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3 酒場にて
どれだけ嫌なことがあろうと日は上るし、時は進む。
曇り空がどんよりと街を覆う午後、ミランは母の幼馴染が経営する酒場に向かって歩いていた。
ほぼ毎日入っていたアルバイトがやめてしまい、回らなくなった店の手伝いを始めてもうどのくらいになるか。
人が増えてとりあえずの危機は脱した今でも、頻度は前より下がったものの、ミランはまだ店に通っている。
黙々と料理を作っているだけだからいい気分転換になっているのも事実だ。これで接客だったら正直続かなかっただろう。
酔っ払いの相手ができる女将はものすごい胆力だと思う。ミランにはとてもじゃないけれど無理だ。
ミランは風に煽られた前髪を丁寧に引っ張った。
顔を見せるのは落ち着かない。いつもしている眼鏡は、厨房では曇って邪魔だからと外している。
視力は実のところそう悪いほうではないので、それでも問題はない。ただなんとなく壁がないような気がして落ち着かない。困っているのはそれだけだ。
「ああミラン、おはようさん。今日もよろしくね」
扉をあけてすぐ、客はいないのに煙とたばこ、食べ物のにおいが僅かに鼻につく。入りたてのこのにおいだけはいつまで経っても慣れないと思いながら、そっと挨拶を返す。
女将は仕入れの業者と話しているところだった。見知った人なので、業者にも会釈をしながら、エプロンを身に着け厨房に入る。
そこでは既に店主が仕込みをしていた。妻の女将には頭が上がらないが、いつもにこにこと朗らかな笑みを浮かべており面倒見がよく、ミランもたいへん世話になっている。
「今日もよろしくな。火加減はこまめに見てくれるか? あとこっちは茹でて、もう調理していいよ。俺はこれが終わったら一旦離れるから」
「わかりました。よろしくお願いします」
野菜と豆の煮込みと、穀物のスープ。大きな寸胴鍋の底からひっくり返すように上下を混ぜつつ、店主が用意していった湯の中に芋を放り込むと、用意された食材を端から切っていく。
この店では、客はそのつど注文するわけではなく、用意してあるおかず類を備え付けの魔法具で温めて食べる。注文もできるので暇ということはないのだが、用意するものの方がはるかに多い。
店主が珍しくも魔法を理解して使える人で、べらぼうに高い魔法具の核部分を自力で賄えることから、他の酒場とは違うやり方が可能になっている。その分仕込みが忙しく、火魔法にも耐えられる皿が必要なので、これはこれという気もする。
茹で上がった芋を手早く剥き、調味料を混ぜて一品完成。冷ましているあいだに小分けの皿を用意し、コンロにある赤い石に手をかざして火を起こした。
人の身体には必ず魔力が備わっている。それを現象として起こせるか起こせないか、そこは越えられない壁がある。前者が店主で、後者がミランなど一般的な人だ。
魔法を使える人は数家族に一人くらいで、珍しいとまでは言えない。とはいえ使いこなせるかは別問題だ。例えばロウソクの火を自在に消す程度なら火魔法の素質がある人ならできるが、魔法核を作れるとなると話は変わってくる。
店主は実はすごい人なのだ。だからといってどうということもないミランは、あまり気にしたことがなかったが。
団体予約の準備にかかりきりになっている店主をよそに、もくもくと作業をしていたら、あっという間に店の開店時間が近づいてきた。
「あらま!」
そんな女将の声が聞こえたのは、ミランがちょうどすべての総菜をカウンターに並べ終えたところだった。
「高いのかい? 大丈夫? ……咳が酷いの? それは心配だねえ。……うん、雪も多いし体にも障るってもんだよ。わかった、ゆっくり休むんだよ」
話が終わるとすぐ、女将が厨房にやってくる。
