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12 約束は朝に

 やたらと身体がぽかぽかしている。  最近、強風で揺れる上に、隙間風が入るようになった家のベッドではありえない。  朝は寒くて凍える気持ちで目覚めるのだ。いつまでも布団にいたいところを、母が早起きして暖炉に火をくべてくれているリビングのほうが暖かいので、起きざるを得ない。  暖房器具を買えばいいのに、今年の冬も暦の上では終わりに近いからどうにか乗り切りたい貧乏性なミランであった。  熱があるにしては元気だなと疑問に思いつつ目を開けると、目の前にあったのはシャツ越しでもわかる隆起した胸板だった。 「……!?」  あわてて飛び起きようとしても、体をぎゅうと抱き込まれていて叶わない。身じろぎしてもその拘束は解けなくて、数分頑張ったのち、ミランは仕方なしに諦めた。  視線をそろりと持ち上げると、首にかかる細い金髪が見える。 (……アデル様……だよな、どう見ても……)  昨日の夜の記憶が途中からないことから、ミランは察した。人生ではじめて、記憶をなくすまで飲んだということだろう。  不思議と二日酔いらしきものはない。ただ、とんでもないがおきているという羞恥で頭が痛んだ。  酒場でチーズを勧めて断られて、酒の許容量がわからないという話をして、そのあとが思い出せない。  状況から考えれば、酔いつぶれたミランをアデルが送ってくれたということなのだろう。よく見れば、壁にミランのコートがかかっている。  部屋の全貌がわからず何とも言えないが、おそらくアデルの部屋だと思う。明かりが漏れるカーテン、その横にある棚などから、生活感が見受けられる。    しばらく経ってもアデルが目覚める気配はなかった。ミランは今が早朝だったら申し訳ないとは思いつつ、体を這う彼の腕をぱしぱし叩いた。 「アデル様、起きてください。朝ですよ」 「……」 「今日はお仕事はいいんですか? おはようございます、起きてください」 「……」  煩わしそうに眉間に皺が寄っただけだった。ミランは途方に暮れた。  アデルはどうやら寝起きが悪いらしい。いつも隙の無い彼の人間っぽさにちょっと安心する。  ただ、今はそれでは困るのだ。ミランは諦めずにもぞもぞ動いて、アデルの耳元に顔を近づけることに成功した。  近い。ちょっと近すぎる。  やたらと心臓がうるさいのは確実に緊張だ。それとも今更二日酔いの自覚が出てきたのだろうか。  少し分厚い、形の良い耳にむかって、ミランは囁きかけた。 「アデル様」 「……」 「アデル様」 「……」 「アデル、……さん」  呼び方を変えた瞬間、アデルは急に眼を見開いた。  すぐにミランを抱き込んでいることに気づいたのだろう。「うわっ」と悲鳴を上げて、なんとそのままベッドから転げ落ちた。  彼の体重は小麦の袋いくつぶんだろう。けっこうな音がしたあたり、実は重そうである。  そんな妄想をしたのは一瞬だ。とっさに受け身を取ったらしく、そのまま向かいの壁にむかってころんといったアデルは、幼子みたいにぼんやりとした表情だった。 「……だ、大丈夫ですか……?」  まだまだ寝ぼけていそうな彼にこそっと呼びかける。アデルはベッドの上にミランがいるのを見つけ、ゆっくりと目を擦った。  別にゴミでもないし、そうしたところでミランは消えないのだが。  やっと現実と気づいたアデルは今度は先ほどとは違うニュアンスで「うわっ」と声を漏らした。 「みっともないところを見せたな……」 「いえ、こちらこそ……あの、ここってアデル様の部屋ですか?」 「そうだ。君の家よりはこちらの方が近かったから連れてきた」 「わざわざすみませんでした」  ミランは頭をベッドに下げる勢いで体を曲げた。