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こころざしぐらぐらな春②

 堀越くんと出会ったのは幼稚園時代のことだ。ある日の自由時間、ぼくはテーブルに突っ伏していた。すぐ目の前には、憧れの恐竜図鑑。ほんの目と鼻の先にあるそれに手出しできない惨めさに打ちひしがれていた。というのも、それはクラスのボスであるヨシキくんの席に置いてあって、彼の断りなく触ってはいけないという決まりだったからだ。恐竜図鑑に限らず、学級文庫は全てヨシキくんの管轄で、選ばれし配下達以外は自由に触ることが出来なかった。だがぼくは選ばれし配下ではなくただのドベだったのだ。『いいなぁ……』と声を出してつぶやくことすら許されていなかった。  ところがそこへニョキッと手が伸びてきて、ヨシキくんの席から禁断の恐竜図鑑をさらっていった。あまつさえその手の持ち主はその場で図鑑をパラパラとめくり始めたのだ。 「そっそれっ……!」  思わず顔と声を上げたぼくに、彼……堀越くんは微笑みかけた。顔だけは以前から知っていた。でも、同じクラスなのにそれまで一度も話したことさえなかった。なのに堀越くんは友達に話しかけるときの様な自然体で言った。 「読みたいの?」 「読みたい読みたいっ!」  二つ返事で言ったぼくに堀越くんはシーッと人差し指を立てた。 「じゃあ、あっちで読もう」  堀越くんの後について、ピアノに向かった。ピアノの椅子はぼくには高かったけど、よじ登るのに堀越くんが手を貸してくれた。そして譜面台に恐竜図鑑を広げてくれた。 「これなら二人で見れるでしょ」  その発想はなかった!  以来、自由時間には堀越くんとピアノで本を読むのが日課になった。堀越くんはいつも学級文庫に音もなく近づくと、ぼくが読みたいと言った本をサッと抜き出してきてくれた。その間彼は透明人間になったかのようで、ぼく以外の人には姿が見えないようだった。ぼくが同じことをすればヨシキくんとその配下にボコボコにされるのは間違いないのに、堀越くんは一つも咎められずにやってのける。二人でピアノの椅子の上で肩を並べていても誰も何も言わなかった。堀越くんの隣にいると、見えないバリアーに守られているみたいだった。  けれど、堀越くんは夏休みが終わってしばらくした後、忽然といなくなってしまった。なのに堀越くんがいなくなった事をクラスの誰も気にしている様子がなかったし、ぼくの母などそんな子が同じクラスにいたなんて知らないというのだ。しかも、卒園アルバムにさえ堀越くんの写真も名前も載っていなかった。  母は、堀越くんというのは友達がいなかったぼくが心の中に作り出した空想上の友達なのではないかなんて言った。子供にはよくあることだと……。  ところが。高校入学直前の春休みも終盤だったあの日、ぼくらの住む市のランドマーク的な百貨店の五階の本屋にてぼくと堀越くんは再会した。顔を合わせた瞬間あっ堀越くんだ! とぼくは思ったし、堀越くんは堀越くんでぼくを即座に顔見知りだと認識したばかりかまるで旧知の友人にするかのようにニヤリと笑ってみせた。  ぼくらの目当ては同じだった。レジの正面にある文庫本が平積みされている場所。『県立○✕高校 春休み課題図書』とデカデカと書かれたポップが下がっており、そこでぼくと同じくらいの年頃の男達がジャンケンをしていた。残り一冊の『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』をめぐって戦っているのだ。でもこんなの先に買ったもん勝ちじゃないかな? いやそういう訳にもいかないよなぁーそうだよなー。だって新学期からコイツらがクラスメートになるのかもしれないし。チラッと堀越くんを見ると、彼はちょっと待ってなという様に片手を上げ、ゆったりとした足どりで歩き出した。そしてジャンケンに熱中する奴らの脇を通り過ぎざまにテーブルからサッと『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』を掠め取りレジに向かった。 「ありがとうございましたー」  店員の気怠げな声を背にこちらに向かって歩いて来た堀越くんは、ぽかんと立ち尽くしていたぼくのところへ歩いて来ると本の入った紙袋をぼくの胸に押し付けて、 「行こ」  と、肩に腕を回してきた。ようやくジャンケンしていた奴らがお目当てのものが無くなっていることに気付いて騒ぎ始めたとき、ぼくらはといえば素知らぬふりで通路を行き交う人々に紛れエスカレーターを目指し歩いていた。 「それ、増田くんにあげる」  まるで百年来の付き合いであるかのような口調で、しかもぼくの苗字を堀越くんは正確に言い当てた。 「いいの? でも……」 「その代わり、国語のレポート写させてくれよな」 「えぇ……」  ゆっくりと降りてゆくエスカレーターのすぐ横には鏡みたいに人の姿がよく写る壁と柱があって、そこに映ったぼくと二段後ろに立っている堀越くんの姿はまるでずっと昔からの友達のように見えた。 「なんか腹減らない?」 「ロッテリア行く? おごるよ。本買ってもらっちゃったし」 「いんや、本のお代はレポートだからいいよ」 「でもぼく、レポートなんか書いたことないから何書いたらいいのかわかんないよ」 「マジかよ?」 「ただ感想でも書けばいいのかな?」 「じゃあ、食いながら一緒に読んで考えるか」 「うん……うわっ!」  堀越くんの方を向いていて前方不注意になってヨロけてしまった。堀越くんはトントンと降りてきてぼくを抱えると軽いステップでぼくごとフロアに着地した。 「お前、変わってないよな」  そう言って目を細める堀越くんの表情は昔のままだけれど見た目は変わった。背が伸びて、少しかっこよくなった。

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