や洗濯だけはしっかりしてあって、まるで家政婦のように振る舞う男に苛立ちが募りはじめていた。
姿を見せないからって、存在が居なくなるわけじゃない。家に中に感じる気配に、寂しい気持ちばかりが増えていくのだ。
俺はもう顔を合わせたくないなんて思っていない、鬼崎さんをちゃんと知って、矛盾する気持ちにケリをつけたいと思っている。気を使っているという体で逃げ回り、もう俺から距離取らないで欲しい。
煮えたぎる焦燥を抱え、ぎりぎりと軋んだ音が聞こえるほど強くハンドルを握り締めた。
「早く、早く帰らなくちゃ」
車道側の信号が変わった時点で、フライング気味にペダルに足をかける。五分ほど走り、明かりの灯った家の外観にほっと胸を撫で下ろした。
急いだ成果があったようだ。部屋の電気がついているのは一階のみ。予想したとおり、鬼崎さんはまだリビングに居る。俺は静かに玄関のドアを開け、気づかれないよう靴を脱いだ。
「蓮太郎?! おかえり早かったね。すまない・・・・・・俺はすぐ二階に行くから、蓮太郎はリビングでゆっくりして」
リビングに顔を出すと、鬼崎さんは見るからに焦った様子を見せた。テーブルの上に広げた私物を片付け出したので、その手を掴んだ。
「いいよ片付けなくて」
鬼崎さんの表情が固いものに変わる。
「離して?」
「やだ、離したら上に行っちゃうでしょ」
乱暴に腕を払い、そのまま行ってしまおうとする鬼崎さんをたまらずに抱き締めた。
何度も「離しなさい」と言う声に「嫌だ」と頑なに抵抗する。身体を離したらこの男は立ち去ってしまう、それがわかるから、動けずに立ち尽くした。
しばらくはそうしていたように思う。すると不意に鬼崎さんはため息をついた。
「蓮太郎は俺が怖いだろう? それなのにどうしようとしてるんだ?」
沈黙が破られ、どくんどくんと心臓が激しく鳴る。どうしようとしている? そんなの上手く言えない。今は鬼崎さんを引き止めることで精一杯だ。
「俺たち一緒に住んでるのに、顔も合わせないままじゃ嫌だよ。ちゃんと話そうよ。俺たち、お互いの事を知らなさすぎる」
「知ってどうする? 俺の事を許せるのか?」
「それは分からないけどっ」
鬼崎さんの見えない部分が怖い、でもそれと同じくらい、今まで見てきた鬼崎さんの姿が心を揺さぶってくる。だからもっと知りたい。俺の全部を見せるから、鬼崎さんも全部を見せてよ。そうして受け入れるための準備をさせて欲しい。
「蓮太郎。話す事なんか何もないよ、俺たちはただの同居人だ。この前は本当に申し訳なかったと思ってる。二度目の間違いが決して起きないように、今後一切、君に触ったりしないから安心して」
ただの同居人・・・・・・。完璧に突き放す言い方をされて、頭に血が上った。
「・・・・・・んだよ、それ。ちょっと襲われたくらい俺はなんともない、ほら!」
俺は力任せに肩を引き寄せ、向かい合わせになった鬼崎さんの口に唇を押しつけた。
誘うように歯列を舌先でつつき、唇を吸う。けれど鬼崎さんはされるがまま、応えてくれなかった。
猛烈な虚しさが押し寄せる、でも止められずに独りよがりなキスを何度も繰り返した。
唇を離すと、表情のない瞳で見下ろされる。
「気が済んだ? 蓮太郎」
途端に涙が込み上げた。唇を噛んで、溢れないように必死に堪える。
「なんでそんな事言うんだよ・・・・・・ペットになれって言ったのはあんたじゃないかっ! ペットって、そうゆう意味じゃ無かったのかよ・・・・・・俺は何のためにこの家に居るんだよ・・・・・・」
「変な条件を出したせいで混乱させてしまったね。重ねて謝る、すまなかった」
その謝罪を聞いた瞬間、玄関に走り、置きっぱなしになっていた首輪を鷲掴みにしてリビングに戻った。独りよがりなのだと分かっていたが、鬼崎さんの前でそれを首に巻き付けて見せた。
「首輪・・・・・・首輪ちゃんと付けるから・・・・・・何でもするから・・・・・・だから突き放さないで・・・・・・」
最後の方はほとんど声にならなかった。指が震えて金具がガチャガチャ鳴り、悲痛な叫びは不快な金属音に混ざって消えてしまった。鬼崎さんの手に首輪をそっと外され、突き放した言葉とは裏腹に優しい声色で俺に言う。
「蓮太郎は何もしなくてもいいんだよ。こんな物しなくても、これからもここで暮らしていいから」
ヒュっと乾いた空気が喉を通った。残酷な優しさは胸を深く抉り、呆気なく俺を拒絶する。俺は鬼崎さんの胸ぐらを掴み、「大嫌いだ」と思ってもない言葉をぶつけて見上げた。鬼崎さんは一瞬目を見開いて、何も言わずに顔を伏せる。
「・・・・・・そうだよね。うん」
鬼崎さんは俺を責めなかった。それが一番、俺にとっては辛かった。
翌朝、俺は早く起きて鬼崎さんの自室を訪れた。すでに目を覚ましていたのか、ノックをするとすぐに返事が返ってくる。入って話をしようと思ったけれど、自分が今どんな顔をしているのか不安で見られたくなかった。
だからドアの前に立ったまま、極力冷静に声を絞り出した。
「鬼崎さん、俺はこのうちを出て行きます」
ドアの向こうで、鬼崎さんの息を呑む音が聞こえた気がした。耳をそば立てれば、直ぐ近くにいると分かるのかもしれない。
「今すぐに住める場所はあるのか?」
「ええ、友人と一緒に住むことにしたので」
「・・・・・・そうか」
その後、数分待っても、それ以上の反応は無かった。ドアに背を向けると、後ろから「いろいろ、すまなかった・・・・・・」と消え入りそうな鬼崎さんの声がして、唇を噛む。
「荷物は後日取りに来ます。今までお世話になりました」
俺はドア越しに頭を下げて、荷物を取りに部屋に持った。昨晩のうちに、大体の荷物の整理は済んでいる。日常の生活で使う物は全てボストンバッグに詰め込み、あと残っているのは、季節外れの冬物の服が数枚と読んでない本、あとは『首輪』。
擦れて、色褪せた深い緑色。いつのまにか身体の一部みたいな存在になっていた大切なもの。でももう自分には必要無い。
「バイバイ」
首輪をそっと机に置き、部屋を出た。
自転車に跨り、ペダルを漕ぎ始める。徐々に遠くなっていく男の家を、振り返らずに前に進む。
これで良かったんだと思う、お互いに求めてしまうことでお互いを傷つけてしまうなら、一緒に居ない方がいい。
ほんの少し前までは、家を出ることになっちゃうなんて思いもしなかった。馬鹿みたいに浮かれて犬の真似なんかして・・・・・・。
「だけど、もう一回だけあの手で撫でて欲しかったな」
自転車を止めて下を向いた、風が吹いて、濡れた頬が、ちょっとだけ冷たく感じた。
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