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1 日常と出会い

 風化するという言葉は本当に物事をよく表していると、祖父は語る。  正直なところ、その感覚はミランにはわからなかったが、ミランの祖父は風化する危機感を強く覚えているようだった。  風によって少しずつ削られていくように、なにかがなくなっていくときの焦燥感はなんとなく理解できても、四十年前の体験してもいない話をされても、あまりピンとこないのが正直なところだ。 「食うものも限られて、こんなにちぃちゃい芋でも食べたもんじゃ。待てば大きくなるとわかっていても食べずにおられんでのう」  言いながら、祖父は手に乗せたグミを指先でころころとつつく。すっかり髪が薄くなった老人がする仕草としては哀愁が漂いすぎていて、ミランは小さくため息を吐くと、読んでいた本にしおりを挟んだ。  祖父のすぐ横のサイドテーブルの上、むなしく空になっていたカップに紅茶を注ぎ、「おかわりだよ」と勧める。 「おお、すまんの。お前も食うか?」 「今はいい」 「そうかい」  手に乗っていたグミを、まるで薬でも煽るかのように一息に口に含む。窒息しやしないかとハラハラしてしまうのは、祖父がもうけっこうな年齢だからだ。  ミランの三倍は生きていることを思うと、いつお迎えがきても不思議じゃないと思う。平均寿命を超えていることを思えば十分すごいのだが。 「甘いのう。茶がうまいわい。しかしこれは何味だったかの」 「……」  固形物を食べられる祖父に安心すればいいのか、味覚がなくなっていそうなことを嘆けばいいのか。はたまたわかりにくいブラックジョークをかますことを怒ればいいのか。  パッケージの果物をちらりと見ながら、ミランは暖炉の灰を掻くため立ち上がる。  温かい空気が上に上ってしまうせいで、木造のこの建物は温かいとはいい難い。天井は特別高くはないものの、やはり足元は底冷えする。  商品にとっては寒いほうが保管にはいいが、働く身としてはやや困る。  窓の外ではしんしんと雪が積もっていた。冬も本番で、今がいちばん寒い時期だ。 「冬になる前に戦争が終わったのは救いじゃった。長引けば寒さでみんな凍え死んでしまうところじゃったよ。ほんに、騎士様たちには感謝せねばなあ」 「感謝ねえ……」  ミランの冷めた相槌を察したのだろう、祖父は「いい騎士様もいらっしゃるんじゃよ」とたしなめた。  祖父がどれだけ恩を感じているかは別として、ミランは騎士に良い印象なんかない。高給取りだかなんだか知らないけれど、態度がえらそうだし、やたら身体が大きいし物々しくて怖い。  この店での態度も酷ければ、酒場でも大声で武勇伝を話しているから、正直なところ辟易していた。 「緑のマントを靡かせて、颯爽と馬に乗る姿の美しいことよ。ミラン、お前も一度、騎士様の遠征帰りの凱旋を見てみたらいいじゃろ」 「興味ないよ。現実よりもおとぎ話で十分だ」 「お前はそればかりじゃのー」  ミランは暖炉から離れて、陳列を少し直すとまた定位置に戻る。  入口と店内を見渡せる、店の一番奥。棚下の金庫にすぐ手が届くカウンターのところだ。  家に続く小上がりでのんびりとラジオを聞いている祖父の視線を後頭部に受けつつ、本を手に取った。  古本屋で手に入れた、騎士フリューゲルの物語。ミランは飽きもせず、このシリーズを読んでいる。  道具屋の一人息子として一日の大半を店番として過ごすミランにとって、物語はつかの間の幻想だ。    本の中ならミランは空だって飛べる。魔法も使えるし、剣を振るって敵を倒すことだってできる。  誰かのために戦うことも、正義を守ることだって自由だ。  雪が多くて客も来ないような日の退屈を紛らわせるにはこの上ない娯楽だ。 「しかし今年はよく降るのう。雪かきが大変じゃろう、すまんなあ」 「気にしないで。いつもなら父さんもいるし」 「あいつ、この雪だと今日は足止めじゃろうな。戻りは明日になるじゃろうて」 「そうだね。商品に何かあっても困るし、そうするんじゃないかな」  仕入れのために三つ離れた港町に行っている父は風邪を引いていないだろうか。帰ったら母特製のしょうが湯をたっぷり飲んで休ませてやりたい。  祖父が昼寝の為に家に戻っていき、ミランは一人になる。  大粒の雪が外の音を吸い込むように落ち続ける。  ラジオを消していると、暖炉の火がおこすパチパチという音がやけに大きく聞こえた。 