それを見たアデルは「少し身体が柔らかくなったんじゃないか?」とやや的外れなことを言い出したので、おそらくまだ寝ぼけている。  ベッドから落ちても問題なさそうなあたり、強靭すぎる肉体なのは変わらなかったが。  見まわした彼の部屋は、ミランの部屋と負けず劣らず小ぢんまりしていた。むしろ、ベッドが大きいぶん他の家具を置くスペースが限られてこちらの方が狭いかもしれない。  正直なところ意外だ。騎士というと高級とりのはずなのに、言ってしまえば隊長が住む家には見えない。  時計を見ると普段起きるにはまだ早い時間だった。にも関わらず、どこからか言い合いをしている夫婦の声とか、陽気に歌う老人の声とか、ラジオを聞いた通りに口に出しているような大声が聞こえてくる。なんというか、きちんとした住宅街でははあまりない音だらけだった。   「……ここってどのあたりですか? 俺、帰ります」 「一人で出歩くのはやめた方がいい。このあたりは治安が良くないんだ。良かったら送っていこう」  その申し出はありがたかったが、アデルはまだ眠そうだった。しかも聞けば、今日は非番だという。  そんな日に早起きさせてその上送らせるなんてとんでもない。朝だし、場所だけ教えてもらえれば十分帰れる。  ミランは食い下がったが、「このあたりは物取りが多いぞ」と脅されて諦めた。 「少し待ってくれ、茶を入れる。その間にシャワーを浴びさせてくれ」 「あ、はい。勿論」 「ミランは……いいや、いい」  シャワーを勧められそうだったが、ミランが断るのは目に見えていたのだろう。アデルはコーヒーと、冷たいフルーツを切って出してくれた。  恐縮しつついただくことにする。自分では気が付かなかったが、どうやら喉が渇いていたらしかった。  少ししたら、アデルは頭にタオルをかぶせながら戻ってきた。 「いつもの感覚で服を忘れた」 「アデル様のお部屋なので……お気になさらず……」  腰にバスタオルを巻いただけの格好は刺激が強い。拭きそこねた雫が割れた腹筋を伝うのを見てしまって、ぱっと目を背けた。  つい数十分前はあの体に抱かれていたことを思い出し、頬が熱くなる。  涼を求めて食べたフルーツは残念ながら熱を冷ますまではいかなかったけれど。  棚をごそごそやる音と衣擦れが耳を打つ。ミランはどうにか先程から止まない夫婦喧嘩のほうに意識をずらそうとした。  どうやら旦那のほうが浮気して、給料のほとんどをその相手に使ってしまったことに妻が怒っているらしい。  そりゃあそうだろう、自分が妻でも怒りたくなる。  旦那はその浮気相手の自分がいなきゃダメなところに惹かれたと喚いているが、妻からしたら冗談じゃないだろう。そんなしょうもない言葉は理由にもならない。 「――ミラン?」  あまりにもそちらに意識を集中しすぎて、しばらく呼ばれていることに気が付かなかった。  すぐそばにアデルの綺麗な顔があって、ミランは後ずさった。 「痛っ」  けれど狭い室内である。背中がすぐにベッドについて、これ以上避けられない。  しかもその拍子にベッドにごつりと背中をぶつけてしまった。 「大丈夫か!?」  心配したアデルが近づいてくるのが耐えられなくなったミランは、手をめいいっぱい伸ばして叫んだ。 「い、いまは、近寄らないでください!」 「そんなわけにはいかないよ。ちょっと背中を見せてくれないか? 痣になっていたら困るだろう」 「大丈夫です、大丈夫なので……」 「……」  熱いシャワーを浴びたばかりのアデルからは、清潔な匂いが漂ってくる。自分は酒と外の気配とが混じって、きっと酷い臭いだろう。  こんな状態で体を見せるなんて耐えられそうにない。もっとも、風呂上がりでも難しそうだ。  