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1.いつか一緒に

  「あーもぉ面倒くさい」  洗練された広い空間で、女性の愚痴が溢れる。  業務中だというのに愚痴をこぼした声の主は隠すつもりもなかったようで、周りの耳にも易々と届いた。 「ほーんと、何で私達がこんな事しないといけないのかしら」 「奥様も勝手よ。こんな無駄な事を私達にさせるなんてさ」  最初の愚痴に同調して共に作業していた女も不満気に言葉を並べる。  二人共に色鮮やかで右肩を出した薄い素材のワンピースをまとっている。一見するとサリーのようだが足元は腰布を足の間を通して巻いていた。  彼女らは二人でペアとなりベッドに横たわる男性の世話をしていた。それなのに無遠慮な言葉を吐くのは、世話をされる男性の意識が無いからだろう。  ここは国内でも名のしれた資産家の屋敷。数えるのも困難なほどある部屋のうちの、日当たりの良い最上階の部屋だった。  床は複雑な刺繍が施されたアラベスク模様の絨毯が敷かれ、広い部屋には凝った造りの家具がセンスよく置かれていた。  ベッドのすぐ横にはバルコニーが広がり、開け放たれた窓から心地よい風が吹き抜ける。 「もぉ、なんでこの人こんなに大きいのかしら」 「ねー、動かしにくいったらないわよ」  そんな中、一人がよいしょと男の体を横に転がし、また愚痴をこぼす。  もう一人が男の背中を拭きながら笑う。拭いていた背中に落ちてきた男の腕を邪魔そうに退けながら。  世話をされる男性は背が高かった。  きっと元気なうちであれば長身は長所になる事が多いだろう。  すらりと伸びた手足に憧れる人も多い。男性となれば特にだ。  しかし介護される側になると、とたんに長所は短所になる。  移動も更衣も清拭も、大きければ大きいほど困難になるからである。 「うげー、汚れてる」 「わっ、ほんと! やだー」  途中、悲鳴に近い声が上がる。すると横に向けていた男の体をやや乱暴に仰向けに戻し、女は背後にいる青年へ声をかけた。 「リク、あとよろしくね」 「あ、はい。分かりました」  リクと呼ばれた青年は持っていた箒を壁に立てかける。そして手を洗いベッドへと駆け寄った。  男性の体を拭いていた二人はすでにベッドから離れ、仕事の愚痴を言い合いながら楽しそうに部屋を出ていった。 「お下きれいにしますね」  リクと呼ばれた青年は、正しくはターリクとの名を持つ。  しかし皆リクリクと呼ぶので正しい名前を知らない者も多いし、ターリク自身も特に気にしていなかった。  赤茶色の癖のある髪は短く襟足あたりまでだ。瞳は黄色で光の加減によっては金色にも見えた。  身長はこの国の平均より少し小柄で、さして珍しくもない見た目の彼は屋敷で清掃係として働く十七歳の青年である。  女性達と同じような素材の腰布は膝丈で、足の間を通してズボンのように巻いてある。上はチュニックにベストだ。  そんなリクは足首まである大きめのチェニックを開けっぴろげにされたままの男に声をかけてから体に触れる。  近くには男性を着飾っているはずのネックレスやピアス、腕輪などが置かれているが、付けているのを見た事はない。  おそらく付けるのが面倒になり、放ったらかしにされているのであろう。  リクはそんな事を考えながら水に浸した布を軽く絞り、横たわる大きな体を横に向けて汚れた下半身を綺麗にしていった。  汚れが布に付かなくなるのを確認したら下穿きを新しくして手を洗い、服もきれいに整える。  髪を梳いて後ろに流せば、この国独特の癖のある髪が艶を増した。 「相変わらず綺麗な黒髪ですね。まるで腕のいい料理人が煮た高級な黒豆みたいです」  最後に体を軽く横に向け、薄いクッションを間に挟む。床ずれを予防する為だ。 「お疲れ様でした。綺麗になりましたよ」  リクは何度も男に声をかけるが返答は無い。まぶたは閉じたままで、何をされても眉一つ動かさない彼は聞こえているかどうかも分からない。  それでもリクは必ず、何をするにも彼に声をかけた。  ベッドで眠る男はまだ若く、二十四歳だとリクは聞いている。  癖のある黒髪は肩のあたりで切りそろえられていた。リクが切ったものだ。  あまりにも伸びっぱなしだったから周りに許可をもらってリクが切った。前髪のないおかっぱみたいになってしまったが、ボサボサよりはマシだろうと思っている。  髭も二、三日に一度リクが剃っていた。  彫りが深く高い鼻からは管が入っており、胃に繋がっている。食事の代わりに栄養を流し込むための物だ。 「ちゃんとお通じがあって良かったですライル様」  寝たきりになると便秘になる人が多い。だから今日も体調が良さそうで良かったとリクは男に話しかけた。  広く豪華な部屋の主、ライル・ナジャーハ。  