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11 再び、すみれの園
四人の予定があったのはしばらく先の話だった。少しずつ積雪がかさを減らし、未だ遠い春が少しずつ影を見せ始める、ある満月の日。
仕事終わりの三人を迎え入れたトリシャは、ミアの言葉を借りるなら今日も妖精みたいに美しい。
受付から恨みがましい目つきでマルティンを威嚇するミンダは、きっと姉の結婚に未だに反対しているのだろう。
彼女は今日もつっけんどんで、姉以外のものにはあたりがきつい。今も用事はないだろうに、ちゃっかりと居座っている姿は、番犬さながらだ。
トリシャは慣れたようで、彼女をあまり気にしていないようだった。
手を洗い、貸出し用のエプロンを身に着け作業台に集まったミランたち三人の顔をぐるりと見まわすと、「よろしくお願いします」と丁寧に会釈した。
「それじゃあレシピの説明からね。今日の主食は自家製ビール酵母のパン、主菜は肉団子のクリーム煮、副菜にきのことじゃがいものサラダ、汁物に根セロリとポロネギのスープを作ります。もちろんビール酵母は家庭でも作れるものよ。今回はこちらで作ったものを用意したわ」
作業台の上には諸々の食材、調味料、調理器具があった。
そのうちの、筒に入っている液のようなふわふわ膨らんでいるものが酵母なのだろう。パンは母が気に入っているパン屋のものばかりなので作ったことがなかった。
匂いを嗅いでみるよう言われて鼻を近づけると、確かに独特で、つんと鼻につくにおいがある。
ビール特有の麦の香りもややあった。パンの主原料が小麦であることを思うと、相性が良さそうだ。
最初にトリシャはレシピの手順を確認するため簡単に説明していった。注意点やちょっとしたコツを言うのも忘れない。
特にスパイス類を入れるタイミングを細かく指定しているのが印象的だった。ミランは普段はラジオを聞いたり母の見よう見まねでなんとなく作っているのであまり気にしたことがなく、こういうちょっとしたところが、同じものを作っても母と同じ味にならない理由なのかと深く頷いた。
「発酵と焼き上げの時間を考慮して、最初はパンからやるわね。さて、皆、一人一つ大きいのを作るわよ。食べきれなかった分は持って帰って明日中に食べてね」
「はーい」
マルティンが語尾にハートがつく勢いで返事をする。アデルがめんどくさそうに空を仰いだのを、ミランはしっかりと気づいた。
ボウルに酵母と塩は離れた位置になるように材料を入れ、最後に酵母めがけてぬるま湯を入れる。ヘラで捏ねていくと、最初はベタベタだった生地がなんとなく落ち着いてくる。
「ここでは捏ねるというより混ぜるイメージで。しばらく経ったら台に出して捏ねていくの。続けているうちに手にくっつかないようになるから頑張って」
捏ね方にもコツがあるらしく、手のひらの平たいところで押すみたいにするらしい。トリシャは簡単そうにやっているのに、ミランの手つきは何か違う。
眉を顰めていたのがわかったのだろう。トリシャは「慣れよ、慣れ」と笑い飛ばした。
「パン作りってけっこう力がいるでしょう? 捏ねる時の強さとか、作り手のその日の体温によってもパンの出来が違ったりするから、アデルさんのと比べてみるのも面白そうね。間違いなく、今までの生徒さんの中で一番力が強いから」
「……それは褒められているんだろうか」
「褒めてます。ほら見て、皆と同じ時間捏ねているはずなのに、アデルさんのほうはずいぶんとまとまってきたでしょう。捏ねすぎも良くないから、ちょうどよいタイミングで次の工程に移るわね」
大きな手のひらは分厚くて、同じ分量のパンを捏ねているはずのミランのそれと縮尺が違って見えるし、確かに表面がつやっとして艶が出ている。
マルティンだって慣れた手つきで腰を入れているから、ミランはすっかり自信が無くなってしまった。
「台に出している間にも乾燥していくから、少しだけ換わるわね」
「お願いします……」
ミランのぶんはトリシャが仕上げをやってくれた。初めてだから仕方ないと思う一方で、普通にできないことにちょっとへこんだ。
そこからは発酵の時間をとっていく。その間に切りものをやっていった。