体を守るように小さくなったミランを見て、アデルは困惑した表情を浮かべていた。 「もしかして、寝ているあいだになにかしてしまっただろうか。蹴るとか殴るとか押しつぶすとか……」 「ち、違います。アデル様はちょっと寝起きは悪そうでしたけど、そういうんじゃないです!」  口から正直に出た言葉に、彼は気まずそうに髪をかき上げた。 「……朝は弱くて」 「そういう人ってけっこういますよ。大丈夫です、俺は親近感を覚えたくらいです!」 「朝が弱いのが? みっともないだろう」 「いえ、ちょっと子どもみたいだなって思ってました! お気に入りの毛布を抱きしめて眠る感じで……えっと……可愛い? っていう言葉は変かもしれないですけど……」  反射的に言った台詞だったが、よく聞くとものすごく失礼だ。  訂正しようと顔を上げたミランは、アデルが顔を真っ赤にしていたからぽかんとした。 「……もしかして、ミランの様子がさっきからおかしいのって……」 「……! えっ、あっ、あの、意識してるとかそんなんじゃないんですよ……! えっと、ちょっと恥ずかしくて!」 「それは語るに落ちるというやつでは……ああ、もう!」  アデルは赤い顔のまま、きっと強い視線を向けた。 「思わせぶりなことをして振り回さないでくれ。君を困らせたくない」 「……」 「だ、抱きしめて寝ていた俺が言えた義理ではないけれど……少し、気にしてほしい」  言われたことの意味がわからず、ミランはしばらく脳内でその言葉を繰り返した。  思わせぶり。  振り回さないでくれ。  気にしてほしい。 (それって、つまり……)  ミランは今度こそ、アデルに向かって背中を向けた。  穴を掘って隠れたいとはこういう気持ちをいうのだろう。今はモグラやネズミになってもいいから穴を掘って隠れたい。  この赤い顔を隠せるならなんでもできる。ちぐはぐな体と心の天秤の処理が全然できなくて、脳が誤作動を起こしたとしか思えなかった。  しかし、部屋の隅っこで丸くなっている姿は家主には丸見えである。 「ミラン」  寝起きとは言えない時間が経ったのに、声が掠れて低く感じるのはどうしてだろう。  ミランは顔を上げることなんてできず、イヤイヤをするように頭を振った。  床が軋む音がして、大きな気配が近づいてくるのがわかる。濃密な彼の存在感。  アデルが重力の中心になったみたいに、意識が全てそちらに持っていかれるみたいだった。  変だ。自分はおかしい。ミランはいつの間にか震えている指先をぎゅうと握りしめる。  こんなにわかりやすい反応をしたらきっと困らせる。そもそも、その感情の自覚さえ、今の今までなかった。  会うと楽しいとか、笑顔が好ましいとか。低い声を聞くと安心するとか、優しさが胸にしみるとか。  これに恋と名前を付けるべきなのか、経験がまるでないミランにはわからなかったのだ。  けれど彼は、ミランの逃げを許さない。  いつの間にか、アデルは壁に手をついて、ミランを閉じ込めるみたいに自分の身体で檻を作っていた。  気づいた時にはもう遅く、思わず視線を上げてしまえば眼差しが逸らせない。  覗き込むアデルの青い瞳は美しかった。虹彩の境目がぼやけて、瞳孔の濃さを引き立たせる。  吸い込まれるようだと、ミランはぼんやり考えている。  呼吸も忘れるとはこういう瞬間を言うのだろうか。今、世界の時が止まったとしても、ミランはずっとアデルを見ていられるとふと思う。 「ミラン、……いい?」  何をと聞くのが無粋なのかすら、ミランには判別がつかない。  心臓の高鳴りと同じリズムで唇を震わせたミランは、受け入れるように鼻先を上げた――その時だった。 「アーデールーくーんっ! あーそびーましょー!」  ドアをばんばん叩く音と、けたたましい声は同時に響く。  声の主はマルティンだった。 