この屋敷の嫡男で、いずれはナジャーハ家の主になるはずの人物だった。  それも、一年前の話であるが。 「風が気持ちいいですね」  一年前、ライルが落馬し頭を打ち付け、それからずっと寝たきりなのだとリクは聞いていた。  資産家の大事な嫡男。ただの清掃係だったリクはそれまで顔すらまともに見たことも無かった。  それが今ではどうだろうか。家族でもそう見ないだろう場所まで手入れをする毎日である。  この部屋だって、清掃係の間でも上の者しか出入り出来なかったのだ。  しかし部屋の主の将来が見通せなくなった途端に、下っ端の者に回ってくるようになった。  なんせ部屋の主はどれだけ手入れをしても手を抜いても、何も見ていないのだ。おまけに家族もほとんどこの場に訪れない。リクも家族がライルに会いに来た所は見た事がなかった。  変わってしまった家族の姿に胸が締め付けられ、悲しみに耐えられず会えなくなってしまったのか、それとも…… 「明日は暖かくなるそうです。水菓子が美味しいでしょうね」  家族の辛さは計り知れない。関係のない自分が勝手に憶測を広げるべきでは無いだろう。 「それでは、また後で体の向きを変えに来ます。風が気持ちいいから窓は開けておきますね」  大きな手を握り語りかける。もちろん握り返される事など無いが、リクは出来るだけ手を握るようにしていた。  そして一方的に会話をしながら簡単に関節の曲げ伸ばしをして、リクは掃除を済ませ部屋を出た。  リクがライルの世話をするようになったのは半年前ほどの事だ。  ライルの部屋の掃除を誰もしたがらなくなり、下っ端のリクに仕事が回ってきた。  そこで見た侍女達のライルへの介護の仕方に手を出さずにいられなかったのだ。  おそらく、元介護員としての記憶がそうさせたのだろう。  リクは、どういうわけか前世の記憶があったのだ。  かと言っても前世で介護職に就いていた記憶が何となくあるだけで、どんな人生だったか、どんな人格だったかなんて思い出せない。  ただ、よっぽど長い間介護職をしていたのか介護の記憶だけはわりとしっかり残っていた。 『あらアンタ手際が良いじゃない。今後はアンタがお下の世話しなさいよ』  汚れた下半身を嫌そうに眉間にシワを寄せながら力任せに拭く侍女。その侍女に代わりコツを伝えながら洗浄していたらこれ幸いとばかりに押し付けられた。  その日からライルの介護を受け持つようになった。  この世界は中東に似た世界だった。しかし前世で育った世界より文化が進んでいないようで、医療も随分と遅れている。  平和ボケした日本よりシビアな世界で、もし一般市民がライルと同じ状態になれば長くは生きられないだろう。  鼻から管を入れて栄養を摂らせてまで、将来の無い者を生かしてもらえないからだ。  しかし意識が無く寝たきりになってでもライルが生きていられるのは、名だたるナジャーハ家の嫡男だからこそと言える。  中にはそこまでして生かして何になるのだと、厳しい言葉もあるという。  それでも家の者の誰かが望めばどれだけ将来への希望が無くとも生かされる。それだけの力があるのだから。 「こんばんは」  夜になり、リクは本日何度目かのライルの部屋を訪れる。  手には固く絞った清潔な布を持って。リクは布でそっと顔を拭き、体の向きを変えた。 「今年もそろそろ、ミランの花が咲きそうです」  春になると咲く薄桃色や黄色の花。コスモスにも似たその花はこの世界で春を代表する物であり、屋敷の中庭にも多数植えられている。  彼が寝たきりとなったのも春。毎年当たり前のように見ていたであろうミランの花を見れなくなるなど、彼も想像していなかっただろう。  それでも…… 「一斉に咲いたら豪華な折り菓子のようで、きっと綺麗ですよ」  いつか目覚めるかもしれない。可能性は極めて低いと分かっているが、前例がないわけじゃない。  もしかしたら数年後、一月後、明日、いや、たった今からでも目覚めるかもしれないじゃないか。 「いつか、一緒に見られたら良いですね」  リクはバルコニーから中庭を眺め、毎年咲き誇る花々を想像して微笑んだ。  夜になると頬を抜ける風は冷たい。リクは一息ついて窓を閉め、自室に戻るため戸に向かった。 「………………──」 「え……?」  出る直前に背後から何かが聞こえた気がして、リクは振り返る。  しかし、月明かりに照らされた部屋はいつもと変わりない。 「……?」  リクは気のせいかなと首を傾げて、静かな部屋を出ていった。 「──…………そう、だ……な……」  静まりきったはずの部屋で、掠れた声が話しかけてきた事も気づかずに。  その日の晩、屋敷が騒然とする。  

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