「……静かだなあ」  独り言もこぼれるというものだ。  そうのんびりしていたら、ふと店のドアが開いた。  さあっと冷気とともに、小さな影が雪をまとって駆け込んでくる。 「ひゃあ、きょうはさむいわね!」  大人顔負けに言葉を話すのは近所に住むミアだった。針子の母と二人暮らしで、会うたびに口が達者になっている。  雪を払うミアの鼻の頭は、寒さで真っ赤になってしまっていた。ミランは暖炉の前で手招きして、少し冷めてしまったが紅茶を出してやる。 「寒そうだ。一人で来たの?」 「ママはおしごとだもん」 「こんなに雪の強い日は、おうちでおるすばんって言われてるんじゃなかったっけ?」 「え? ……えー……あ、あったかーい。おいしいわ、ありがとうミラン!」  下手なごまかしだったが、ミランは肩を竦めるだけで口をつぐんだ。  たしなめるとかそういうのは、口が上手い人だけができることだ。ミランの得意なことではない。  ミアは足をぷらぷらさせて、カップを両手で覆うように暖をとっている。  鼻水をすすっているのがかわいそうで、ちり紙を出してやるとにぱっと笑った。  子どもの笑顔は太陽みたいで、高い声もあって部屋が暖かくなったようだ。ミランもつられて口元をすこしほころばせた。  しかし、ミアは唇を尖らせて眉をぎゅっと寄せる。 「いまね、ママ、帰りがすっごくおそいの」 「そうなの?」 「朝ごはんはちがうんだけど、昼も夜もおんなじスープなの。ミア、一人でたべるのさみしくって」 「作り置きってやつかな……? そんなにお仕事忙しいんだね」 「うん。でもはなす時間もないからよくわからないの」  今年の冬は例年にない雪の量で、それに伴い寒さも段違いだ。もしかするとそれで服の需要が上がっているのかもしれない。  ミランはあまり詳しくないので言及は避けたが、ミアが一人に耐えかねてこの場所に来たことは予想がついた。  どんどん雪が降るせいで凍っている場所は少ないものの、小さな子どもが外出するには足元が悪いので心配だ。  帰りは送っていったほうがいいかと考えていると、また店のドアが開いた。 「いらっしゃいませ……、うわ」  呼びかけたミランの語尾が自然と下がった。体を屈めるくらいに大柄な人物が入ってきて、あまりにも驚いたからだ。  外套のフードの下から現れたのは見事な金髪で、ミランは眼鏡の奥の瞳を丸くした。 「おっきーい……」  ミアがぽかんと口を開けて新たな客をそう評価する。子どもは正直だ。  小声とはいえ「うわ」なんて言ってしまったミランが言えた義理でもないが。  客はミアのささやかな声にも丁寧に反応して、クスリと笑い「こんにちは」と低い声で呟いた。 「ここの子?」 「ち、ちがうわ。ミアのママはお針子をやってるのよ」 「遊びに来てるのか。外は寒かっただろう」 「う、うん……」  ミアはすっかり客に見惚れているようで、目がハートになっている。小さくっても女の子なんだなと、ミランは人が恋に落ちる瞬間を見てしまった心地だ。  長い脚を包んだブーツの底が重たい音を店に響かせる。その物々しさは、ミランにどこか騎士を思い出させた。  客は店内を一周して、「ふむ」と顎に手を当てた。 「思った以上に品ぞろえが良い。仕入れはどなたが?」 「父、ああいえ、店主です。今日は留守ですが」 「そうか。是非顔を拝見したかったが」 「……? お知り合いでしょうか?」 「いや、会ったことはない」  そのなぞなぞのようなやり取りは、ミランに不信感を抱かせるのに十分だった。  外套で隠れていても、体の大きさと厚みはよくわかる。騎士にしては物腰は柔らかいが、体の片側に少し重心を置いた歩き方をするのは、いつもは剣を佩いているからではないだろうか。  商品の一つを手に取る手はごつごつとしていて、体を鍛えていることがわかる。  ミランの視線を感じたのだろうか。客はふと顔を上げると、手に持った商品をそのままにカウンターまでやってきた。 「これをもらおう」 「はい……80ユノです」   客が買ったのはけん玉だった。子どもが遊ぶおもちゃだ。ミランもちいさいころやってみたが、指の上に玉が降ってきて怪我をしてから、一度だってやったことはない。  ちょうどの代金を払うと、客はミアに向かってウィンクをした。 「見ておいで」  こんこんこんと手首を返し、丁寧に皿の上に玉をのせていく。危なげない手つきは明らかに馴れている。  ごつい手が子どものおもちゃを巧みに操る様はいっそ違和感さえあったけれど、行動は目の前の少女に対する慈愛に満ちている。 