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2.目覚め
「異動……ですか?」
「あぁ、と言っても前の仕事場に戻るだけだがな」
日が昇る前の早朝。いつものように仕事場に行こうとしたリクを男が呼び止めた。
なんだか今日は屋敷の雰囲気がいつもと違うなと思っていたリクに異動の知らせだ。
ナジャーハ家の者が避けるように寄り付かなくなったライルの周辺。そこが昨日までのリクの担当だった。
けれど今日からは以前のように厨房や使用人達の通路の掃除、庭の草むしりに戻るようにとお達しであった。
「……分かりました」
突然の異動に多々訊きたい事はあるが、尋ねた所で答えてはもらえないだろう。
何よりこの男も詳しくは知らないかもしれない。清掃係の管理者ごときでは屋敷内の情報など精細には伝わってこない。
おそらく更に上の者からのお達しをリクに伝えに来ただけだろう。
「じゃあ今から向かいますね。先に厨房からでいいですか?」
「あぁ宜しくたのむ。つまみ食いするなよ」
「しませんよー」
たぶん……と小さく付け加えてリクは厨房へと向かう。
久しぶりの厨房は以前と特に変わった所もなく、リクはさっそく手慣れた様子で床を磨きにかかった。
料理人達が来るまでに終えなければ嫌な顔をされてしまうからだ。
「おやリク、久しぶりだねぇ」
「お久しぶりですシーリンさん。今日からまたここの担当になりました」
あらかた床の掃除を終えた頃、年配のふくよかな女性が厨房へと入って来てリクに声をかけた。料理長の妻で野菜の下処理を担当するシーリンだ。
白髪交じりの茶髪を三編みにしてストールを巻いている。
誰よりも早く厨房へやって来る彼女は、以前は毎朝リクと顔を合わせていたので自然と仲良くなった。
そしてリクはこの女性が大好きだった。それと言うのも、
「ほらリク、あんたの好きな菓子の切れ端だよ。お食べ」
「えーそんな僕なんかが悪いですよ!」
と言いながらしっかり手は出すリク。
そんなリクにシーリンは笑いながら菓子の切れ端を手渡した。
成人する前から働いていたリクに、シーリンは何かと世話をやく。特に食べざかりを過ぎても食べる事が大好きなリクだったので、いつもこっそりつまみ食いさせてくれるのだ。
しかしこれはつまみ食いじゃない、味見なのだと自分に言い聞かせ、リクはご満悦な様子で菓子を頬張った。
「食べたらしっかり掃除しておくれよ」
「はい! 誠心誠意掃除させていただきます!」
「相変わらず現金な子だねぇアンタは」
幼い頃から世話になっているからか、未だリクを子供扱いするシーリンは呆れたように笑う。
リクもシーリンの前ではつい子供のように甘えてしまうが、シーリンもそれで楽しそうなので勝手に良しとしている。
「ところで今日来たとき何だか屋敷内の雰囲気がいつもと違うような気がしたんですが、シーリンさん何かご存知ですか?」
「さぁねえ。私も来たばっかりだから分からないよ。旦那なら何か聞いてるかもねぇ」
「そうですか」
確かにシーリンの旦那ならば、屋敷に何かあったのならば話がいくだろう。なんせ屋敷の料理を任せられている料理長なのだから。
「じゃあ、夕食後にまた来ますので、その時に……」
「そうだね。何か旦那から聞いたら教えてあげるよ」
そう言ってシーリンと別れたリクだったが、予想に反して随分と早く真相を知る事となる。
「ねぇねぇ! ちょっとリク聞いた!?」
「え、あ、お久しぶりで──」
「まさかよねっ!」
「は、はぁ……?」
久しぶりに会った侍女から挨拶もそこそこに詰め寄られ、リクはたじたじになった。
とにかく話したくて仕方ないといった様子の若い侍女は興奮を隠さない。
いったい何が彼女をそこまで興奮させるのかと黙って聞いていたら、彼女の口からは信じられないような事実が語られた。
「ねぇまさかリク知らないの?」
「たぶん……何か大事でしょうか?」
「やっぱり知らないのね!」
リクが知らないと知ると彼女は嬉しそうに顔を輝かせる。どうやら自分が知らない人に第一に説明できるのが嬉しいらしい。
「あのねリク、驚かないでよ」
もったいぶったようににやりと笑う侍女。リクはなるべく驚いたふりをしてあげようと思いながら言葉を待った。
「なんとね……なんと、ライル様が目覚めたのよぉっ!」
「えぇっ、ホントに──っ! ……え、それホントですか……?」
驚くふりをしようと構えていたリク。しかし、人間あまりにも驚くとかえって大きな声は出ないらしい。
少し間抜けな声を出してポカンとするリクを見て、侍女は面白そうに笑う。
「ホントよホント。ねー、びっくりでしょ? もう屋敷中みーんな噂してるんだから」
「そ、そうなんですか……」
ライルが目覚めた。一年間も目を覚まさなかったライルが。指一本どころか眉一つ動かせなかったライルが。昨日まで自分が介護していたあのライルが……
「……お目覚めになられた」
まだ信じられない気持ちが大きいリクだが、周りを見渡せば皆興奮した様子でささやき合っている。
警護の者まで話に夢中になるものだから、しまいには各職の支配人が「仕事をしろ!」と怒鳴る始末。
散り散りに離れていったように見えたが、その後も仕事をしながら皆噂話を飛び交わす。
リクは一人で窓を拭きながらそっと噂話に耳を傾けた。
どうやらライルは昨晩に目を覚ましたようだ。
とは言えずっと寝たきりだったライルはすぐに動くのは難しいらしく、ベッド上で少しずつ体を慣らしているらしい。
「あのライル様が……」
つい昨日まで寝たきりの姿を見ていたリクにとってはとても信じられない話だった。
だが、噂が本当であれば納得もいく。
誰も寄り付かなくなった意識のない屋敷の子息の部屋ならまだしも、実権を取り戻した子息の部屋を下っ端のリクが担当出来るはずもない。
きっとまた、年配でベテランの、ついでにプライドの高い清掃係のお局が担当に戻ったのだろう。
いきなり異動になったのもそういう理由だ。
「よぉリク、久しぶりだな」
「お久しぶりです」
窓の外から同年代の使用人に声をかけられにこやかに返す。
見知った使用人達と久しぶりに会話を交わして仕事を進め、最後の窓を拭き終えた。
「次は厠か……」
汚れた布を洗い、やれやれと伸びをする。その際に視界に入ったのは、白壁に赤く丸い独特な形をした飾り屋根の宮殿のような屋敷。
その一角の最上階には、今も彼が居るのだろうか。
昨日までは毎日出入りして掃除をしていたが、きっとこれからは行く機会など無い。
突然、遠い存在となったナジャーハ家の嫡男。しかし、元から住む世界が違ったのだ。
そう自分を納得させ、今後はめったにお目にかかる事も無いだろうと少し寂しさを覚えながら、リクは以前の日常に早くも馴染んでいった。
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