マルティンは当然として、アデルも意外なほど作業がスムーズだ。以前パンをご馳走になった時に料理の腕がいいのは分かっていたものの、こうして見ると感心する。
「お前は一人でなんでもできちゃうから彼女もできないのかなあ……」
ミランはマルティンの呟きにアデルが反応していないと思っていたが、マルティンが「痛い」と呟いたのを聞いて、足元では何かが起きていると悟った。
二人が横並びでミランは向かいなので確認できないのである。
サラダ用のじゃがいもを茹でるのと並行しながら、寝かせていたパンを取り出した。
火の魔石で適温まで温められた発酵機の中に置いていたので、ボウルはほんのり温かい。
一番最後に箱に入れたミランの分も、ふんわりと倍以上に膨らんでいた。つやつやした表面が月のようで、なんだか愛おしくなる。
しかし、この後はこれに拳を突き立てないといけないのだ。
自分の分のボウルで説明しながら、トリシャは容赦なくガス抜きの為にパンに手を沈めた。
「発酵するとき、酵母はガスを出します。これを抜いてあげないと、仕上がりとおいしさに影響が出るのよね。せっかくぷっくり膨れているのを潰すなんてもったいない気もするけれど、植物の間引きと一緒だと思ってきちんとやってあげて」
「はーい。そうだアデル、後でチコリ持っていけよ。植物で思い出した。ミラン君もどう?」
「祖父の好物ですね。いただけるなら欲しいです」
「うん、むしろもらってよ。今年はちょっと育てすぎてさー」
「それ。毎年言ってるな」
「いやーだってトリシャとの愛の結晶じゃん? 沢山にもなるよ、ねえトリシャ?」
「うんそうね。はい、このあとはもう一度発酵ね。乾燥を避けるために布巾を被すわね」
こういう風にアデルの家が野菜だらけになっていくんだという心配と同時に、トリシャの動じない態度の愉快さに情緒が忙しい。
ミランはマルティンの奔放さに自分が好感を持っていることに気が付いた。つい目で追ってしまうのだ。
「なーに?」
そんなミランに気づいたマルティンが顔を覗き込んでくる。その拍子にさらりと落ちた黒髪は、ミランのほのかな癖っ気と違って完全にまっすぐだ。
いつも笑っているような細い目と相まって、なんとなく狐みたいな気配がある。黒い狐というと風変りではあるけれど。
「騎士様で髪を伸ばしている方ってあんまりいないですよね」
「そうだね。アデルも長いほうだけど、俺ほどなのは他にいないな」
「確かに……言われてみればアデル様も長いかも」
出会ったころは確か首の後ろにかかるくらいだった髪は、括れそうな長さになっていた。
短髪が多い印象の騎士には意外だと首を傾げると、アデルはさっぱりと答えを口にする。
「これは、カスターニエとおそろいにしようと思って伸ばしてる」
「馬の鬣みたいにってこと? 三つ編みにしたいの?」
「三つ編み……そうか、本当のおそろいだとああなるのか……」
マルティンの言葉に考えはじめてしまったあたり、出まかせを言っているのがわかる。
聞かないほうがいいかと引いたミランとは対照的に、マルティンはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべてアデルの二の腕あたりに肩をぶつけた。
「そういやお前、いつも行ってた美容院変えた? オーナーが見回りの時に来なくなったって嘆いてたよ。あの還暦の美魔女」
「……」
アデルが答えにくそうにしているので、ミランは助け船のつもりで口を開いた。
「美魔女? その方、魔法使いなんですか?」
「そ、光の魔法使い。夕方近くなると店から消えるから、光魔法で容姿をいじってるんじゃないかって言われるくらい綺麗な人」
「光魔法ってそんなことまでできるんですか?」
「理論上はできるよ。光の屈折とか何とか色々変えたりね。でも人の目の見え方を変えるって言うよりは光をいじる方だから、外見を変えるほど完璧に操魔できるならそれは凄腕と言っていいね」
「……だとしたら彼女は凄腕だ。俺はあれほどの使い手を見たことがない」
その呟くような一言に、二人は悟った。きっとアデルは見てしまったのだ。
「お前、魔法使っちゃったの?」
「室内が暑くてつい……。俺はパネルの位置を変えただけのつもりだったんだが、あれは特注のパネルだったんだろう。それ以来気まずくて行けなくなってしまった」