国の施策として、人が集まる酒場や公共施設には、会話ができる魔法具が置いてある。
街のあちこちにもその魔法具があり、ちょっとした言伝や連絡はそれで行えるのだ。
今の電話は休みの報告だろう。女将はミランの顔を見ると、「悪いんだけど」と切り出した。
「二時間だけ接客に入ってもらえないかい? 八時からはもう一人来るから、それまでどうにか繋げたいんだ。今日は団体が入ってるから忙しくなりそうで」
「……何人ですか?」
「九人だね。数としてはそんなに多くはないんだけど……」
「それくらいならまあ……」
女将はミランがあまり人前に出たがらないのは知っている。けれどそうもいっていられない状況というものはある。
「すまないねえ、ミラン。先に食事をすませといで。ちゃっと作るからさ」
「いえ」
めったに出ることのない塊の肉が賄いとして出たのは女将の気遣いなのだろう。
繊維質の強い肉を叩いて伸ばして揚げてあり、ザクザクとした触感が絶品だった。
舌鼓を打ちつつ手早く食事をすませると、ミランは前髪を下ろそうとして、さすがに諦めた。
こんなことなら眼鏡を持ってくるべきだったと思っても遅い。
飲食店でさすがに顔を隠すのは不衛生だろう。
「……仕方ないか」
伸びた前髪を耳にかけ、ミランは身支度を整える。
その直後、ドアのベルが鳴る。来客だ。
「いらっしゃいませ!」
女将の腹から出ているような声を聞くと、身が引き締まるよりも驚いてしまうのはミランの性格だろう。
二時間だけだ、と自分を励ましていたミランだったが、三十分後、その決意はあっけなく崩れ去った。
***
「予約してます、一人遅れるんですが……」
入ってきた客の服装を見て、大樽から酒を注ぐ手が一瞬震えた。
短い髪に下がった眉、薄いなで肩を落としている客の態度はおどおどしているけれど、すっかり見慣れた騎士服で身を包んでいる。
緑を覆う縁取りが銀色なのでいつもの担当騎士とは雰囲気が違う。それでもあの服を見るだけで、ミランの胸にはじんわりと嫌なものが混みあがってくる。
「ミラン、どうかしたか?」
店主に叩かれた肩が跳ね上がった。その拍子に酒がカップの中で跳ね、零れはしなかったもののひやりとする。
「な、なんでもないです。すみません」
「そう? 何かあったら言えよ」
言ったところでどうすることもできないくせに、と卑屈な考えが頭をもたげ、ミランは目をぎゅっと閉じて唇を噛んだ。
息を詰めることで嫌な感情を腹の底に落とし込む。そうできると、今は信じるしかない。
それからぞろぞろ入ってきた客の中に、例の騎士を見つけて、その決意はもろくも崩れることになるが。
集団の中に居ても、その騎士は横暴だった。むしろ集団の中だからこそとも言えるだろうか。
騎士の半数が彼に同調しているようで、満足げな態度がやけに目立つ。
八人の騎士のうち、銀の縁取りの制服を着ているのは二人で、あとは全員が金だ。
六人のほうが立場が上らしく、銀の騎士たちをあごで使ってはケラケラと笑っている。
「ぬるいんだよ、もっと温めてこいよ」
「え、でも……器が熱くて、持てなくなります……」
「あ? 口答えか?」
「い、いえ……」
特に最初に店に入ってきた下がり眉の騎士は、目をつけられているらしくぞんざいに扱われていた。
なるべく触らないように器を持ってとぼとぼと歩く様は哀れとしか形容できなかった。
女将と店主もその席が気になっているようだが、飛び入りの団体客の世話が忙しく対応できないでいる。
ミランはさりげなく魔法具の横に厚手の布を置いた。意図に気づけば使ってくれるだろう。
「おい、なんだそれは」
加熱が終わり、ミランにぺこりと頭を下げてから席に戻った下がり眉の騎士にかけられたのは無情な一言だった。
「何って、あの……」