「……チッ」  アデルのめったに見られない乱暴な舌打ちに謎の感動を覚えたくらいなので、ミランの頭のネジはどこかおかしくなっているとしか思えない。  そんな中でも、どこか色づいた空気が霧散したことに、心の底からマルティンに感謝を伝えたいと思った。  ** 「いやー、朝ごはん作りすぎちゃってさー。俺もまだ酔ってるのかも、あ、トリシャになんだけどー」  朝から聞くにはその惚気は破壊力が強すぎた。  ものすごく不機嫌なアデルも同じなのだろう。「置いたら帰れ」ときっぱり言う精神力がすごい。ミランならどれだけ腹が立っていても、相手と仲が良くても他人にその言葉は言えまい。 「帰るわけないじゃん、せっかく来たんだから。――おはようミラン。やっぱり泊まったんだね、昨日は一緒にベッドに寝たの? 狭くなかった? でも温かかったでしょ、こいつ。肉布団みたいなもんだから」 「……ええと、はい……よく眠れました……」  思い出してしまうからやめてほしい。顔は赤くなっていないだろうか? さっきの沸騰しそうな熱と比べたら今は落ち着いているから、何事もないと信じたいところではある。  願いとは裏腹に、マルティンは何か感じ取ったようだった。にんまりと笑って、アデルの肩をばしばし叩く。 「俺の情操教育も捨てたもんじゃないでしょ。いやー、よかったよかった」 「……」 「何で睨むんだよ、怖いな。若い子相手なら嫌われちゃうよ」 「……朝から……血圧が上がりそうだ……」  頭痛がするとばかりに頭を押さえているアデルは若干哀れではあった。  元凶のマルティンは一切気にせず、バスケットから出した食事をテーブルに広げていたが。  昨日作ったパンは夜に食べきってしまったが、どうやら同じものらしかった。トリシャがデモとして仕込んでいたほうかもしれない。薄く切ったそれを焼き、たっぷり具材を挟んである。  トマトの瑞々しさが、今のミランには嬉しい。アデルには悪いが舌鼓をうち、ぱくぱく食べた。 「……あれ? ミラン、もしかしてシャワー浴びてない?」  自分は家で食べてきたというマルティンが、キッチンで勝手に入れたコーヒーを飲みながら首を傾げる。 「アデルはさっぱりしてるよね」 「あ、帰ってから浴びようかなって……悪いですし」 「気にしなくていいのに。湯上りなんて男にはご褒美みたいなもんなんだからって、痛! 痛い! 朝からやめて!」 「それはこちらの台詞だ」  アデルはマルティンの頭をまるでボールでも掴むように上から押さえつけている。つくづく彼はマルティンに容赦がない。  そうはいってもお互い様なような気がした。マルティンも大概である。 「あ、あとこれ、トリシャからのお土産で、違うレシピのパン。美味しかったら今度は通常レッスンに来てねだって」 「すごい、花のかたちなんですね。ミアが喜びそうです」 「ミア? ……って、ああ、あの小さい子か。俺は会ったことないけど」 「あっ……そうだ、マルティンさん、その節はありがとうございました」  うっかり言うのを忘れていた。トリシャが伝えてくれてはいると思うが、直接言うのが誠意というものだろう。  するとマルティンは「いいのいいの」と手をひらりと振った。 「俺も会ってみたいな。アデルみたいなでかいのに懐くんだからいい子に違いない」 「お前はよく喋るから疎ましがられそうだな」 「はあ? 初恋泥棒の異名を持つ俺になんてこと言うんだ。いいんだ、その時は秘密兵器を持っていくから!」  初恋泥棒はよくわからなかったが、よく喋るミアとマルティンが揃うとどうなるか、ミランも気になる。 「写真を喜ぶ子どもって結構多いんだよ。特に親の写真とか、お気に入りのおもちゃの写真とか」 「秘密兵器ってそういうことですか」 「そそ、プレゼントしてあげると掴みはばっちり。