「あー……」
「で、でもアデル様。そのオーナーさんは気づいてないみたいですし、気にせず行けばいいじゃないですか」
「いや駄目だろう。故意ではないといえ、婦女子のスカートの中を覗き見るような行為をしてしまったんだぞ」
「……」
額を抑えたマルティンの身体から、呆れのオーラがほとばしる。
「お前の精神年齢の低さにはびっくりするよ! なんなんだその奥手さは! 常々ひどいと思ってたけどここまでとは……っ」
「は? 奥手? 今の話に何か関係あったか?」
「情操教育はマルティンに任せるとして……ミラン君はそういう話ないの?」
ふいにトリシャが水を向けてきた。
茹でた芋の皮をむき、スープ用の野菜の加熱に取り掛かっていたミランは、もう少し二人の会話を聞いていたかった自分を抑えつつ答えた。
「特にないですね。何もなさすぎて祖父に心配されてます」
「おじいさんに? そういうのってお母さまがする家が多いんじゃない?」
「うちの両親、母が一目惚れしたとかで、母の方が積極的だったんですよ。だから多分、そういうのは結局はタイミングだと思ってるんじゃないでしょうか」
「なるほどね。おじいさんの出会いって?」
「……聞いたことないですね。祖父はあまり祖母の話はしないので。父がまだ小さいときに亡くなったってことしかわからなくて」
「そうだったのね。じゃあお父さまはおじいさんがとても大切でしょう」
「そうしているように見えます。祖父の病院に毎回付き添ってますし」
「あら、素敵な気遣い。家族みんな個性があって素敵ね」
そう言うトリシャの家族はどうなのだろう。そういえば、この料理教室は親子でやっているのではなかっただろうか。教室にいるのはトリシャの親ではなく妹である。
気になって聞いてみると、トリシャは「少し前に亡くなったの」と唇に小さく笑みを浮かべて言った。
「母がこのお教室を立ち上げている時に借金があるって、亡くなってから知ってね。建て替えるかわりに結婚を迫られて困ってたところを……」
「……もしかして、それをマルティンさんが助けてくれたんですか?」
「そう、その通り! 彼、それまで時魔法のことは隠してたのに、あっという間にお金を作ってくれて、助けてくれたのよ。でもその恩を盾に取って迫ってくることはなかったの。それってすごいことじゃない?」
トリシャの周りで、マルティンが最も誠実だったと彼女は語った。
ふと気づいた。トリシャは呆れたような表情をすることもあれど、ずっと笑っている。
それは意識しないとできないことだ。笑顔を浮かべるには、ふつうは労力がいる。
「しょせんは個人が営む小さい料理教室よ、ちょっとの借金でも立ち行かなくなるって周りの人はみんなわかってた。妹はまだ学生だったし、私は本当に困って……。母を恨みたくもなったけど、この場所で働いて家族を養ってくれたのは事実なのよね。私、実父に縁がなくて、男性が苦手だったんだけど、マルティンのおかげでそんな人ばかりじゃないって知ったわ。お教室が大切だし、守りたいって思う気持ちに、形をくれたのはあの人の力があったから。だから結婚したの」
「なになに、俺の話ー?」
情操教育とやらがやっと終わったのか、マルティンがトリシャのほうにすり寄った。
思ったより小柄なトリシャは、マルティンの胸くらいの位置に頭がある。
彼女はふいに、彼に寄りかかるようにしてにっこり笑った。
「今、惚気話をしてたのよ。恥ずかしいから聞かないでくれる?」
ミランですら思わず見惚れてしまうそれに、トリシャを溺愛しているマルティンが喜ばないはずなかった。
「トリシャー! 可愛いー! 結婚してくれー!」
「もうしてます」
熱烈なハグを下にすり抜ける形で避けたトリシャは新たな指示を出す。
パンの成形と、肉だねの準備。いそいそとすすめていると、ふいにアデルがミランの横に立った。
「……マルティンにはもったいないくらい素敵な女性だろう?」
「ふふ、話を聞いて、マルティンさんの力もあって素敵な人だってわかりましたよ」
「……」
また、アデルは沈黙した。この間と違うのは、しっかりと不機嫌そうな顔をしていることだ。
ーーずばり、それは嫉妬とみた。
マルティンの言葉を思い出してまさかと思ったが、アデルが口にした言葉を聞いて石のようになった。