「汚ぇ布で覆いやがって、なめてんのか? 甘えたことしてんじゃねえよ、しっかり持てよ、おら!」
「熱っ!」
皿の中身に布が触れていたのかどうなのか、厨房の中にいるミランの位置からはわからない。とはいえそれがどうという話ではないのだろう。例の騎士はただいちゃもんをつけたいだけだ。
熱した皿を手に押し付けられた騎士は飛び上がった。
しん、とどこか店内の喧騒が止まったようだった。ミランがそう思っただけなのか、騎士たちがいる卓の近くだけ、静寂が支配したのかはわからなかった。
すぐに喧騒が戻ってきたのは、いわゆる見て見ぬふりというやつかもしれない。さもありなん、腫れ物に自分から触る客はいない。
しかし店主としては、さすがに見かねたのだろう。
「騎士様がた、なにか不都合がありましたか?」
「あ? 何もねえよ、すっこんでろ」
そう言われてはどうすることもできない。店主は「そうですか。大変失礼いたしました」と丁寧に腰を折って厨房に戻ってきた。
鍋をかき混ぜていたミランの横にそっと近づき、ため息を吐く。
「あそこまでいくと完全にいじめだな。見苦しい」
「……ええ、俺、あの騎士は苦手です」
「知り合いなのか?」
「うちの店の担当騎士ですね」
「なるほど……」
女将が道具屋の話を店主にしているかはわからなかったが、この反応を見る限り、悩みの種の騎士について、全く知らないわけではないようだ。
先日の怪我については家族とミア以外の誰も知らないから知る由もないだろうが、前々から困らされているのはわかっているらしい。
「あと一時間、夜の子が来るまでなるべく厨房に居たほうがいいな。また絡まれたらたまらないだろう」
「すみません……ありがとうございます」
「いいんだよ。ミランはリリーさんのところの大事な子だ、これくらいはなんてことない」
そう言ってくれても、店の込み具合はどうしようもない。
曇りではあっても数日ぶりに雪がやんだ今日、運が悪いことに店はよく混んだ。
魔法具の前に列ができるせいで、並びたくない客は調理が必要なものを頼みだす。
同じ待つであっても意味が違うということか。女将があちこちのテーブルを駆けまわり、皿を置いたり引き取ったり、注文を受けたりと目まぐるしい。
客の数は増え、注文も多くなるのに、従業員は増えるどころか、ミランへの配慮が必要なことからだんだん回らなくなってきた。
「おい、注文!」
鋭い一喝に観念した。鍋を振るう店主に行かせるわけにはいかない。
ミランはやや長めに息を吐きだして厨房を出た。
「お待たせして申し訳ございません。お伺いします」
「ほんっとにおせーな。これと、これと、これ。急げよ」
頬杖をつき、ぞんざいにメニューを指で指すその騎士はミランのほうを見もしない。道具屋で働いている時と違って素顔を晒しているので、同一人物と思われるかは賭けではあったが、この分だと大丈夫そうだ。
それにしても、横柄な客は儘いるとはいえ、けして良い気分にはならない。
人に機嫌をとってもらって恥ずかしくないのだろうか、とミランは内心で毒を吐いた。
やっぱり酒場での接客は苦手だ。
会釈もそこそこに卓を辞そうとすると、ふいに騎士の一人が顔を上げ、ミランの顔をとっくりと眺めると、例の騎士の肩をつついた。
「んだよ」
「なあ、ああいう顔好きだったろ」
「あ? ……ああ、へえ。ふーん」
騎士の好色な視線がミランの頭のてっぺんから足元へ向かう。ミランはとっさに、手を後ろに隠した。震えているのがばれたら逆に興味を引きそうな気がしたからだ。
「いいじゃん。なあお前、酌はしねえの?」
「いえ……そういった店ではないので」
「けちくせえなあ。じゃあ酒はいいから別のもの尺ってくれよ、な?」
「は?」
ミランの小首を傾げる仕草のどこが面白かったのか、金の騎士達が一斉に笑い出した。