俺のことを一生忘れない」 「……それ、初恋泥棒とは言わないんじゃ……?」  そんなミランの呟きを、マルティンは聞こえなかったとでも言いたげにコーヒーを飲み、「まあ縁があったら会えるでしょ」と笑い飛ばした。  まるで出会った時のアデルの言葉のようだ。疑問に思えば、彼はそちらには返事をくれた。 「仕事で見回りをするから一人の人とは何回も会うけど、お互いに顔を覚えて、存在を認識して、職務を超える仲になるっていうのはめったにないよ。仕事の一環ってセーブしてるせいもあるけどさ、仲良くしたいなって思わないとまず先に進まないね。そういう印象も含めて縁っていう感じかな。……そう思うと俺たちが使う縁って言葉は、他の人よりもちょっと重たいのかもしれない」 「わかったようなわからないような……」 「アデルにとっては、ミラン君とミアちゃんには縁があるってことが事実だよ」  彼はそう締めくくり、我が物顔でコーヒーを入れていたカップを洗い、荷物をまとめた。  外套を羽織りにんまり笑う姿は本当に狐っぽくある。 「さて、お邪魔虫っぽいので俺は退散しますね」 「……お、俺も帰ります! 一緒に連れて行ってください!」  今二人きりにされたらそのまま心臓が焼けて死ぬ。ミランはほとんど訴えるようだった。 「え? いいの?」 「いいんです、アデル様のお休みを邪魔したくないですしシャワーも浴びたいですし!」 「アデルはいいの?」 「……。なぜ俺に聞く? 本人が帰ると言っているんだから、それは俺が決めることじゃないだろう」  そんな会話はよそに、ミランは過去一番の早さで身支度を整えた。騎士のマルティンと一緒ならまさか止められることはないだろうと踏んで、正解だったようだ。  本当に今日はマルティンに助けられている。今度から足を向けて寝られないくらいだ。 「外の様子だけ見たいから先に外に出てるね。このへん、路上で酔いつぶれてる人とかいるからさ。下手したら凍死だっての、よくやるよね。じゃあね、アデル」 「ああ。また職場でな」 「えっあっちょっ……」  伸ばした手も空しく、マルティンは早々に部屋を出てしまった。早いと思ったはずの自分の行動の数倍は早い。職業が成せる技だろうか。  図らずもアデルと二人きりになってしまった。  沈黙は金ということわざがあるが、今のミランには沈黙は苦である。 「昨晩は本当に迷惑をおかけして申し訳ありませんでした! お詫びはそのうちしますので!」 「気にしなくていい」  ミランは半ば叩きつけるように礼を伝え、突進する勢いで玄関に向かった。  顔を見られないのは数十分前のあの気配を思い出してしまいそうだからだ。  カーテン越しの朝日に透ける金髪。伏せた長いまつ毛に、腕の良い造形師が作った陶器みたいな顎のライン。熱を帯びた瞳の力強さ。  考えまいとしたはずのそれを思い出してしまったのは失敗だ。靴ひもを結ぶ指がうまく回らなくて、いつの間にか近くにいたアデルが手伝ってくれる。 「寒いのか? やはりもう少しうちにいたらどうだ」 「いえ、本当にお構いなく……」 「よかったら持っていくといい。返すのは今度で構わないから」  アデルは壁にかけていたマフラーをとり、ミランの首に巻いた。濃い緑色の毛糸は光沢がある。やや硬い触り心地ではあるものの温かかった。  靴を履かせてもらい、マフラーを巻いてもらうのは、子どもが親にされるがごとく、まさに至れり尽くせりであった。 「風の魔法糸を編み込んだ特別製だ。強風でも身を守ってくれるから温かいよ」 「そんないいものお借りできません!」 「予備があるから構わない。それにこれも、俺が込めた魔法を使っているから技術料はかかっていないんだ」 「……必ずお返ししますね」 「貰ってくれてもいいが‥‥まあ、うん」  アデルはマフラーのずれを触って直す。