「マルティンをあんまり褒めないでくれないか。なんだか胸が痛くなる」
「……え」
「ああすまない、意味がわからないよな……何で俺はこんなことを……くそ、マルティンが変なことを言うから……」
先程の情操教育とやらは一体何が行われていたのだろうか。ミランはじわじわとした熱が頬に集まるのを感じながら、ひたすらに肉を捏ねた。
**
完成した料理はどれも美味しく、レシピの出来とトリシャのおかげでミランは満腹になるまで味わった。
その後は二次会という名目で、教室の締め作業片があるトリシャはおいて、男三人で通りを三本渡った路地裏にある酒場に向かう。
二次会をやろうと言い出したくせに、トリシャが待っているからと早々に辞したマルティンを除いた二人は、静かな空間で卓を囲んでいた。
店内では落ち着いたピアノ曲が流れ、客の会話を邪魔しない程度に場に花を添えている。
ミランが働いているのが食事をとれる酒場だとしたら、ここは酒をメインに出している店だ。
こういう店は入ったことがなくて心細いのに、一人人数が減ってしまったからミランはさらに落ち着かない。
それに、アデルがいつもと違う態度なのもその居心地の悪さに拍車をかけた。
何か考えている素振りで、やたら杯を空ける速度が早く、話をしていてもどこか上滑りだ。
「アデル様、チーズは食べませんか?」
「……いや、今は腹は減っていない」
「ですよね……」
先程さんざん食べ、そのうえでものすごい勢いで飲んでいるのだからそうだろう。
母が父に、酒のつまみには身体のためにもチーズがいいと言っていたのを思い出して勧めてはみたものの、その案はあっけなく沈んだ。
「……あの、そんなに飲んで大丈夫ですか?」
「家ではいつもこのくらい飲んでいるよ。ミランももう少しどう?」
「い、いただきます……お酒、すごく強いですね」
「人並みだと思う。ミランも飲めるほうだろう?」
「うーん……そもそもそんなに量を飲んだことがないので許容量がわからないですね」
「そうだね、君はまだ若いから。これからわかっていくと思う」
アデルが口元を吊り上げながら言った言葉に含みを感じたのは、ミランの気のせいだろうか。
自分は何か敏感になっているらしい。慣れない場所でそんなに緊張している自覚はないが、少なくない量の酒を飲んでいる。
彼に引きずられて、ミランもいつの間にかけっこうな酒量を飲んでいたようだった。
店を出るころには、ふらつきこそしないものの、頭の奥がぽーっと重だるいような違和感があった。
「……やってしまった。今日の俺はおかしいな……こんなになるまで付き合わせるなんて」
アデルの深い響きの声がすぐ近くで聞こえる。どうやら危なっかしいと思われたようで、腕を掴まれているらしかった。
店を出た直後、急な突風が吹いてミランは体をぶるりと震わせた。温かいほうに身を寄せるのは完全に無意識だ。
「……あー……」
風から守るみたいにアデルの身体に包まれている自覚もないまま、ミランはじっと目を瞑り寒さに耐える。
「……さむい。ねむい」
「ここで寝るのはまずい。家まで送ろう、歩けそうか?」
「……」
「寝るな、起きてくれミラン。……ミラン?」
「……。……ぐぅ」
「おいおい……」
アデルの声は潮騒に似ている。小さいころ、両親に連れて行ってもらった海の広さと、寄せて返す波が立てるさらさら響く音は、ミランにとって壮大さの象徴だった。
波打ち際で父とちゃんばらごっこをした記憶はミランのものだろうか。急に記憶の泉から降ってわいたそれを、ミランは不思議な心地で思い返す。
自分にもちゃんと活発な時があったのだ。今はすっかり座って本を読むことが落ち着くようになったけれど、剣とかパンチとか、夢中になってやっていた過去もある。
常々フリューゲル騎士物語が好きな理由がわからないでいたけれど、そんな過去もあったなら、心のどこかが惹かれていたのかもしれないと思う。
フリューゲルはミランの憧れと過去が詰まっている。
「……アデル様は」
「ん?」
「フリューゲルみたいですね……」
「……俺が? ……おい、ミラン、ミラン?」
そんなことをつらつらと考えながら、ミランの意識は黒く溶けていった。
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