「わかってねえじゃん! こんな純粋な子捕まえて、まったく酷い男だよ」
「うるせえなあ。こういう無垢な奴を踏みにじるのこそいいんだよ。おい、尺ってわかるか? コレのことだよ」
例の騎士がした下品な仕草に、ミランもやっと状況を理解した。揶揄われているのだ。
不快と羞恥とが入り混じって処理しきれなくなり、体温が一気に上がる。染まった頬もからかいの対象になるようで、騎士はけたたましく声を張り上げた。
「たまんねえな、おいちょっと膝に座れよ」
「何する気だよ、こんなところでやめろよな」
「何もしねえって、ただちょーっと撫でさせてもらうだけだっつーの」
「ははは、震えてんじゃねえか! 悪い男だなあ」
例の騎士がとった自らの腕を、とっさに振り払ったのは無理もないことだろう。
また、卓の付近に静寂が落ちた。
ミランの頭はその空気と同じく凍ったが、それ以上に凍っていたのは騎士の声だった。
「……おい、なんだてめえ。生意気だぞ」
上から頭を押さえつけるような険のある声は、つい先日聞いたものとよく似ていた。あの時の恐怖も相まって、ミランの頭は白くなり、体から力がぬけていく。
やたらと長く太い騎士の手が、自らの首に向かってくるのをゆっくり視界に収めていたミランは、ふいに温かなものに包まれた。
「……少し酔いすぎているようだな」
頭の上から降ってきたのは低い声。まるでミランを庇うように、その人は騎士達の視線を遮った。
「シュルツ様……!」
男をそう呼んだのは銀の縁取りの二人だ。その声音の明るさに、どうやらまともな人らしいと知る。
振り向くと、そこにいたのはいつぞやの客だ。この間よりも髪型がかっちりしているが、腰に響くような低音と柔らかな笑みは変わらない。
彼もまた、卓の者たちと同じ騎士服を着ていて、ミランは思わず目を見開いた。
しかし、本当に同じ服なのか疑いたくなるほど、その服は彼に似合っていた。
髪と同じ色の縁取りはより高貴に、落ち着いた緑が彼の雰囲気を荘厳に見せる。装飾のついたベルトは大振りの腰の剣を支え、真っすぐと伸びた脚は力強い。
着る者が違えばこの服はこんなにも映えるのかと思わされたくらいだ。
彼はミアにした時よりもゆっくりと、まるであやすように片目を瞑り、ミランの肩に手をあててそっと卓から距離を取らせた。
「私が来る前に出来上がらないでくれよ、寂しいだろう」
「あ、あー……すいませんね、仕事は終わったんで? 今日はもう来ないと思っていました」
「せっかく予約の数に入れてもらったんだ、ちゃんと来るさ。何を飲んでいるんだ? ……店員さん、同じものをもらおう。皆、あとの注文は? ……ないようだね。それじゃあ、よろしく」
「は……はい、少々お待ちください」
ぺこ、といつもより深いお辞儀をして、ミランはその場を離れた。
注文を取り終わった女将と、客に皿を出しに行っていた店主が、心配したとミランを取り囲んだが、ミランは首を左右に振った。
「大丈夫です。助けてもらったので」
「本当かい!? ああ、ごめんね、こんな綺麗な子、絡まれないはずないのに……あんたったら、二人分の仕事くらいちゃちゃっとやってくれよ!」
「いやいやそんな、俺は双子じゃないんだし……」
どこか間が抜けたそんなやり取りを聞きながら、ミランは震えが止まっていた指先をそっと握りこんだ。
大きな手の感触が肩から指先まで下りてきたようだ。頼もしいとはああいうことかもしれないとふと思う。
(……騎士様、だったのか)
第一印象による予想が当たったことを喜べばいいのか、嘆けばいいのか。
否、嘆くなんて考える必要もないのにと、ミランは目線を左右にうろつかせながら、肩で息を吐いた。
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