甘やかすような行為はどうしても慣れず、ミランは先程とは違う意味で身を固くした。  目ざとい彼はそれに気が付き、両手をぱっと上げてからりと笑う。 「近かったな」 「……いえ」 「困らせついでに君に言っておきたいことがある」 「……何ですか?」  アデルはそのまま一歩下がった。急に距離が遠ざかったことから、彼の気配がやや薄くなる。  部屋と廊下の境目、その壁に背をつけ、アデルは言った。 「次に会ったら言うから、ちゃんと聞いてほしい」  何を。それを訊ねるのは墓穴だ。彼が与えてくれている猶予を台無しにする行為に他ならない。 「先程はやや早まった。すまなかったな、本当に俺は朝が弱いようだ」 「……」  どう言葉を返せばいいのか、そのあたりの壁に言葉を探すようにミランは視線を動かしたが、当然書いてあるわけがない。深呼吸一つ分のあとに、ミランはアデルの真摯な瞳を静かに見返し、頷いた。 「お邪魔、しました」 「いいえ。……また連絡する」  ミランはぺこりと頭を下げると部屋を出た。  出てから気づいたが、この集合住宅は周囲のものと比べたら質が良いようだ。木造ばかりの周りに対し、石の建材でできている。  とはいえ場所としては下町で、この喧騒も頷ける。  階段を下りた先でマルティンが待っていた。ミランの姿を認めると手を上げて「もういいの?」と訊ねた。 「てっきり残るかと思ったよ」 「そんなことは……むしろ助かりました」 「あらら。アデルのこと、怖くなっちゃった?」 「いえ、それはないです」  怖いというなら、次に会う時のほうがよっぽど怖い。  何を言われるか、さすがにミランでもわかる。  与えられた時間を使い、ミランも考えないといけない。返事をどうするか以前に、今、胸に宿っているこの気持ちの在り方について。  きっぱり答えたミランが意外だったのか、マルティンは目を丸くした。そうすると彼の瞳は濃い栗色なのだとわかる。  カスターニエの色だ。  急に吹いた突風が外套の裾をはためかせる。寒いと身を竦めたマルティンの横で、ミランは少しもそれを感じなかった。  マルティンはそんなミランを不思議そうに見つめ、首元のマフラーを見て合点がいったと頷いた。 「甘やかされてるねえ」 「……そうでしょうか? アデル様の優しさは皆に等しく向けられているように思います」 「それは違いない。でも何だろうね、君には違うみたいだ。最近のあいつはなんだか楽しそうだよ。普段俺に写真なんて頼まないのに、カスターニエを撮らせてみたり、料理教室はもう行かないって言ってたくせに、ちゃっかり行ってみたり」 「それは……」 「全部君のため。ね、何でだろうね?」  思わせぶりなマルティンに、今のミランは動じなかった。  そこでふと、いつもより良好な視界に、眼鏡を忘れていたことに気が付いた。  持ち物を探ってみると、見知らぬ布に包まれて鞄の中に入っている。間違いなくアデルだろう。  いそいそと眼鏡をかけたミランに、マルティンは呼びかけた。 「行こうか。送っていくよ」 「すみません、大通りまでお願いします」 「アデルだったら家までついていくよ。任されてるから、送らせて」 「……お手間をかけて申し訳ないです」 「いえいえ。あ、でも朝帰りの息子さんを送ってきたらびっくりさせちゃうかなー?」 「……! そうだ、連絡してない……!」  大目玉を食らうかと身構えたミランだったが、息子が夜遊びする甲斐性を見せたと母は喜び、新たな騎士の登場に祖父は拝み、父だけが心配して小言をくれた。  なんだかちぐはぐな家族の反応に、ミランはそこで、やっと息を吐けたのだった。 

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