「何か歌ってごらん」  「お歌? ……えーっとね」  ミアが雪国の子どもなら誰でも知っている歌を口ずさむ。客の手はそれに合わせて、けん玉を放り投げたり玉をひっぱってみたりと華麗に動く。  小さな子どもの歌だ。つっかえてしまっても、客は楽しそうにミアに先を促した。  ミランはそれを不思議な心地で見ていた。ミアの笑顔がきらきらと輝いて、母親といる時みたいにはしゃいでいる。  自分ではこの表情をさせることはできなかっただろう。思いやりにも種類があることに、ミランは初めて気が付いた。  しばらくして、客は「けっこう暑いな」とマントの襟ぐりを寛げた。中に着ていたのはなんてことのないシャツで、騎士服ではない。 「お兄さん、すごーい!」 「はは、お兄さんか。おじさんには見えてない?」 「見えないわ! かっこいい、ミアもやりたい!」 「いいよ、教えてあげよう。まずはここを持ってごらん」  朗らかなやり取りは続く。  ミランはその隙に、家に戻り紅茶を入れた。  母お手製のスパイスクッキーを添えて、二人に出す。  ミアは以前食べたこの味を覚えていたらしく、「あまいのにぴりっとする、おとなの味ね!」と背伸びしつつ、紅茶で流しこもうとしてあわや火傷するところだった。 「ミアにはお砂糖の方がよかったよな。ごめんな、そっちはじいちゃんが十時のおやつに全部食べちゃったみたいでもうなかった」 「ううん、だいじょうぶ。あ、でもママが、ミランのところでおかしをいただくのはダメって言ってたんだった……」  お礼を用意する余裕がないからということだろう。ミランは口元に指を立てて、ミアに微笑んだ。 「ママには秘密な。さ、ミア、これ飲んだらもう帰りな。そろそろ暗くなるから」 「えー……まだけん玉やりたい」 「帰ってきてミアが居なかったら、ママ、びっくりするだろ?」 「むー……」  ミアは頬を膨らませている。ぱんぱんに張った頬が滑らかで、雪だるまみたいに可愛らしい。  なりゆきを見守っていた客は、ふとクッキーを齧るとはっと声を上げた。 「美味しい。これは売っているのか?」 「衛生管理の資格は取っていないんですよ。なのでこれは家用です」 「そうか、残念だ。シナモンとジンジャーと……クローブ? あと何か入っているような。いい味だ」 「オールスパイスですね。あとはブラウンシュガーをたっぷり」 「ああ、この香ばしさはブラウンシュガーか。どうりで」  大きな口でちまちまとクッキーを食べる姿は小動物の食事のようだ。ミランはさっき感じた不信感をよそに、よければとクッキーを何枚か包んだ。  父の晩酌のつまみだったが、少なくとも今日は帰ってこないだろうし、母にはまた焼いてもらうとしよう。  のろのろと帰り支度をしていたミアは、客のマントの袖をちょこんと掴んで上目遣いになった。 「お兄さん、また会える?」 「どうかな。縁があったら会えると思うが」 「えんってなあに?」 「ん? ……そうだな、運命の糸がつながってたらってことかな」 「うんめいの、いと?」  ミアの語尾はすっかり上がり、その全身から疑問の気配を表していたが、客はふっと口角を上げると、ミアの頭を撫でた。 「君にこれをあげよう。次会う時は上手になっているところを見せてくれよ」 「え! いいのっ!? やったー!」  けん玉をもらったミアは、胸のところでそれを抱えてぴょんぴょんと飛び跳ねた。いつも母を思って大人びた振る舞いを見せることが多いミアには、珍しいしぐさだ。  ミランはすっかり感心した。客は子どもの扱いに馴れている。彼はおそらく三十歳前後だろう、もしかしたら子どもがいるのかもしれない。  ふいに窓の外に目をやると、雪はずいぶん弱まっていた。吹雪いている様子もないし、これなら危なげなく帰れるだろう。  ミアを一人で帰らせるのは忍びなく、ミランは少しだけ店を閉めて、彼女を送っていくことにした。  一緒に出た客とは大通りで別れるということで、ミアは小さな手をちぎれんばかりに振って、別れを惜しんでいた。 「お兄さん、またね!」 「またね。風邪をひかないように早く帰るんだよ」  彼はミランとミアに歩幅を随分合わせていたらしく、その後ろ姿は雪のむこうであっと言う間に小さくなった。  ミアと繋いだ手が暖かい。ミランはどこか良い気分で、その大雪の日を過ごしたのだった。

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